永遠の生命を得るために

ブログの内容は梶原和義先生の著書からの引用です。

悪魔を滅ぼす

2015-11-19 11:59:51 | 日記
人間の人格は神のペルソナの延長です。神の三位一体を神のペルソナと言いますが、人間の人格はその延長として造られました。
人は神から命を与えられる前に、地のちりであったと聖書は書いています(創世記2・7)。神が天地を造った時に、神の中に住み込んでいて、天地を造る神の手助けをしたのです。神の中に住んでいたのが、人間の本性の原理です。その時に、悪魔の反逆がありました。
神が天地を造った目的は、悪魔の反逆を打倒するためです。悪魔を滅ぼすために、太陽系宇宙が造られたのです。神の御心にしたがって太陽系宇宙を造り、森羅万象を造ったとしても、神以外のものが神に協力するという姿勢がなかったら、悪魔を滅ぼしたことにならないのです。
ただ神と悪魔の対立だけで、神が悪魔に勝つことになっても、悪魔は承知しないでしょう。悪魔は負けたと思わないでしょう。そこで、神でも悪魔でもない、人間という第三者が造られたのです。
人間が公平な場に立って、神に見方しますと、神に協力して悪魔を滅ぼすことになるのです。そうしたら悪魔が文句を言うことができなくなるのです。
悪魔という人格性を滅ぼすためには、人という人格性が神に協力することが、絶対に必要です。
神が神として己自身を大完成するためには、悪魔が完全に滅ばなければなりません。悪魔を撲滅するために、神が人間を完成させることが必要です。
人間は神を信じることによって、己自身を完成することができますし、神に代わって悪魔を憎むことによって、悪魔を滅ぼすことに協力することができるのです。神の目的が人の目的でもあるのです。神と人は同じ目的をもって宇宙の完成に協力する。これが聖書の根本です。天地創造の目的もここにあるのです。
私たちが神に協力することは何のためかと言いますと、悪魔を滅ぼすためなのです。




