ETERNAL LIFE

ブログの内容は梶原和義先生の著書からの引用です。

本当のユダヤ人がいんちきなユダヤ人を叱っている

2015-11-19 13:39:59 | 日記
人間は、誰でも自分の気持ちで生きていますが、これが死が怖いと思う根本原因なのです。明日死ぬかもしれないというのが、神経質ではなくて、本当に真面目な命の見方なのです。実際、人間は、明日をも知れぬ体を持っているのですから、まだしばらくは生きているだろうという考えが、油断大敵です。今晩死ぬかもしれないとい、真面目な考え、つまり幼児のような考え方が必要なのです。
新約聖書は、キリストの命を書いています。例えば、『わたしのくびきを負って、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう(マタイによる福音書11・10)といっています。イエスのくびきを負うとは何をすることかが、キリスト教では分かりませんが、自分自身に生きないで、イエスに生きるということをいっているのです。
これは、観自在と同じようなことになるのでありまして、自分に生きている間は、その人は死んでいきます。自分に生きなくなると、死ななくなるのです。
イエスが復活した命が、自分自身のとこしえの命になるのです。イエスは、大工の青年でした。この人が、死を破ったのです。日曜日は、イエスの復活の記念日なのです。このように、イエスの復活は、日曜日は休みという形で世界的に認められているわけです。つまり、イエスが死を破ったのは、単に宗教的な問題ではなく、歴史的事実なのです。歴史の実体ということです。
歴史の実体を、神の御霊(みたま)によって受け取るのです。神の御霊というのは、地球が自転、公転している力、太陽が輝いていること、目が見えること、耳が聞こえることそのものです。これが皆、神の御霊の働きなのです。生命エネルギー、天地自然の力を、神の御霊といいます。心臓が動いているのは、天然自然の力で動いているのです。天地自然の力に同化するのが、生かされている自分です。
客観的に生かされている自分は、死なないのです。主観的に生きている自分は、死んでいく人間です。主観的に生きている人間を、やめるのです。自分が自分であることを、やめるのです。
人間が存在する必要はないのです。しかし、地球全体を代表する、理性としての人間という現象はあります。これは、あくまで現象であって、人間という生物とは違うのです。 これを、イエスというのです。
釈尊は、自分自身を空じることを提唱した。イエスは、天地の命に生きることを考えたのです。釈尊は悟ったのであり、イエスは救いを発見した。悟りと救いの二つがいるのです。これが、般若心経と聖書になるのです。
固有名詞の自分が生きていると、必ず死んでしまいます。固有名詞は、社会的存在として、なければ不便ですが、人の本体は、ただ、理性と良心と五官です。イエスは、自分のことを、人の子といっています。人の子は、名なしの権兵衛ということです。
人の実体は、魂であって、固有名詞ではないのです。だから、死なないのです。これが、空を悟った人間です。外見上は、人間が生きているように見えるけれど、本体は、魂です。これを悟ることを、イエスを信じるというのです。こういう感覚で生きると、イエスの復活が分かるのです。
地球が自転、公転していることが神の力なのですから、神の力を自分の力にして生きるのです。天地自然の中へ、自分の命が消化されてしまうのです。これが本当の空です。そうすると、死ななくなるのです。
イエスは、歴史的事実によって、これを証明したのです。日本人は非常に不勉強で、歴史の流れを勉強していないのです。人間の歴史が始まってから今日まで、時間がどのように流れてきたか。歴史の流れはどうなっているのか。なぜ、天地万物が、今のようなかっこうで現われているのか。こういうことを、日本人は、ほとんど勉強していません。森羅万象が、そのまま、天地自然の命を現わしているのです。これが分かればいいのです。
現代文明は、ユダヤ人のトリックです。そんなものに取りつかれているから、いけないのです。ユダヤ人はイエスをキリストと信じることが絶対にいやなので、学理、学説を世界に流し、豪華絢爛な文明をつくり上げたのです。キリストを信じてはいけない。文明を信じなさいというのがユダヤ人の中心思想です。イエスはユダヤ人です。ユダヤ人であるイエスが、ユダヤ人を、ひどく攻撃したのです。そこでユダヤ人が、イエスを殺したのです。そのように、本当のユダヤ人であるイエスが、いんちきなユダヤ人を叱っているのです。
現代文明は、ユダヤのトリックです。そういうものを信じているから、死んでいくのです。もっと、命の実体を、はっきり見ることです。
イエスは、幼児のようになって、神の国へ入れと言っています。神の国とは何かというと、人が生かされている状態です。この中へ入ってしまえばいいのです。
人間は、自分が生きているのではありません。命は、人のものではありません。天地万物の命が、個々の命として、現われているだけなのです。自分の命があると思ってはいけないのです。そういう考え方が、思い上がりです。思い上がりを捨てて、本当に素直になって、自分の魂を見るのです。魂とは何かというと、理性の本体です。魂に目を開くことが、魂の目を開くことになるのです。
永遠の命は、誰でも経験できるのです。寒の行をしたり、滝に打たれなくてもいいのです。考え違いをやめればいいのです。悔い改めて、福音を信じればいいのです。

