人間は、誰でも自分の気持ちで生きていますが、これが死が怖いと思う根本原因なのです。明日死ぬかもしれないというのが、神経質ではなくて、本当に真面目な命の見方なのです。実際、人間は、明日をも知れぬ体を持っているのですから、まだしばらくは生きているだろうという考えが、油断大敵です。今晩死ぬかもしれないとい、真面目な考え、つまり幼児のような考え方が必要なのです。
新約聖書は、キリストの命を書いています。例えば、『わたしのくびきを負って、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう(マタイによる福音書11・10)といっています。イエスのくびきを負うとは何をすることかが、キリスト教では分かりませんが、自分自身に生きないで、イエスに生きるということをいっているのです。
これは、観自在と同じようなことになるのでありまして、自分に生きている間は、その人は死んでいきます。自分に生きなくなると、死ななくなるのです。
イエスが復活した命が、自分自身のとこしえの命になるのです。イエスは、大工の青年でした。この人が、死を破ったのです。日曜日は、イエスの復活の記念日なのです。このように、イエスの復活は、日曜日は休みという形で世界的に認められているわけです。つまり、イエスが死を破ったのは、単に宗教的な問題ではなく、歴史的事実なのです。歴史の実体ということです。
歴史の実体を、神の御霊(みたま)によって受け取るのです。神の御霊というのは、地球が自転、公転している力、太陽が輝いていること、目が見えること、耳が聞こえることそのものです。これが皆、神の御霊の働きなのです。生命エネルギー、天地自然の力を、神の御霊といいます。心臓が動いているのは、天然自然の力で動いているのです。天地自然の力に同化するのが、生かされている自分です。
客観的に生かされている自分は、死なないのです。主観的に生きている自分は、死んでいく人間です。主観的に生きている人間を、やめるのです。自分が自分であることを、やめるのです。
人間が存在する必要はないのです。しかし、地球全体を代表する、理性としての人間という現象はあります。これは、あくまで現象であって、人間という生物とは違うのです。 これを、イエスというのです。
釈尊は、自分自身を空じることを提唱した。イエスは、天地の命に生きることを考えたのです。釈尊は悟ったのであり、イエスは救いを発見した。悟りと救いの二つがいるのです。これが、般若心経と聖書になるのです。
固有名詞の自分が生きていると、必ず死んでしまいます。固有名詞は、社会的存在として、なければ不便ですが、人の本体は、ただ、理性と良心と五官です。イエスは、自分のことを、人の子といっています。人の子は、名なしの権兵衛ということです。
人の実体は、魂であって、固有名詞ではないのです。だから、死なないのです。これが、空を悟った人間です。外見上は、人間が生きているように見えるけれど、本体は、魂です。これを悟ることを、イエスを信じるというのです。こういう感覚で生きると、イエスの復活が分かるのです。
地球が自転、公転していることが神の力なのですから、神の力を自分の力にして生きるのです。天地自然の中へ、自分の命が消化されてしまうのです。これが本当の空です。そうすると、死ななくなるのです。
イエスは、歴史的事実によって、これを証明したのです。日本人は非常に不勉強で、歴史の流れを勉強していないのです。人間の歴史が始まってから今日まで、時間がどのように流れてきたか。歴史の流れはどうなっているのか。なぜ、天地万物が、今のようなかっこうで現われているのか。こういうことを、日本人は、ほとんど勉強していません。森羅万象が、そのまま、天地自然の命を現わしているのです。これが分かればいいのです。
現代文明は、ユダヤ人のトリックです。そんなものに取りつかれているから、いけないのです。ユダヤ人はイエスをキリストと信じることが絶対にいやなので、学理、学説を世界に流し、豪華絢爛な文明をつくり上げたのです。キリストを信じてはいけない。文明を信じなさいというのがユダヤ人の中心思想です。イエスはユダヤ人です。ユダヤ人であるイエスが、ユダヤ人を、ひどく攻撃したのです。そこでユダヤ人が、イエスを殺したのです。そのように、本当のユダヤ人であるイエスが、いんちきなユダヤ人を叱っているのです。
現代文明は、ユダヤのトリックです。そういうものを信じているから、死んでいくのです。もっと、命の実体を、はっきり見ることです。
イエスは、幼児のようになって、神の国へ入れと言っています。神の国とは何かというと、人が生かされている状態です。この中へ入ってしまえばいいのです。
人間は、自分が生きているのではありません。命は、人のものではありません。天地万物の命が、個々の命として、現われているだけなのです。自分の命があると思ってはいけないのです。そういう考え方が、思い上がりです。思い上がりを捨てて、本当に素直になって、自分の魂を見るのです。魂とは何かというと、理性の本体です。魂に目を開くことが、魂の目を開くことになるのです。
