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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

東条英機と竹槍事件 

2024-08-01 06:21:03 | 日記

「竹槍事件」は第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)2月23日付けの毎日新聞第一面に掲載された、戦局解説記事が原因となった言論弾圧事件です。毎日新聞社政経部の記者で、海軍省記者クラブの主任記者であった新名丈夫(しんみょう たけお)が執筆した「勝利か滅亡か 戦局はここまで来た」という大見出しの記事が南方の防衛線の窮状を説き「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」というもう一つの記事で、さらに、海軍航空力の増強を訴えたのです。

東條英機首相はこの記事に怒り、毎日新聞は大本営報道部長から掲載紙の発禁および編集責任者と筆者の処分を命じられます。毎日新聞は編集責任者を処分しましたが筆者は処分せず、新名はほどなく37歳にして陸軍に召集されます。

この事件の背景には海軍が海洋航空力増強のためにより多くの航空機用資材を求めても陸軍が応じず、海軍機の工場の技師を召集するなど、航空機や軍需物資の配分をめぐる陸海軍の深刻な対立がありました。

深刻な航空機不足に直面していた海軍は陸軍や東條への不満が強まっており、新名が吉岡文六編集局長に「日本の破局が目前に迫っているのに国民は陸海軍の酷い相克を知りません。今こそ言論機関が立ち上がるほかありません」と、海軍に同調した記事を書く上告書を提出したのです。

新名は1つの記事で「勝利か滅亡か戦局はここまで来た、戦争は果たして勝っているのか、ガダルカナル以来過去一年半余我が陸海将兵の血戦死闘にもかかわらず、太平洋の戦線は次第に後退の一途を辿っている事実をわれわれは深省しなければならない」

「日本は建国以来最大の難局を迎えており、大和民族は存亡の危機に立たされている。大東亜戦争の勝敗は太平洋上で決せられるものであり、敵が日本本土沿岸に侵攻して来てからでは万事休すである」と説き、

もう1つの記事「竹槍では間に合わぬ。飛行機だ、海洋航空機だ」では「大東亜戦争の勝敗は海洋航空兵力の増強にかかっており、敵の航空兵力に対して竹槍で対抗することはできない」

「ガダルカナル以来の我が戦線が次第に後退のやむなきに至ったのも、アッツの玉砕も、ギルバートの玉砕も、一にわが海洋航空戦力が量において敵に劣勢であったためではなかろうか」と述べました。

同じ日の一面にあった毎日新聞社説も「今ぞ深思の時である」と精神主義について批判し「我らは敵の侵攻を食い止められるのはただ飛行機と鉄量とを、敵の保有する何分の一かを送ることにあると幾度となく知らされた。然るにこの戦局はこの要求が一向に満たされないことを示す。必勝の信念だけでは戦争に勝てない」と批判し、陥落したばかりのマーシャル・ギルバート諸島から日本本土や台湾・フィリピンへ至る米軍の予想侵攻路が添えられていました。

新名は日米開戦当初から海軍を担当していて、昭和18年1月から約半年間はガダルカナルで前線の惨状をつぶさに見、またマーシャル・ギルバート陥落では大本営が20日間も報道発表をためらって大騒動を演じている様子を見て、日本の窮状と大本営の内状をよく把握していました。

実はこの日の毎日新聞一面の「トップ記事」は、前日の2月22日に東条首相が閣議で発表した「非常時宣言」を載せた特別な記事だったのです。

東條は戦争遂行のために国務と統帥の一致が必要と考えて首相・陸相と参謀総長の兼務に踏み切り、「非常時宣言」の中の本土決戦では「一億玉砕の覚悟」を国民に訴え、銃後の婦女子に対しても死を決する精神的土壌を育む意味で竹槍訓練を求めました。

東条の写真が大きく掲載されたそのトップ記事の直下に「竹槍では間に合わぬ、 飛行機だ、海洋航空機だ」と真っ向からそれに挑戦する見出しが躍ったのです。陸軍報道部は毎日新聞に処分を要求、内務省は掲載新聞朝刊の発売・頒布禁止と差し押さえ処分を通達しましたが、問題の朝刊は配達を終えた後でした。