永遠の生命を得るために

2015-11-19 13:38:03 | 日記
聖書には、神の国という言葉があります。今、人々が住んでいるのは、人間の国なのです。イエスは、生きているうちに神の国を見つけて、その中へ入れと命令しているのです。  キリスト教で考えているイエス・キリストと、聖書に出ているイエスとは、全然違うのです。
イエスは、大工の倅でした。家具とか建具を作っていたらしいのですが、この人が神を見たのです。
地球は現在、自転、公転しています。自転とは、夜が明けて日が暮れることです。公転は一年かかって、太陽の周りを一回りすることです。なぜ地球は自転、公転を始めたのでしょうか。春には花が咲き、秋には実を結びますが、なぜでしょうか。この根本的な原因が、神の約束なのです。
地球には、自然法があります。寒い日には、水が氷になります。水を百度に熱すると、水蒸気になります。これが自然法なのです。自然法が、神なのです。
物が上から下へ落ちます。これが自然法なのです。それが自然科学の原理になっているのです。では、自然法がどうして地球に存在するのかということです。
人間が地球に生まれてきたのは、理由があるのです。花が咲くというのは、命が花という形になって咲いているのです。これが人間の目に見える神の国なのです。
人の心臓が動いています。心臓が動いているのは、花が咲いているのと同じ原理です。花が咲いていることの原理が分かりますと、心臓が動いているという原理が分かるのです。
心臓が動いているという原理が、命の原理です。命の原理が分かって、その原理を生活しますと、生活のあり方が変わってしまいます。命が自分の命ではなくて、天地の命であることが分かるのです。花は天地の命が咲いているのです。
花は枯れますが、死にません。花には死がないのです。人間には死があるのです。死があるのは、咎があるからです。自我意識があるからです。咎があるから人間は死ぬのです。
咎とは業(ごう)なのです。人間がこの世に生まれてきたことが、業なのです。これは自分が造った業ではなくて、人間が生きているという業なのです。
人間が生きているのは、業なのです。だから、人に憎まれたり、人に誤解されたりするのです。この世に生まれてこなければ、業はなかったのです。この世に生まれてきたばかりに、業が発生しているのです。
例えば、自民党と共産党がいつも言い争いをしていますが、これが政治的な業なのです。全世界六十五億の人間は、業に満たされているのです。現在の人間文明は、業のかたまりなのです。この業のかたまりを徹底的に解明していきますと、神が分かってくるのです。 逆に言いますと、神が分かりますと、人間の業が全部解けるのです。自分自身の業が、解けてなくなってしまうのです。神を知るというのは、そういう重要な意味があるのです。
神とは何であるか。神という字を見ますと、示すと申すがついて、神という字になっているのです。これはすばらしい字です。神は何かを示して、申しているのです。
例えば、花は命を示しているのです。命の本体が、美しいものであることを申しているのです。地球が自転、公転していることも、神が示し申しているのです。何を示し申しているか。則を示し申しているのです。
私たちが生きているのは、命の則が働いているのです。生理的に死の別が働きますと、死んでいくことになります。生きることの則、死ぬことの則、人間同士の関係も、則です。 命の原理は何かというと、約束なのです。
示して申すものが、地球を動かしているのです。いわゆる神の足場が、地球なのです。小さく言えば人間存在、大きく言えば宇宙全体が、神の足場なのです。人間とは、小宇宙なのです。
神と人は、本質的に同じものなのです。だから私たちの命の本体が分かりますと、死ななくなるのです。死ななくなるだけではなくて、現世の人間の生き方の間違いが、全部分かるのです。手に取るように分かるのです。イエスがこれを証明したのです。
