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黄金の国ジパング

2018-02-07 06:12:13 | 日記

マルコ・ポーロの「東方見聞録」には、ジパングはカタイ中国大陸)の東の海上1500マイルに位置する島国で莫大な金を産出し、王の宮殿は金でできていると書かれています。

 モンゴルクビライが送ったジパング征服の軍は暴風で船団が壊滅し、生き残って島に取り残された兵士たちは、この島国で暮らすことを認められて住み着いたと云う記述もあり、「元寇の役」をかなり正確に伝えています。

平安時代末期の奥州は莫大なを産出していて、マルコ・ポーロのジパングの話は奥州藤原氏平泉中尊寺金色堂がモデルとされますが、果して日本は歴史的に見て黄金の国だったのでしょうか。

金は風化の結果で生まれた金塊や砂金が採集できたため、精錬が必要ななどよりも早くから人類が利用してきた金属です。展性・延性に優れ、1gあれば数㎡まで広げることができ、長さでは3,000mまで延ばすことができます。金は装飾品として利用された最古の金属で、貨幣としても流通してきました。

金は紀元前3000年代には使われ始め、古代エジプトのヒエログリフ(エジプト文字)には紀元前2600年頃から金についての記述が見られ、エジプトとヌビアは有数の金の産出地でした。最古の金属貨幣は紀元前670年頃にリディアアリュアッテス2世王により造られたエレクトロン貨で、天然の金銀合金に動物や人物を打刻しています。

中国では時代(紀元前16世紀~11世紀頃)にすでに装飾品として金が使われ、春秋戦国時代紀元前770年~221年)には貨幣や象嵌材料として使用されました。

日本での古代の金の製品としては、福岡県志賀島で発見された漢委奴国王印があります。古墳時代には奈良県東大寺山古墳出土の「中平」銘鉄剣や埼玉県稲荷山古墳出土の「辛亥」銘鉄剣などに、鉄地に金線を埋め込んだ金象嵌がみられます。

奈良時代までの日本は金を産出せず、朝鮮半島新羅高句麗から輸入されました。749年奥州で砂金が発見されたと云う百済王敬福の記述があり、8世紀後半からは逆に渤海・新羅などへ輸出され、遣唐使の滞在費用として砂金が持ち込まれて、後の「黄金の国」のイメージが作られました。

奥州藤原氏は前九年の役後三年の役の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)まで、平泉を中心に東北地方一帯に勢力を張った豪族です。産金による経済力を背景にした平泉文化が栄え、中尊寺金色堂マルコ・ポーロが紹介した黄金の国のモデルになったとされます。

 

金は耐食性・導電性・低い電気抵抗などの優れた特性を持ち、20世紀になってから工業金属として様々な分野で使用されています。近年、廃棄された工業製品(携帯電話などの電子基板)を溶解し、金・リチウムなどの貴金属やレアメタルを回収するのを都市鉱山と呼んでいます。

金は自然金として得られることがほとんどです。金は火成岩中にも極微量に含まれますが採算が取れるほど固まって産出されるのはまれです。通常、石英炭酸塩、まれに硫化物の鉱脈の中に自然金として存在します。硫化物では黄鉄鉱黄銅鉱方鉛鉱閃亜鉛鉱硫砒鉄鉱輝安鉱磁硫鉄鉱などの鉱床に含まれています。鉱床は風化や浸食を受け、金は砂金として小川などに流れ出ます。

 金鉱山が経営的に成り立つには、平均して1,000 kgあたり0.5gの金を産出する必要があります。典型的な鉱山では露天掘りで1~5g/1,000 kg、通常の鉱山で3g/1,000 kg程度です。人間の目で見て金と分るには鉱脈型の鉱床で少なくとも30g/1,000 kg程度の濃度が必要です。

南アフリカ共和国1880年代から世界の金の3分の2を産出していましたが、2004年時点では3分の1まで比率が低下しました。2009年の金産出国ランキングでは1位が中国で320t、2位アメリカ223t、3位オーストラリア222t、4位南アフリカ共和国189t、5位ロシアの191tで世界の合計は2.450tです。

イギリスの貴金属調査会社トムソン・ロイターGFMS社の統計によれば、2014年末時点までに採掘され精製加工された金の総量は183,600tになります。主要各国の保有量はアメリカ8,134t、ドイツ3,413t、フランス2,541t、イタリア2,452t、スイス1,064t、日本765t、オランダ621t、中国600t、インド358tです。

我が国では戦国時代に甲斐の黒川金山湯之奥金山で、金山衆により採掘された金鉱石を精錬して金を生産していました。佐渡の金脈はまだ発見されておらず山の反対側で鶴子銀山が採掘されていました。

今昔物語集」の巻二十六・第十五話では「能登の国の鉄を掘る者、佐渡の国に行きて金を掘る語」と佐渡で金が採れることを伝えています。11世紀後半には砂金などの形で佐渡で金が出ることが知られていたようです。

佐渡鉱山の歴史は1601年(慶長6年)に、相川の鶴子銀山で銀の採掘をしていた3人の山師が金銀鉱脈を発見したことに始まると伝えられます。1603年(慶長8年)関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は佐渡を直ちに直轄領とし、甲斐の出身で金採掘に詳しい大久保長安を奉行として、最大鉱脈の青盤脈をはじめ露天掘りの道遊脈・大切脈・鳥越脈などの採掘を相次いで開始しました。

1600年代前半の最盛期には年間に金400kg、銀40t以上を産出して日本最大の金銀山となり、幕末まで約270年間にわたり計41tの金が採掘されて江戸幕府の財政基盤を支えました。