同日の毎日新聞夕刊のトップには、火に油を注ぐように「いまや一歩も後退許されず、即時敵前行動へ」と題する記事が、再び、掲載されます。

「日本の抹殺、世界制圧を企てた敵アングロサクソンの野望に対し、われわれは日本の存亡を賭して決起したのである。敵が万が一にもわが神州の地に来襲し来らんには、われらは囚虜の辱めを受けんよりは肉親相刺して、互に祖先の血を守つて皇土に殉ぜんのみである。われらの骨、われらの血を以てわが光輝ある歴史と伝統のある皇土を守るべき秋は来たのだ」と戦争自体は肯定した上で、現状の戦況悪化を伝え、その打開策を提言したのでした。

東條は「統帥権干犯だ」と怒り、新名は吉岡文六編集局長に進退伺いを提出しましたが吉岡は受理せず、3月1日吉岡局長自身が加茂勝雄編集局次長ともに引責辞任しました。この記事は毎日新聞読者の大きな反響を呼び、海軍省報道部の田中少佐は海軍省記者クラブで「この記事は全海軍の言わんとするところだ」と述べています。

東條は村田五郎内閣情報局次長に「竹槍作戦は陸軍の根本作戦ではないか。毎日を廃刊にしろ」と命じます。村田は「日本の世論を代表している新聞のひとつがあのくらいの記事で廃刊になれば、世論の物議を醸し、外国からも笑われます」と東條を諫めました。

陸軍報道部は翌24日の朝日新聞に「陸軍の大陸での作戦は、海軍の太平洋での作戦と同じくらい重要だ」という内容の指導記事を掲載させます。

毎日新聞は責任者を処分しましたが、新名には編集局長賞を与えました。記事執筆から8日後に新名に召集令状が届き、新名本人も周囲も、東條首相による「懲戒召集」だと受け止めました。

新名は二等兵として丸亀の重機関銃中隊に入営しました。激戦地となることが予想される硫黄島の「球」部隊へ転属させるよう中央から指令が届いていましたが、「球」の通称を持つ部隊は実は沖縄に配置された第32軍でした。

新名の召集に海軍の抗議があり、新名は日中戦争で善通寺師団の従軍記者をしていた縁で、中隊内では特別待遇を受け3か月で召集解除となり、便宜を図ってくれた中隊長は再召集を避けるのに内地にはいないほうがよいと示唆します。

陸軍は案の定新名の再召集を試みましたが、海軍が先回りして報道班員として外地に送ってしまっていました。当時、新名の年令の召集兵は1人もおらず、陸軍は新名と同じ30台後半の250人を召集して辻褄を合わせました。

当時の海軍報道部長栗原悦蔵少将は「もう太平洋の制空権はほとんど失ってしまった」「海軍としては国民全体に知らせたいと思って、私もずいぶん海軍省記者クラブにも図ったが、書く人がいない。そこを新名さんが書いてくれた」と証言しています。

これに先立つ2月17日、日本海軍が中部太平洋の拠点としたトラック島がアメリカ海軍機動部隊の猛攻で壊滅的打撃を受けて無力化されました。東条内閣は21日には「軍」の意思が政治を支配できるよう、行政と軍の統帥を分ける慣例をやぶって、陸軍大臣、軍需大臣を兼務する東條首相が陸軍参謀総長を兼務、嶋田繁太郎海軍大臣が海軍軍令部総長を兼務する人事を断行しました。

さらに2月22日には閣議を宮中で行うよう従来の慣行を改め、毎日新聞は2月23日一面トップで「皇国存亡の岐路に立つ 首相・閣議で一大勇猛心強調 秋(とき)正に危急、総力を絞り 果断・必勝の途開かん 転機に処す新方策考へあり」 と報じたのです。

しかし、なんと、その一面トップ記事の真下に「勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た 眦(まなじり)決して見よ、敵の鋏状侵冠」と題する記事と「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と題する2つの記事を載せたのです。