世界にはユダヤ民族がいます。世界全体の政治、経済、軍備、科学、芸術の中心ポイントを牛耳っているのが、ほとんどユダヤ人なのです。この不思議な民族が、神の約束の民族なのです。
ところがこのユダヤ民族が困ったもので、とびきり上等の人々がユダヤ人ですし、また、とびきり悪いのもユダヤ人です。非常に優れたすばらしい人物と、箸にも棒にもかからないひどい者と、両方あるのです。
日本人とかアメリカ人は、高が知れています。世界中をひっかき回す人は、日本から出ていないのです。ユダヤ人にきまっているのです。
イエスもユダヤ人なのです。このイエスが、死を破ったのです。日曜日は、イエスが死を破った記念日なのです。キリスト紀元はイエスが誕生した年から初っています。つまり、イエスが生まれたことが世界歴史の基準になっているのです。この人が、初めて死を破ったのです。本当に、歴史的事実として死を破ったのは、イエスが初めてなのです。
イエスがどういう生き方をしたのか、命をどのように見ていたかということです。
例えば、太陽があります。太陽には、効力と、効率と、効果があります。太陽の効き目が三つに分かれているのです。太陽の効き目とは何かというと、これが命なのです。命を証明しているのです。
私たちは生きているという形で、太陽の効力と効率と効果を、毎日経験しているのです。果物を食べれば、そこに、太陽の効力と効率と効果が示されているのです。人間が生きていることは、太陽の命を毎日経験していることです。これを、生かされているというのです。
太陽の命は、死なない命なのです。宇宙の死なない命を、私たちは毎日経験しているのです。例えば、冬の寒い日に、日向ぼっこをしていると、太陽の効率、効力、効果、つまり、生きていることの心地好さ、命の嬉しさがしみ込んでくるのです。これをつかまえたらいいのです。
これをつかまえますと、今まで自分が考えていた人生の有象無象、矛盾が消えてしまうのです。宇宙の命と自分の命が、一つになってしまうのです。
人の命は、この命を実感するため、経験するためにあるのです。自分が消えて、太陽の命の中へ入ってしまうのです。そうすると、太陽が生きていると同じ命で、生きられることになります。これが、とこしえの命、永遠の命のつかまえ方なのです。これを示し申しているのが、太陽なのです。
太陽という見本を出して本当の命はここにあるということを、示し申しているのです。これが本当の神です。宗教が言っている神は、神の粕なのです。現在の人間が拝んでいるのは、安物の神なのです。
そういう屑みたいな神ではなくて本当の神を見る癖をつけるのです。一杯の水を飲むにしても、これが命の水だと感じて、飲むのです。自分から抜け出して、命の中にとけこむ癖をつけるのです。
命の中に入ってしまうためには、神の約束をどうしても勉強しなければならないのです。神の約束を勉強する方法が、日本にはないのです。どうしても聖書を勉強するしかないのです。
生きている意識、生活意識が問題です。人間の命は、感覚と意識で成り立っています。目で物を見る感覚が意識されます。般若心経では、これを五薀といっています。意識のあり方によって、命のあり方を変えることができるのです。これを信仰というのです。
生理と心理の二つの機能が、人となって現われています。生理機能は肉体のことです。心理機能は精神です。肉体と精神が集まって、人間ができています。生理の理、心理の理が神の言(ことば)なのです。言が生理的に働いたり、心理的に働いたりしているのです。
実は、人間は言そのものなのです。理性の本体が、私たちの本命なのです。聖書には、言が肉となって、地上に現われたと書いてありますが、これがイエスなのです。(ヨハネによる福音書1・14)私たちはそれを経験しているのです。
イエスが人間をどのように見ていたのか、その見方を勉強しますと、死なない命が勝手に分かるのです。
