南帝お墓参り

南朝関係者のお墓参り。

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隠尾八幡宮

2013年09月05日 | 長慶天皇


先の安居寺から東北東、車で約30分ほどの山中に、隠尾八幡宮という小社が鎮座まします。境内に入って目立つのは巨木が多いことです。なかでも本殿背後の3本の大杉はひときわ見事です。その根元は少し小山になっていますが、伝によりますと、この小山こそ長慶天皇陵とのことです。

この神社を西に降りていきますと、井波です。現代では、国道156号線で五箇山経由で飛騨に抜けることができます。井波よりやや西の城端からも、国道403号線で五箇山に出ることができます。次回で紹介しますが、五箇山にも長慶天皇陵と伝わる所があります。宗良親王は越中より信濃に移りますが、そのルートを示してくれているようです。
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安居寺

2013年09月04日 | 長慶天皇


富山県西部の南砺市に、開創実に養老年間という古刹があります。それが安居寺です。その山門左手の階段を少し登ったところに、伝長慶天皇陵があります。宮内省が長慶天皇の陵墓を定めるに当たってかなり有力な地とされたゆえか、あたりはきれいに整えられています。中世の墳墓であることは確かなようで、南砺市の指定文化財となっています。

南北朝時代当時、この一帯に勢力を揮っていたのが「石黒氏」でした。一貫して南朝方に立ち足利幕府相手に引かず、かなりの強勢を誇っていました。宗良親王が越中に来たのもこの石黒氏を頼んでのことでした。長慶天皇も同様に密かにこの地に潜幸しましたが、元中8(1391)年3月18日に崩御したと伝わります。現代でも3月18日には法要が行われています。
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櫻谷御陵

2012年03月30日 | 長慶天皇

鳥取県東部は江戸時代までは因幡と呼ばれていましたが、その国府は現在の鳥取市域の東の方、現代の因美線津ノ井駅近くにありました。その1.5kmほど西に、形の美しい標高100mの小山があります。万葉の昔、奈良から因幡に赴任した人びとはこの山を見て、天香具山を思い出し、故郷の面影を見たそうです。そのことからこの山は「面影山」と呼ばれるようになりました。

その南麓に櫻谷神社があります。神社は沿革が不明で特筆すべきほどのことはない普通の神社なのですが、その参道入口傍らに建てられた白塗りの標注に目が惹き寄せられます。すなはち「伝第九十八代長慶天皇御陵」と書いてあります(写真)。細い参道を神社の方に進み、途中で左に折れます(手製の小さな標識あり)。その先に、三基の宝筺印塔が寄り添うようにして建てられています(写真)。このうちの一つが長慶天皇の御陵ということになります。

そもそもなぜこの地が長慶天皇御陵とされているのでしょうか?残る二基の塔の主は誰なのでしょうか?案内看板を読むと、長慶天皇の御子である「玉川宮」と「東御方」であるようです。

「玉川宮」は長慶天皇の皇子の中で出家せずに長慶天皇系の社禝を守っていた方でした。幕府体制には従順でしたが、6代義教の南朝皇胤に対する強硬姿勢に不安を感じたのか、あるいは強制されたのか、突如、因幡に遷ったことが史料にあります。それ以後の消息は不明ですが、因幡国府に近いこの地は恰好の隠棲地だったように思われます。この地で亡くなられたことは充分に真実味があると考えます。

「東御方」も6代義教と関係があります。宮中に祇向しますが魘魅の疑いをかけられ、義教によって配流の憂き目に遭います。この方も最期は不明ですが、同地の伝承によると、玉川宮と暮らして没せられたとなっています。

長慶天皇が崩ぜられたのは年代的にかなり前ですので、供養墓と考えるのが自然です。無理にこの地にやって来られたと構成する必要はありません。
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上朗塚

2010年09月06日 | 長慶天皇
国道152号線は、長野県諏訪市と静岡県浜松市を結んでいます。古来より往還繁く、それは南北朝期も例外ではありませんでした。もっとも、やや裏街道めいていたのか、南朝勢力によく利用されていたようです。浜松市天竜区船明にあるこの墓は、そうした国道152号線沿いにあります。バス停「上朗塚」のすぐそばに、小さな塚ですが丁寧に祀られた社があります。

この墓は、厳密には長慶天皇の御陵ではありません。説明看板によると、長慶天皇第一皇女の綾姫の墓とあります。長慶天皇一行が遠江の地を逃避行している際にはぐれ、この地で亡くなったそうです。国道152号線を北に上がると、宗良親王が一時身を寄せた香坂高宗がいた長野県大鹿村大河原城に行き着きます。また遠江は、宗良親王が亡くなった地でもあります。その関係者の墓かもしれません。

 
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嵯峨東陵

2010年04月19日 | 長慶天皇
宮内庁が所管する、いはゆる公式の御陵です。

ここは元々天龍寺の慶寿院の跡地でした。子息である海門承朝王が住職であり、また天皇自身も「慶寿院法皇」と記されていた(新葉集奥書)ことから、天皇が晩年を過ごしたのはこの地であろうと考えられました。そこで宮内省が同地を整備し、新たに陵墓を造営したのでした。



 
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