「今こそわれらは直視しなければならない、戦争は果して勝つているか、ガダルカナル以来過去一年半余り、わが忠勇なる陸海将士の血戦死闘にもかかわらず太平洋の戦線は次第に後退の一路を辿り来った血涙の事実を、われわれは深省しなければならない」

「航空兵力こそが主兵力となり決戦兵力となった現在の太平洋の戦いにおいて、航空戦が膨大な消耗戦であることから目をそらしてはいけない。海上補給にせよ、潜水艦戦にせよ、飛行機の掩護なしには成り立たず、ガダルカナル以来の戦線が次第に後退したのも、アッツやギルバートの玉砕も、一にわが海洋航空兵力が量において敵に劣勢だったためではないか、航空兵力こそ勝敗の鍵を握るものなのである」と述べ

「敵が飛行機で攻めてくるのに竹槍を以ては戦い得ないのだ。帝國の存亡を決するものはわが航空戦力の飛躍増強に対するわが戦力の結集如何にかかつているのではないか」と締めくくっています。

加えてこの日の社説も「決戦体制がいまなお整備されていない」ことを主題としながら、暗に「大本営発表」に疑問を呈し「わが国が今日まで取り来り現在なお取りつつある施策の方針によつて、最後の勝利を獲得する確信があるのか」と刺激的な文言が並びました。

昭和19年暮ルソン島への敵の上陸が予想され、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将は第一航空艦隊附の新名に、特攻隊の様子を内地に伝えることを命じ「第一航空艦隊からの出張」の名目で内地に帰らせます。

日本に帰った新名は人間爆弾「桜花」部隊の初出撃や、厚木の第三〇二海軍航空隊などの前線部隊を取材し、終戦工作の立役者である井上成美大将や高木惣吉少将など海軍中枢とのインタビューを行っています。

新名は敗戦後、取材した特攻隊員たちや報道班員たちの記録を個人で保管していました。それらの記録が初めて世に出たのは、1967年(昭和42年)の写真集「あゝ航空隊 続・日本の戦歴」でした。

新名と特攻隊員たちの交流は戦後長く続き、1981年(昭和56年)病に倒れて入院した身寄りのない新名を多くの元特攻隊員が見舞い、交代でつきっきりで看病したと伝えられます。新名は4月30日死去、享年74。

終戦当時、私は中学3年で中国の天津にいました。満州の重工業地帯を爆撃に行くB29の編隊が天津上空を通過し、P-51 ムスタングの2機編隊が連日蒸気機関車を銃撃に来て、華北交通の1200台の蒸気機関車の内800台が機銃照射で蒸気を噴いて動けなくなりました。内地から補充されてくる召集兵が銃を持たずに丸腰でくるのを見て、これでは勝てる筈はないと思ったものです。

3年になってから授業は1日もなく、兵営に寝泊まりして「手投げ爆弾」の製造をさせられていました。誰も自殺兵器だなどと口に出すものはいませんが、戦車が来るまで蛸壺に隠れて待つにしても、身を乗り出して敵の戦車に投げつける手投げ爆弾ですから、生還はまったく期しえません。

製造作業は粉末の火薬を固めて、爆弾として投げられるように形を整える工程でした。暑いので上半身真っ裸で作業をしていましたが、火薬の中毒で、1日の作業で尿に火薬の色が付き、1週間で下痢が始まり、体力を異常に消耗しました。

正規の火薬工場では中毒を避けるため、皮膚を火薬に曝さないように厳重に全身を覆って作業するのだそうですが、当時、作業させる兵隊も、作業する我々も、火薬中毒などまったく知りません。

敗けると決まっていた戦争が終わって「一億総玉砕」でまったく無駄に死ななければならなかった必然性がなくなった時の解放感は、絶大でした。私が戦後にいろいろな困難に耐え抜いて来られたのも、正に、死ななくて済んだと云う底抜けの解放感に支えられたものでした。

毎日新聞の紙面の写真はブログに引用できませんが、当日の朝刊、夕刊の記事の写真を別途にご参照下さると、その迫力にご納得がいくと思います。

 

 

 

 

 


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