本当に死を破って彼岸へ行った人、本当に永遠の命をつかまえたのは、イエスだけなのです。釈尊も、孔子も、死んでしまった。親鸞も日蓮も、道元も死んだのです。地球上で、歴史的に本当に死ななかった人は、イエスだけなのです。
人間が死を破ったということは、人間歴史における最大のテーマなのです。軍縮のことよりも、政治経済のことよりも、大きいのです。命のことは、一番大きい間警のです。このことを、全世界の学者は、全然勉強しょうとしていないのです。
実は、イエス・キリストが死を破ったとい事件は、人間文明における学問の、最高の間題です。これが分かれば、人間の命についての基本的な勉強ができるのです。これを大学では取り上げていないのです。大学で、これが問題にできないのです。なぜ大学でこの
間題を取り上げないのか。これは学者の怠慢なのです。十五年や二十年の怠慢と違います。二千年間の怠慢なのです。二千年もの間、イエスが復活したということを知っていながら、これを勉強していないのです。なぜキリスト紀元が設定されているのか。これについて正しい説明をする責任が、今の学者にはあるのです。科学者にも、歴史学者、政治学者、法律学者、哲学者にもあるのです。
キリストが復活したことは、すべての学問の根本問題、基本的な問題です。ところがそれを取り上げようとしない。ここに現代教育の間違いがあるのです。
だから、人間の生活の仕方が、根本から間違っているのです。現在の日本人は、命を知らないのです。生きていながら命を知らないのです。これをはっきり言う宗教家は、一人もいないのです。哲学者も学者もいないのです。世界中の学者はこの意味で全部間違っていると言わざるを得ないのです。
世界中の学者が全員反対しても、六十五億の人間が全員反対しても、間違っているのは間違っていると言わなければならないのです。全世界の文明の根本に、命を無視しているという重大な欠陥があります。
死を乗り越えたイエスが、どんな気持ちで生きていたかを私たちが勉強すれば、私たちとイエスは同じものであることが分かるのです。
言が肉体となっている事を魂というのです。魂とは理性が肉体的な状態で生きていることです。これが霊魂です。霊魂が主体、本体ですから、死ぬべき肉体は初めから存在していないのです。
理論物理学から考えましても、物質はないのです。あるように見えるだけなのです。なぜあるように見えるのか。ないはずの地球が、あるように見えるのは、どういうことなのか。一体、人間の業がどうしてできたのかということです。
示して申す神を、正反対にしたものが悪魔です。悪魔もまた、示して申すのです。神は正しいものを示して申すのですが、悪魔は正しくないものを示して申すのです。
旧約聖書に、『主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪いことばかりであるのを見られた』(創世記6・5)とあります。無いものを有ると考える悪魔の思考方式が、人間の自我意識になっているのです。だから人間が、現象が実体である、自分がいるという意識しか持てないのです。
この意識で考えれば、どうしても現象が実体としか思えないし、固有名詞としての自分がいるとしか思えないのです。本当に実在しない世界が、実存するように思えて仕方がない。嘘の世界を自分で創造しているのです。
人間は、肉体人間の常識という悪魔の思いに、しっかりつかまえられています。悪魔が自我意識として人間の中に巣食っているのです。
この業から出るためには、自我意識、現象意識と全然別の、生理機能、心理機能として、生かされている客観的な人を発見する以外にありません。この客観的な人がイエスとまったく同じ人なのです。イエスという人格が自分そのものです。業を果たすというのは、イエスを発見することです。業を果たすとは、自我意識を捨てて、イエスにわたってしまうことです。これが、永遠の命をつかまえる具体的な方法なのです。