死ぬ直前の心理状態

2015-11-19 11:58:51 | 日記
生かされている自分は霊なる自分です。それが分かったとしても、それは旧約時代の自分です。
新約時代の自分は違います。新約時代の自分は、自分の霊を新しくしなければいけないのです。これをリニュー(renew)と言います。リニューというのは、聖書は新にと訳していますけれど、正確ではありません。新規にと訳すべきです。新規にとは、改めてということです。前の続きではなくて、全く新しくなるのです。
改めて生まれること、新規に生まれることです。これができなかったら、新約の自分は分かりません。
自分が神に生かされていると思っただけではだめです。自分が神に生かされているというだけなら、菅原道真でも考えたのです。肉体的に生きている自分が神に生かされているとすると、やはり肉体があるのです。これではだめです。ボーンアニユー(born anew)です。新規に生まれよと言っています(ヨハネによる福音書3・3)。
これをするためには、精神をどのように使えばいいかです。これが難しいのです。
これは西暦2006年の意味が分かればいいのです。これは何でもないことです。キリスト紀元というのは、人間存在が新しくなってしまったことを言っているのです。キリスト紀元以前の人間と、以後の人間とでは、人間存在の本質が全然違ったものになっているのです。
かつて、国会議員であった市川房枝さんが、死ぬ時に、「富士山ってこんなにきれいだったかしら」と言いました。これが彼女の最後の言葉でした。これが彼女の最後の言葉であったとすると、多分夢でも見ていたのでしょう。かつて、すばらしい富士山を見た時の記憶が、甦ってきたのでしょう。そして、今富士山を見ていると思ったのでしょう。
死ぬ直前には、こういう精神現象が起こるのです。死ぬ直前に、病気は一切癒されるのです。生まれる前の世界から現世に生まれた時の感覚に、非常に近いセンスを、恵みによって神が与えるのです。
よほど業の深い人は別として、市川房枝さんは自分の欲はあまりなかったようです。こういう人ですと、生まれてきた直後に近い状態の所まで返されたかもしれません。そこで、「富士山って、こんなにきれいだったかしら」と思ったのです。自然の美しさに帰ったのです。
旧京都府知事の蟻川虎三氏よりも、市川房枝さんの方が、霊魂の値打ちとしてはずっと上でした。しかし、まだ魂になっていません。旧約の魂として、精神の霊にちょっと気づいた程度です。
現世における人間の思いは、良かれ悪しかれ、死ぬ直前までは何かの役に立つのです。人間の経験、記憶は、死の直前までは何とか役に立ちますが、この世を去る状態になりますと、役に立たなくなるのです。
この世の思いは、一切役に立たなくなるのです。そうなると、大自然のきれいさが光ってくるのです。これが市川房枝さんの心を捉えたのです。しかし、これでは救われません。
死が直前に迫ってくると、問答無用の状態になります。神は人間に対しては、一切問答無用です。信じると言ってもだめですし、信じないと言ってもだめです。問答無用というのは、神のとおりになってしまわなければいけないということです。賛成しますと言ってもだめです。分かったと言ってもだめです。
問答無用というのは、信じますとか、賛成しますと言っても、だめということです。その人が消えてしまわなかったらだめです。問答無用と言っている当体と、自分が一つになってしまうことです。これ以外の方法では、神に良しとされないのです。
神と一つにならなければ、人間は絶対に地獄に行くのです。永遠の死になるのです。
キリスト教を何十年信じていてもだめです。自分が信じているのですから、神に賛成しているだけです。これではだめです。
死ぬ直前になると、これからどうしたらいいかと思うのです。長年正しく聖書の勉強をしている人は、そういう気持ちになるのです。
市川房枝さんはそこまで行っていなかった。彼女は清廉潔白ではなくて、大して悪いことをしなかっただけです。大して良いこともしなかった。ただ理屈を言っていただけです。だから神が憐れみによって、富士山の景色を思い出させたのです。しかし、大自然の美しさの値打ちが、全然分からなかったのです。
彼女は、富士山がきれいという夢を見て、死んだのです。まだ、この人はいい方です。大自然の夢を見るというのは、悪いことではないですけれど、大自然の美しさの意味が分からなかった。
山の美しさ、花の美しさ、芭蕉が見ていた自然界の美しさは、旧約の世界です。市川房枝さんの頭には、大自然の美しさという肉(現象)が、焼きついていたのです。大自然の
霊(本質)が分かっていなかった。大自然の肉を見て、富士山はこんなにきれいだったのかと思ったのです。
彼女は、富士山という山をはっきり記憶していた。これは肉の思いです。肉の思いを待ったままで、彼女は死んだのです。この状態で死んだから大変です。地獄へ行かなければならないからです。
ご同情しますと申し上げるしかありません。霊とは何か。富士山の美しさとは何か。これは地球ができる前の美しさです。魂が地球ができる前に経験していた美しさです。これをはっきり認めることが、霊から生まれることです。霊から生まれると、地球、現世に関係がない自分、肉体存在に関係のない自分が分かるのです。これが精神の霊が新しくなるということで、これを経験すれば、地獄行きから逃れられるのです。