永遠の命は、誰でも経験できるのです。寒の行をしたり、滝に打たれなくてもいいのです。考え違いをやめればいいのです。悔い改めて、福音を信じればいいのです。
新約聖書は、キリストの命を書いています。例えば、『わたしのくびきを負って、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう(マタイによる福音書11・10)といっています。イエスのくびきを負うとは何をすることかが、キリスト教では分かりませんが、自分自身に生きないで、イエスに生きるということをいっているのです。
これは、観自在と同じようなことになるのでありまして、自分に生きている間は、その人は死んでいきます。自分に生きなくなると、死ななくなるのです。
イエスが復活した命が、自分自身のとこしえの命になるのです。イエスは、大工の青年でした。この人が、死を破ったのです。日曜日は、イエスの復活の記念日なのです。このように、イエスの復活は、日曜日は休みという形で世界的に認められているわけです。つまり、イエスが死を破ったのは、単に宗教的な問題ではなく、歴史的事実なのです。歴史の実体ということです。
歴史の実体を、神の御霊(みたま)によって受け取るのです。神の御霊というのは、地球が自転、公転している力、太陽が輝いていること、目が見えること、耳が聞こえることそのものです。これが皆、神の御霊の働きなのです。生命エネルギー、天地自然の力を、神の御霊といいます。心臓が動いているのは、天然自然の力で動いているのです。天地自然の力に同化するのが、生かされている自分です。
客観的に生かされている自分は、死なないのです。主観的に生きている自分は、死んでいく人間です。主観的に生きている人間を、やめるのです。自分が自分であることを、やめるのです。
人間が存在する必要はないのです。しかし、地球全体を代表する、理性としての人間という現象はあります。これは、あくまで現象であって、人間という生物とは違うのです。 これを、イエスというのです。
釈尊は、自分自身を空じることを提唱した。イエスは、天地の命に生きることを考えたのです。釈尊は悟ったのであり、イエスは救いを発見した。悟りと救いの二つがいるのです。これが、般若心経と聖書になるのです。
固有名詞の自分が生きていると、必ず死んでしまいます。固有名詞は、社会的存在として、なければ不便ですが、人の本体は、ただ、理性と良心と五官です。イエスは、自分のことを、人の子といっています。人の子は、名なしの権兵衛ということです。
人の実体は、魂であって、固有名詞ではないのです。だから、死なないのです。これが、空を悟った人間です。外見上は、人間が生きているように見えるけれど、本体は、魂です。これを悟ることを、イエスを信じるというのです。こういう感覚で生きると、イエスの復活が分かるのです。
地球が自転、公転していることが神の力なのですから、神の力を自分の力にして生きるのです。天地自然の中へ、自分の命が消化されてしまうのです。これが本当の空です。そうすると、死ななくなるのです。
イエスは、歴史的事実によって、これを証明したのです。日本人は非常に不勉強で、歴史の流れを勉強していないのです。人間の歴史が始まってから今日まで、時間がどのように流れてきたか。歴史の流れはどうなっているのか。なぜ、天地万物が、今のようなかっこうで現われているのか。こういうことを、日本人は、ほとんど勉強していません。森羅万象が、そのまま、天地自然の命を現わしているのです。これが分かればいいのです。
現代文明は、ユダヤ人のトリックです。そんなものに取りつかれているから、いけないのです。ユダヤ人はイエスをキリストと信じることが絶対にいやなので、学理、学説を世界に流し、豪華絢爛な文明をつくり上げたのです。キリストを信じてはいけない。文明を信じなさいというのがユダヤ人の中心思想です。イエスはユダヤ人です。ユダヤ人であるイエスが、ユダヤ人を、ひどく攻撃したのです。そこでユダヤ人が、イエスを殺したのです。そのように、本当のユダヤ人であるイエスが、いんちきなユダヤ人を叱っているのです。
現代文明は、ユダヤのトリックです。そういうものを信じているから、死んでいくのです。もっと、命の実体を、はっきり見ることです。
イエスは、幼児のようになって、神の国へ入れと言っています。神の国とは何かというと、人が生かされている状態です。この中へ入ってしまえばいいのです。
人間は、自分が生きているのではありません。命は、人のものではありません。天地万物の命が、個々の命として、現われているだけなのです。自分の命があると思ってはいけないのです。そういう考え方が、思い上がりです。思い上がりを捨てて、本当に素直になって、自分の魂を見るのです。魂とは何かというと、理性の本体です。魂に目を開くことが、魂の目を開くことになるのです。
永遠の命は、誰でも経験できるのです。寒の行をしたり、滝に打たれなくてもいいのです。考え違いをやめればいいのです。悔い改めて、福音を信じればいいのです。