観自在菩薩

2015-11-07 18:37:14 | 日記


 

 観自在、観世音という菩薩があります。三蔵法師玄奘の訳ですと、観自在となっています。鳩摩羅什の訳ですと、観世音になります。

 これはどちらも同じことであって、観自在とは自在を見るのです。観世音は世音を見るのです。音を見るのです。音は見えないものですが、これを見るのです。

 白隠禅師は、人間がもし、愛憎煩悩を去ってしまえば、誰でも観世音菩薩になれると言っています。そのように、もし人間が、愛憎の念を去って、煩悩を解脱すれば、完全と言えるのです。

 世音とは世の音です。人間は現世に生きている以上は、それぞれ自分なりの考えを持っているのです。

 現在の政治をどう思うとか、経済をどう思う、教育をどう思うとか、それぞれの意見を持っています。これは世音を見ているのです。その時、その時に、世音を見ているし、又、感じているのです。生活のためにそうしているのです。

 ところが、般若心経になりますと、生活のためにそうするのではなくて、命のために世音を見ることになります。

 人間がこの世に生きているのは、大きな意味があるに決まっています。この世に生まれてきた目的がなければならないに、決まっているのです。

 今の日本人は、そういう目的を考えないで、生活のために生きている。ほとんど全部の人が、そういう考えをしているのです。政治家ならそれでもいいかもしれませんが、人間として生きている以上、自分の人生について責任を持たねばならないのです。

 人間がこの世に生まれてきたことが、業ごうなのです。これがうるさいのです。業が世音になって見えるのです。親から受け継いだ業、社会の業、学校の業、何でも生きていると、業がついて回るのです。若い人は若いように、年寄りの人は年寄りのように、業がついて回るのです。

 この業を見極めて、その主体は何であるかを見破って、業を果たしてしまわなければ、死んでしまうことになるのです。

 死ぬのはしかたがない。どうせ人間は死ぬと簡単に言いますけれど、死ということが本当に分からないから、すましておれるのです。

 本当の観世音になりますと、業の正体が分かるのです。死の正体が、はっきり分かるのです。そうすると死ななくなるのです。死ななくなる所まで、世音を見破ってしまう。世音を看破してしまうのです。そうすると、死なない人間になってしまう。これが本当の観音さんなのです。

 自分の世音を見破ってしまいますと、人間の愛憎煩悩が消えてしまうのです。

 そうして、愛憎煩悩の向こうへ出てしまうのです。これが般若波羅蜜多です。般若波羅蜜多になりますと、死ななくなるのです。

 死ぬのはしかたがないと言いながら、死ぬのはいやに決まっています。いやならいやとはっきり考えるのです。そうすると、死ななくてもいい方法が、見つかる可能性が出てくるのです。

 人間は死にたくないのに、死ななければならない。死にたくないのに死ななければならないというのは、殺されるということです。日本中の人間、もっと広く言えば、世界中の人間は皆、殺されるのです。誰に殺されるのか。人間の業ごうに殺されるのです。

 死ぬのは、人間の業ですが、これを突破することはできるのです。観世音はこれをしたのです。その方法が、般若心経に出ているのです。

 照見五蘊皆空 度一切苦厄とは、一切の苦厄を乗り越えてしまうこと、死を乗り越えてしまうことです。これが観世音菩薩の所行です。

 観世音菩薩は、悟りを開いた人の抽象人格です。観世音には、誰でもなれるのです。そうすれば、死を乗り越えられるのです。人間は、今までの経験につい束縛されてしまうような弱点があります。向こう岸へ渡ってしまえば、そういう弱点と関係がなくなるのです。

 向こう岸へ渡るとは、別の人間になってしまうことです。今まで生きていた人間が、本当の空を悟ることになりますと、別の人間になってしまうのです。空とは、何もないからっぽとは違います。大きな実があるのです。空の実体は、宇宙生命の一大事実なのです。

 言葉をかえて言いますと、これが真の神なのです。空を見るとは、神を見ることです。観世音を見るとは、神を見ると同じことなのです。

 世音とは人間の業であって、自分の業をはっきり見きわめますと、自分ではない自分の姿が見えてくるのです。これが観自在です。

 観自在とはどういうことか。自在とは自由自在のことで、何ものにも捉われないことです。現在の地球に生まれてきた人間は、自由自在というわけにはいかないのです。地球以外に住む所がありません。例えば、男として生まれた人は、男でなければならないのです。女は女でなければならない。生年月日を変えることはできないのです。そのように、現世に生まれたということは、自在ではないことを意味するのです。

 地球ができた以上、人間は地球でなければ生きられないようにできているのです。本当の自由自在があるとすれば、地球ができる前のことなのです。地球ができる前には、時間もない、空間もない。従って、五十歳とか、六十歳とかいう年齢もないのです。男もない、女もない。これが自在です。観自在とは、地球ができる前の人間に帰るという、すばらしい意味もあるのです。

 自在の自とは、初めからという意味です。初めとは、地球ができる前のことです。今の学者は、四十五億年位前あるいは五十億年前に地球ができたと言っていますが、それ以前には、地球はなかったのです。従って人間もいなかったのです。その時に、自在があった。これが、生まれる前の本当の人間の姿、自在です。