生まれる前の命

2015-11-19 11:57:35 | 日記
人間は美しい花を見た時、また美しい景色を見た時に、感動します。なぜでしょうか。生まれる前に、それを見ていたからです。それを現世でもう一度見て、前と同じものだから、とても感動するのです。
聖書には、もろもろの天は神の栄光を現わし、大空はみ手のわざをしめすとあります(詩篇19・1)。空の色、木々の緑、海の色は、神のすばらしさが現われているのです。
この日は言葉をかの日に伝え、この夜は知識をかの夜に告げるとあります(同19・2)。皆様が生まれる前に、皆様の魂はすばらしい景色の中にいたのです。
景色のことを風光と言います。景色を見にいく旅行のことを、観光旅行と言います。風光、観光とは何でしょうか。生まれる前の光が、景色になって現われているのです。
皆様は生まれる前に、本当の命を持っていました。本当の命が、今景色になって出ているのです。生まれる前の死なない命が、潜在意識になって現われているのです。
人間の常識では、景色の本体が分かりません。イエスは生まれる前の命を、現世で経験していました。あなたのみそばにいた栄光で、もう一度私を輝かせて下さいと言っているのです。
皆様もその命を持っていますが、この世の常識を持ちすぎているために、それが全く分からない状態になっているのです。
景色をよく見れば分かります。生まれる前の命が何を経験していたのか。魂の奥の奥にどういう記憶があるのか。それは死なない命の記憶です。死なない命が、今、景色になって展開しているのです。これをよく見れば、死なない命が分かるようにできているのです。
人間は何の為に生きているのか。神の国と神の義を求めることが、目的です。働いている人は、働いていることの本質を捉えるのです。本質は命に決まっているのです。生きている本質、働いている本質は、命に決まっています。それを捉えることが目的です。
神は秘密を隠していません。あけっぴろげにしているのです。捉えようとすれば捉えられるのです。
自動車は人間の理性から出てきた機械です。人間の理性から出てきたということは、神の栄光がそのまま現われているということです。理性は神の栄光です。人間は神の理性を運転しているのです。運転している人も神の栄光です。
なぜ自分自身を神に渡してしまわないのか。この世に生きている気持ちを持つ必要がないのです。それがよく分かっているはずです。
この世に生きているという気持ちを持っても仕方がないのです。色々な苦しみ、思い煩い、悲しみという負担が生じるだけです。この世に生きていると思わなければ、不安は一つもありません。恵みと憐みと、喜び感謝が、いつもあるのです。なぜそうしないのでしょうか。できないのではなくて、そうしないだけです。
生きているというのは客観的な事実であって、主観的な事実ではないのです。主観的な意識で、生きているという事実を見ても、何にもならないのです。精神的な負担が、のしかかってくるだけです。
現世における喜び楽しみは、その真に必ず苦しみや悲しみがついて回るのです。楽しみだけ、苦しみだけということは一切ありません。楽しみの裏には必ず苦しみがあるのです。喜びの真には必ず悲しみがあるのです。だから喜びを求めることは、悲しみを求めることになるのです。
これをやめて、霊に従って生きているという実体をじっと見ていますと、することなすことが皆自分の責任ではなくて、神の恵みであることが分かるのです。自分の責任で仕事をするのではなくて、神の恵みが仕事として現われている。これがストレートに分かるのです。すべてのことが、キリストを学ぶためにあるのです。それ以外に何もないのです。
現前において神の国を捉えると、自分が生きている範囲が、神の国に変わってしまうのです。その人が寄ってくると、神の国が寄ってきたことになるのです。
今ユダヤ人が好感を持っている民族は、日本人だけのようです。かつて日本人はユダヤ人の銀行家のシフにお金を借りて世話になったので、明治天皇はシフに瑞宝賞を与えています。ユダヤ人に他意なく接触して、悪意を持っていない民族は、文明国の中では日本人だけです。
世界の一流国家の中で、ユダヤ人が好意を持てるのは日本人だけです。ユダヤ人は日本人を、何となく東洋のイスラエルだと考えているのです。だから日本人がユダヤ教に帰依することを認めているのです。これは日本人がユダヤ人の分かれだと直感しているらしいのです。
日本人はユダヤ人に対して、欧米人が持っているような敵意を、全然持っていません。日本人はユダヤ人を迫害したことはないのです。神の摂理によって、日本人とユダヤ人の問に恨みをおいていないからです。お互いに憎みあう、恨みあうという感情がなくてもすんでいるのです。ですから、日本民族でなければ、ユダヤ人の回復の呼びかけはできません。他の民族ではできないのです。ユダヤ人の悔い改めの呼びかけは、日本人しかできない仕事です。日本人からの呼びかけに対して、ユダヤ人はしぶしぶながら聞いてみようかと思うでしょう。
神の国と神の義を求めることが、人間が生きていることの目的です。地球で今生かされていることが、神の国であり神の義です。この意識を持てばいいのです。人間が生かされていることが神の国です。神の国が実現しているのです。
