西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

深井純一さんの思い出

2012-01-31 | 京都の思い出(助手時代)
深井純一さん(立命館大学名誉教授)が1月27日に肺炎で亡くなられた、享年70歳、私と同年生まれであった。深井さんとは、宮本憲一先生(大阪市大名誉教授、元滋賀大学長、経済学・財政学)をヘッドとする関西水俣病問題研究会でご一緒し、水俣に何度か現地調査に行った仲である。1971年頃から最初は自費で、そのうち科研費(総合研究)がでて数年間通ったのではないか。まあ調査地域として水俣以外、沖縄、堺・泉北コンビナート地域で、開発により引き起こされる問題解明と住民主体の開発のあり方がテーマだった。

水俣調査の成果は宮本憲一編の『公害都市の再生・水俣』(筑摩書房)にまとまっている。私は、建築・都市関係で京大の三村浩史助教授(当時、現・京大名誉教授)のもとに院生何人かと参加した。当時、私は京大助手だった。水俣病患者の住宅、「地域居住問題」を調査、追求して、その本に論考を書いた。深井さん(当時、立命館大学助教授)は、農業経済学専攻、他に財政学、漁業経済学の方々も参加された。

調査の合間に色々なことを駄弁ったことを覚えている。我々は東大、京大と別れて入学したが、同じ1960年入学で「安保闘争」に参加したことは共通していた。深井さんは、理Ⅱの学生で工学部の建築学科に進学も可能だったが、安保闘争に参加したむしろ旗の農民姿に感動して、国の基は農業だ、と感じて、農学部農業経済学科に進学したと聞いた。岩波新書で『土地に刻まれた歴史』を書かれ、また記憶のみにたよって書かれた『こども達の大正時代 田舎町の生活誌』などの著書がある古島敏雄教授に師事された。

その後、自治体問題研究所などを通じて宮本憲一先生と知り合ったのではないか。

水俣調査の数年間の後、一定の論考にまとめた他、私は関心は持続し、ニュースなどには(今でも)注目し、時々夏休みなどの集団調査のイベントなどにも参加したが、深井さんのように1/4世紀にわたり水俣病問題の行政責任追及に熱意を燃やしてきたのは我々のチームでは深井さんただ一人だったと言えよう。

水俣問題追及以外でも学生のゼミ指導で熱血漢(熱血教授)ぶりを発揮し、その記録の本も確かあったはずだ。立命館の産業社会学部のゼミは30人ほど、全部の考え方など到底覚えられないので、深井ゼミ新聞を順に編集させ、自己紹介など書いてもらい顔と考え方を覚えている、とも伺った。まあ、気分の「上がり下がり」にもかなり激しいところがあった。一つのことに集中する時期があり、果物酒を熱心に作っていた時期には、よくもらったりした。

まあ「正論堂々主張派」でもあったので、あちこちでぶつかっていたかもしれない。

『資本論』でマルクスが書いている「そこがロドスだ、そこで飛べ」(今様に言うと「そこがパラダイム転換点だ、思い切ってジャンプしろ!」)という言葉が好きだったのではないか・・。今頃、深井純一さんは、あちらでマルクスや古島先生に議論をふきかけているかもしれない。

ご冥福を静かに祈りたい。

写真は、深井さんの著書表紙

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