 この世に生まれて、この世の業の虜になって、男だ、女だ、得した、損したと言っているのは、自在ではないのです。そういう者に関係がない、生まれる前の状態が、自在なのです。

 観自在というのは、生まれる前の自分を見るという、雄大な思想なのです。イエスは、これを見せてくれたのです。

 生まれる前の自分が、今ここにいると言ったのです。イエスは、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生まれる前から私はいる」(ヨハネによる福音書8・58)と言ったので、当時のユダヤ人たちは、イエスが気違いだと思ったのです。アブラハムはイエスよりも二千年前にいた人です。それより前からいるとイエスが言ったので、イエスを気違いだと思ったのです。

 イエス・キリストは、観自在を文字通り実行して見せたのです。

 今までの勉強、経験にこだわらないで、幼児時代の気持ちになって、たんたんとして物を考えるという気楽な人になれば、観自在が十分に分かるのです。

 人間に、五十歳とか、七十歳という年齢はありません。あると思う方がどうかしているのです。この世に、何十年か生きている自分は、どこにも存在していないのです。般若波羅蜜多から見れば、そんな人間はいないのです。

 禅の歌に、「闇の世に鳴かぬカラスの声聞けば、生まれる前の父ぞ恋しき」というのがあります。生まれる前の、自分の魂の状態をみきわめることが、本当の悟りであると言っています。禅には、こういう歌はありますが、この悟りがありません。

 しかし、観自在という人格はなければならない人格です。私たちは観自在にならなければならないのです。そうすると、自分が死ぬという因縁を乗り越えてしまうことができるのです。

 業を果たすことはできるのです。業を果たさなければ、必ず死んでしまいます。死んだらしまいと思うのは、大間違いです。死んでからが、大変なのです。

 人間は、本来、観自在になるために生まれてきたのです。ところが、商売人になったり、会社員になったり、学者になったり、弁護士になっている。

 そんな事のために、私たちは生まれてきたのではありません。商売人や会社員になってもいいのですが、本職は、自分の業を果たすことです。生活をするために、ちょっと働いてみようかというだけのことです。

 働きながら、観世音の道を歩むのではなかったら、何にもならないのです。お金を儲けて、楽しく生活をしながら、観世音になるのです。これは難しいことではないのです。むしろ、働くということは、立派な道場なのです。

 寺で座禅をするより、働いている方が、よほど悟りやすいのです。汗水流して働く方が、よほど功徳があるのです。

 私たちは、現世に生きるためではなくて、観自在になるために生まれてきたのです。その意味で、イエスが生きていた生き方は、偉大な参考になるのです。

 釈尊は悟ったが、そのまま死んでしまいました。イエスは死ななかったのです。死を乗り越えたのです。日曜日は、イエスが復活した記念日なのです。イエスは、歴史的事実において、死を乗り越えたのです。

 本当の観世音をしたのです。イエス観世音と言えるのです。千手観世音とか、十一面観世音がありますから、イエス観世音があってもおかしくはないのです。

 イエス観世音になったらいいのです。これは歴史的事実なのです。イエスが死を破ったことは、歴史において証明されているのです。これは宗教ではありません。

 キリスト教では、復活をはっきり説明しません。現在の科学ぐらいでは、イエスの復活の説明はできません。

 とにかく、歴史的事実を勉強すれば、私たちも、歴史的に、死を破ることができるのです。現世で、人間は好きなものを食べて、好きな服を着ることができます。これはぜいたくな事です。神が肉体を持てば、人間と同じ生活をするでしょう。だから、悟りを持つ責任があるのです。世間の人が考えているのと同じ考えでいると、ひどいことになります。この世に生まれてきたのは、それだけの責任をおっているのです。

 今までの経験を棚上げして、白紙にもどって、愛憎煩悩を去って、観世音菩薩になるという気持ちを持ったらどうでしょうか。

 これをするには、仏教だけではだめで、聖書の助けがどうしてもいるのです。

 白隠が言っていた観世音と、現在私たちが考える観世音とは、スケールが違うのです。白隠は、死を破ると言っていませんが、私は死を破る観世音を言っているのです。白隠禅師よりも大きい観世音を、勉強しなければならないのです。