私たちは異邦人でありながら聖書が分かる。神の約束の実体が分かるということが、神の国にいることです。これをキリストと言います。私たちの命は神と共に、キリストの内に隠れているのです。
人間が信じなくてもそうなっているのです。神の御名を生きる、神の国に生きるということは宗教ではありません。命そのものの実体です。
善であるか悪であるかの違いではありません。霊か肉かの違いがあるだけです。ペースが霊に切り替えられたらいいのです。自分の長所を全部神に渡してしまわなかったらいけないのです。
イスラエルが回復されなければ、千年王国(キリスト王国)は、絶対に来ません。これはすばらしい決め手になっています。イスラエルの回復のために祈ることが、神に愛される秘密です。何が善か、何が悪いかではない。神の御心に適うかどうかだけです。約束の原理に添って聖書を見るかどうかです。
イエスは、救いはユダヤ人のものであると考えていました。日本語の聖書では、救いはユダヤ人から来ると訳しています(ヨハネによる福音書4・召。救い主はユダヤ人から現われると訳しています。これはキリスト教の訳です。
原語の意味は、救いはユダヤ人のものであり、キリストはユダヤ人のものとなるのです。ユダヤ人が救われることを、キリストというのです。異邦人が救われることを、キリストとは言わないのです。キリストという言葉じたいが、ユダヤ人の救いを意味するのです。
キリスト王国(千年王国)はユダヤ人の王国であって、ユダヤ人が中心にならなければ、キリスト王国は現われないのです。これがキリスト教の考えと全然違う所です。
私たちも御霊(霊なる約束)を受けたことによって、霊なるイスラエルにされたという自覚を持つべきです。御霊を受けたものは霊なるイスラエルにされたのであって、ユダヤ人になったのです。
異邦人として救われたのではないのです。アブラハムの子孫として数えられる人間になったのです。アブラハムの子孫に数えられなかったら、神は絶対に救いません。救いはアブラハムから出るのです。アブラハムから出なければ、救いはないのです。
アブラハムが受けた祝福が、異邦人にも及んでいるのです。どこまでもアブラハムが受けた祝福が中心であって、これがキリスト教に全然分かっていないのです。異邦人の教団を、神は全く問題にしていないのです。救いはユダヤ人のものであるということが分からないのです。
人間の考えの根底をなしているのが、現象感覚です。般若心経を読んでいる人でも、般若ハラミタが分かっていません。色即是空が分からないのです。
自我意識は般若ハラミタが分からない所から発生するのです。地球が存在していないということが、はっきり分からなかったらいけないのです。
聖書を勉強していながら、その根底を勉強していないからいけない。聖書に創世ということが書いてあります。神は世を始めたのであって、物を造ったのではありません。創世記であって、創物記ではないのです。創世とは何か。神は現象があるような世代を造った。現象があるように見える世を造ったのです。これに人間が騙されているのです。悪魔が騙されたからです。
現象感覚が人間の自尊心を造っているのです。人間は自分の自尊心に囚われているのです。その虜囚は現象感覚です。これがはっきり分かったらいいのです。
色即是空が分からない。異邦人は現象の世界に住んでいるのです。肉体存在の自分がいると思っているのです。色即是空が分からない人は、自分がいくら間違っていると言われてもだめです。
神の国と神の義を求めよとイエスは言っています。この世に生きている人間は、絶対に裁かれます。悪魔の子だからです。この世に生きている人間は、全部悪魔の子です。
霊(人生)を渡しただけではだめです。現象感覚を捨てなければいけない。地球は存在していません。時間も空間も存在していない。地球は電気現象の塊です。電気現象が物体のように見えているのです。これをヨハネの黙示録四章二節から五節で、詳しく書いています。ここが分からないと、聖書を学んでいる意味がないのです。
ユダヤ人は地球があると思い込んでいます。欧米人もそう思っています。この考えをひっくり返さなければいけないのです。
神の国と神の義を求めよという、イエスの言葉の意味が分からないのです。現象が存在していないから、神の国と神の義を求めよと言っているのです。現象が存在していたら、神の国と神の義を求めよとは言えないのです。
千年王国とは何か。神の勝利が現世において確立されるという意味で、千年王国は実現しますけれど、実は王国は実体ではありません。神が悪魔とその一党に対して、神の勝利をはっきり見せつけるのが、王国の目的です。これがユダヤ人に与えられた約束の成就です。
アブラハムの約束は、二段構えになっています。千年王国の実現と新天新地の実現です。
善にしても悪にしても、考え方のスケールが小さいから、その中で堂々巡りをしているのです。悪魔のスケールでしか考えられないのです。いくら考えてもだめです。神のスケールを持っていないからです。神のスケールが本当の霊です。神のスケールで考えるのです。そうすれば分かるのです。