江戸時代中期からは産出量が衰退してしまい、1869年(明治2年)明治政府は西洋人技術者を送り込んで、1877年(明治10年)には洋式技術を用いた選鉱場と、日本金属鉱山では初めての洋式竪坑(たてこう)の大立竪坑が竣工しました。

1885年(明治18年)貨幣制度を金本位制へ移行するため、明治新政府は佐渡鉱山のさらなる増産を目指します。佐渡鉱山局長に大島高任を任じ、高任立坑の開削、ドイツ式の新技術による北沢浮遊選鉱場の建設、大間港の整備などを次々に行いました。その後生野鉱山などと共に1896年(明治29年)に三菱合資会社に払い下げられ、佐渡金山は急成長を遂げます。

明治後期には動力の電化など機械化を進め、佐渡の産金量は年間400kgを超える江戸時代最盛期並みに盛り返しました。三菱の近代的採鉱・選鉱技術は93年間に33tの金を産出し大きく貢献しました。

佐渡鉱山は日本最大級の金山としては歴史の幕を下ろしましたが、操業を休止したのはごく最近の1989年(平成元年)です。総計で金78t、銀2,300tを産出しました。現在は「史跡佐渡金山」として一般公開されており、世界遺産への登録を目指しています。

 玉山金山は陸前高田を産出した鉱山で、マルコ・ポーロの「東方見聞録」にある「その金は掘れども尽きず」が玉山金山であるとされます。「陸奥の金」として日本で初めて金が発見された金山の1つで、天平の時代にもすでに砂金を産出していました。

その産金は奈良東大寺の大仏に使われたほか奥州藤原氏の黄金文化を支え、中尊寺金色堂にその膨大の産金量が見て取れます。藤原清衡が10万5千両の金をに贈り、朝廷に年々4貫目の金を朝貢して殿上人を羨望せしめたと云われます。平重盛が唐の育王山に寄贈した3千5百両の金も玉山産出です。

豊臣秀吉は玉山を直轄として金山奉行を配し、その後は伊達氏の所有となり伊達政宗以降三代の栄華の源となったほか、慶長遣欧使節に要した費用はすべて玉山の産金によるものと云われます。1673年頃からは次第に産金量が減りました。

和右ェ門坑は1611年に小野寺源太郎が3か月で140万両の金を掘り出したと云われており、玉山で最も多く金を産出した坑道です。1904年明治37年)に日本銀行副総裁の高橋是清日露戦争の軍資金として、欧米から8億円借入れた時に玉山金山を抵当にしています。

大葛鉱山(おおくぞこうざん)は秋田県大館市にあった鉱山で、主にを産出したため大葛金山とも呼びます。発見は708年とされ東大寺仏像鋳造に献金し、金閣寺造営にも献金したと云われます。

西伊豆の土肥金山は1577年(天正5年)に発見され、佐渡と並んで幕府直轄の金鉱山として採掘されました。ここで掘られた金40t、銀400tは葵定紋の千石船で江戸に運ばれ、慶長大判・小判の地金となっています。1970年(昭和45年)に廃坑になりましたが、資料館「黄金館」にはギネス認定の250kgの大金塊が常設展示されています。

 かつて日本国内に存在していた多くの金鉱山は江戸時代前期の寛永年間以降徐々に産出量が減って、大正昭和初期に東洋一の金山と云われた北海道鴻之舞金山も採算ベースに乗る金を掘り尽くし、1973年(昭和48年)に閉山しました。現在我が国では唯一菱刈鉱山が、1985年(昭和60年)から採掘されているのみです。

菱刈鉱山は鹿児島県北部にあります。1985年の出鉱開始以来2017年3月末現在までに230.2tと、佐渡の82.9t、鴻之舞の73.2tの3倍の金を産出しました。現在も年間6〜7tの金を産出しています。

菱刈鉱山の金鉱石は1tあたり30〜40gの金を含んでいます。世界の平均的な含有量は鉱石1tあたり3gなので、金の含有率が非常に高いのが特徴です。菱刈鉱山の坑道は標高265mの坑口から海抜マイナス50mまで、あわせて100㎞以上あり大型の鉱山用重機が自由に動ける大きさの坑道が網の目のように巡らされています。

金属鉱業事業団が江戸時代に産金地であった菱刈で昭和40年代より金鉱探査を行って、1981年(昭和56年)に鉱脈を発見しました。1985年から住友金属鉱山が採鉱しており、菱刈鉱山の産金量は年間国内産金量のほぼすべてを占めます。

菱刈の金埋蔵量は250tと推定され、これは国内の他の主要金山すべてを合計したものを上回る大規模なものです。1997年(平成9年)には鉱山の累計産金量が国内トップの83tとなり、2012年(平成24年)には新たな鉱脈も発見されました。

青森県の恐山では温泉沈殿物として金の異常濃集体が発見されています。金の含有量は鉱石1t当たり平均400g、場所によっては6,500gにも達しますが、この一帯は国定公園に指定されている上に、土壌には高濃度の砒素が含まれていて作業者の生命にも危険が及ぶため、商業目的の金の採掘は不可能です。砂金が恐山のお土産に売られています。

我が国の国土面積は378,000 km²で、世界の総陸地面積148,940,000 km2の0.25%に過ぎませんが、日本に「地上資源」ないし「都市鉱山」として存在する金は約6,800tあり、全世界の金の現有埋蔵量の16%に及ぶと云われます。この数字をもって現代の日本も、黄金の国ジパングと考えることが出来るかどうか、みなさんのお考えはいかがでしょう。

 

 

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