観自在菩薩

2015-11-07 15:03:03 | 日記




 

 観自在、観世音という菩薩があります。三蔵法師玄奘の訳ですと、観自在となっています。鳩摩羅什の訳ですと、観世音になります。

 これはどちらも同じことであって、観自在とは自在を見るのです。観世音は世音を見るのです。音を見るのです。音は見えないものですが、これを見るのです。

 白隠禅師は、人間がもし、愛憎煩悩を去ってしまえば、誰でも観世音菩薩になれると言っています。そのように、もし人間が、愛憎の念を去って、煩悩を解脱すれば、完全と言えるのです。

 世音とは世の音です。人間は現世に生きている以上は、それぞれ自分なりの考えを持っているのです。

 現在の政治をどう思うとか、経済をどう思う、教育をどう思うとか、それぞれの意見を持っています。これは世音を見ているのです。その時、その時に、世音を見ているし、又、感じているのです。生活のためにそうしているのです。

 ところが、般若心経になりますと、生活のためにそうするのではなくて、命のために世音を見ることになります。

 人間がこの世に生きているのは、大きな意味があるに決まっています。この世に生まれてきた目的がなければならないに、決まっているのです。

 今の日本人は、そういう目的を考えないで、生活のために生きている。ほとんど全部の人が、そういう考えをしているのです。政治家ならそれでもいいかもしれませんが、人間として生きている以上、自分の人生について責任を持たねばならないのです。

 人間がこの世に生まれてきたことが、業ごうなのです。これがうるさいのです。業が世音になって見えるのです。親から受け継いだ業、社会の業、学校の業、何でも生きていると、業がついて回るのです。若い人は若いように、年寄りの人は年寄りのように、業がついて回るのです。

 この業を見極めて、その主体は何であるかを見破って、業を果たしてしまわなければ、死んでしまうことになるのです。

 死ぬのはしかたがない。どうせ人間は死ぬと簡単に言いますけれど、死ということが本当に分からないから、すましておれるのです。

 本当の観世音になりますと、業の正体が分かるのです。死の正体が、はっきり分かるのです。そうすると死ななくなるのです。死ななくなる所まで、世音を見破ってしまう。世音を看破してしまうのです。そうすると、死なない人間になってしまう。これが本当の観音さんなのです。

 自分の世音を見破ってしまいますと、人間の愛憎煩悩が消えてしまうのです。

 そうして、愛憎煩悩の向こうへ出てしまうのです。これが般若波羅蜜多です。般若波羅蜜多になりますと、死ななくなるのです。

 死ぬのはしかたがないと言いながら、死ぬのはいやに決まっています。いやならいやとはっきり考えるのです。そうすると、死ななくてもいい方法が、見つかる可能性が出てくるのです。

 人間は死にたくないのに、死ななければならない。死にたくないのに死ななければならないというのは、殺されるということです。日本中の人間、もっと広く言えば、世界中の人間は皆、殺されるのです。誰に殺されるのか。人間の業ごうに殺されるのです。

 死ぬのは、人間の業ですが、これを突破することはできるのです。観世音はこれをしたのです。その方法が、般若心経に出ているのです。

 照見五蘊皆空 度一切苦厄とは、一切の苦厄を乗り越えてしまうこと、死を乗り越えてしまうことです。これが観世音菩薩の所行です。

 観世音菩薩は、悟りを開いた人の抽象人格です。観世音には、誰でもなれるのです。そうすれば、死を乗り越えられるのです。人間は、今までの経験につい束縛されてしまうような弱点があります。向こう岸へ渡ってしまえば、そういう弱点と関係がなくなるのです。

 向こう岸へ渡るとは、別の人間になってしまうことです。今まで生きていた人間が、本当の空を悟ることになりますと、別の人間になってしまうのです。空とは、何もないからっぽとは違います。大きな実があるのです。空の実体は、宇宙生命の一大事実なのです。

 言葉をかえて言いますと、これが真の神なのです。空を見るとは、神を見ることです。観世音を見るとは、神を見ると同じことなのです。

 世音とは人間の業であって、自分の業をはっきり見きわめますと、自分ではない自分の姿が見えてくるのです。これが観自在です。

 観自在とはどういうことか。自在とは自由自在のことで、何ものにも捉われないことです。現在の地球に生まれてきた人間は、自由自在というわけにはいかないのです。地球以外に住む所がありません。例えば、男として生まれた人は、男でなければならないのです。女は女でなければならない。生年月日を変えることはできないのです。そのように、現世に生まれたということは、自在ではないことを意味するのです。

 地球ができた以上、人間は地球でなければ生きられないようにできているのです。本当の自由自在があるとすれば、地球ができる前のことなのです。地球ができる前には、時間もない、空間もない。従って、五十歳とか、六十歳とかいう年齢もないのです。男もない、女もない。これが自在です。観自在とは、地球ができる前の人間に帰るという、すばらしい意味もあるのです。

 自在の自とは、初めからという意味です。初めとは、地球ができる前のことです。今の学者は、四十五億年位前あるいは五十億年前に地球ができたと言っていますが、それ以前には、地球はなかったのです。従って人間もいなかったのです。その時に、自在があった。これが、生まれる前の本当の人間の姿、自在です。

 この世に生まれて、この世の業の虜になって、男だ、女だ、得した、損したと言っているのは、自在ではないのです。そういう者に関係がない、生まれる前の状態が、自在なのです。

 観自在というのは、生まれる前の自分を見るという、雄大な思想なのです。イエスは、これを見せてくれたのです。

 生まれる前の自分が、今ここにいると言ったのです。イエスは、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生まれる前から私はいる」(ヨハネによる福音書8・58)と言ったので、当時のユダヤ人たちは、イエスが気違いだと思ったのです。アブラハムはイエスよりも二千年前にいた人です。それより前からいるとイエスが言ったので、イエスを気違いだと思ったのです。

 イエス・キリストは、観自在を文字通り実行して見せたのです。

 今までの勉強、経験にこだわらないで、幼児時代の気持ちになって、たんたんとして物を考えるという気楽な人になれば、観自在が十分に分かるのです。

 人間に、五十歳とか、七十歳という年齢はありません。あると思う方がどうかしているのです。この世に、何十年か生きている自分は、どこにも存在していないのです。般若波羅蜜多から見れば、そんな人間はいないのです。

 禅の歌に、「闇の世に鳴かぬカラスの声聞けば、生まれる前の父ぞ恋しき」というのがあります。生まれる前の、自分の魂の状態をみきわめることが、本当の悟りであると言っています。禅には、こういう歌はありますが、この悟りがありません。

 しかし、観自在という人格はなければならない人格です。私たちは観自在にならなければならないのです。そうすると、自分が死ぬという因縁を乗り越えてしまうことができるのです。

 業を果たすことはできるのです。業を果たさなければ、必ず死んでしまいます。死んだらしまいと思うのは、大間違いです。死んでからが、大変なのです。

 人間は、本来、観自在になるために生まれてきたのです。ところが、商売人になったり、会社員になったり、学者になったり、弁護士になっている。

 そんな事のために、私たちは生まれてきたのではありません。商売人や会社員になってもいいのですが、本職は、自分の業を果たすことです。生活をするために、ちょっと働いてみようかというだけのことです。

 働きながら、観世音の道を歩むのではなかったら、何にもならないのです。お金を儲けて、楽しく生活をしながら、観世音になるのです。これは難しいことではないのです。むしろ、働くということは、立派な道場なのです。

 寺で座禅をするより、働いている方が、よほど悟りやすいのです。汗水流して働く方が、よほど功徳があるのです。

 私たちは、現世に生きるためではなくて、観自在になるために生まれてきたのです。その意味で、イエスが生きていた生き方は、偉大な参考になるのです。

 釈尊は悟ったが、そのまま死んでしまいました。イエスは死ななかったのです。死を乗り越えたのです。日曜日は、イエスが復活した記念日なのです。イエスは、歴史的事実において、死を乗り越えたのです。

 本当の観世音をしたのです。イエス観世音と言えるのです。千手観世音とか、十一面観世音がありますから、イエス観世音があってもおかしくはないのです。

 イエス観世音になったらいいのです。これは歴史的事実なのです。イエスが死を破ったことは、歴史において証明されているのです。これは宗教ではありません。

 キリスト教では、復活をはっきり説明しません。現在の科学ぐらいでは、イエスの復活の説明はできません。

 とにかく、歴史的事実を勉強すれば、私たちも、歴史的に、死を破ることができるのです。現世で、人間は好きなものを食べて、好きな服を着ることができます。これはぜいたくな事です。神が肉体を持てば、人間と同じ生活をするでしょう。だから、悟りを持つ責任があるのです。世間の人が考えているのと同じ考えでいると、ひどいことになります。この世に生まれてきたのは、それだけの責任をおっているのです。

 今までの経験を棚上げして、白紙にもどって、愛憎煩悩を去って、観世音菩薩になるという気持ちを持ったらどうでしょうか。

 これをするには、仏教だけではだめで、聖書の助けがどうしてもいるのです。

 白隠が言っていた観世音と、現在私たちが考える観世音とは、スケールが違うのです。白隠は、死を破ると言っていませんが、私は死を破る観世音を言っているのです。白隠禅師よりも大きい観世音を、勉強しなければならないのです。