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覇権の起源(2)ユダヤ・ネットワーク  田中宇  (2008年記事)

2018-08-21 17:02:21 | コービン   英国


 この記事の前編で、1789年のフランス革命後、農民から国民・市民になったフランスの人々の愛国心を活用してナポレオンが全欧州征服を試みたが、


イギリスが他の欧州諸国と反仏同盟を作って抵抗し、1815年にナポレオンを敗北させたことを書いた。



その後、仏を打ち破って欧州最強になった英は、欧州大陸諸国が団結せぬよう、また一国が抜きん出て強くならないよう、各国の力の拮抗を維持する均衡戦略(バランス・オブ・パワー)を、外交力や諜報力を駆使して展開し、


1914年の第一次大戦まで、欧州を中心とする世界における覇権体制(パックス・ブリタニカ)を実現した。



 ここで疑問が湧く。


なぜ英は、仏を打倒した後、仏と同様に軍事力で欧州支配を確立するのではなく、外交力と諜報力を駆使した均衡状態の維持という、ややこしい戦略を採ったのか。


軍事力ではなく、外交・諜報力を使う方がコスト的に安くつくので、英国式の方が効率が良いからという答えが、すぐ思いつくが、


ならば英のずば抜けた外交諜報力の源泉は、どこにあったのか。


優秀な外交官やスパイをがんばって育成するという月並みなやり方なら、仏やスペインなど当時の他の欧州諸国も英国なみに他国を操る策略がやれたはずだが、そうはならなかった。



 この問題に対する私なりの答えは「ユダヤ・ネットワーク」である。


中世以来の欧州において、国際的なネットワークを持っていたのは、貿易決済の金融網を持っていたユダヤ人だけで、彼らは金融能力を生かして各国政府から資金調達を任され、各国政府の内部事情に通じていた。




ユダヤを重用したプロテスタント的イギリス


 ユダヤ・ネットワークといっても、関係していたのはユダヤ人の中のごくわずかの金融貿易業者だけだ。


当時のユダヤ人の9割以上は、東欧、ロシアで主に農民(農奴)をしていた「アシュケナジー」(ドイツ系)と呼ばれる人々で、彼らはネットワークと関係なかった(9世紀のハザール汗国で改宗した人々)。


商業ネットワークに入っていたのは、環地中海貿易圏の北アフリカ、南欧から西欧に広がっていった「スファラディ」(スペイン系)と呼ばれる、総数が数万人程度の少数派のユダヤ人で、


彼らは西欧の多くの国で弾圧され、各都市の閉鎖居住区(ゲットー)に住みつつも、金融や貿易、財政運営の技能をかわれ、宮廷ユダヤ人として、各国政府にこっそり重用されていた。



 フランスやスペイン、オーストリアといった当時の欧州の有力国は、いずれもカトリック教徒の国で、ユダヤ人は「キリストをはりつけにした人々」として弾圧の対象だった。


これに対しイギリスは16-17世紀の宗教改革、ピューリタン革命の流れの中で、プロテスタントが親近感を持つユダヤ教徒との政治的な親密さが増した。


経済的にも、イギリスは貿易に力を入れたので、同じくプロテスタント・ユダヤ同盟体だった自由貿易のオランダ共和国との対抗もあり、イギリス中枢では積極的にユダヤ人が受け入れられた。



 イギリスのユダヤ人の中でも、特にロスチャイルド家は力があり、18世紀からイギリス・フランス・ドイツなどにネットワークを張っていた彼らは事実上、


英政府の一部として機能し、19世紀のパックス・ブリタニカの成功に貢献した。


産業革命後の欧州では、資本家にとって、欧州各国が戦争ばかりやっている状況(各国に戦費を貸し付けて儲ける策略)より、全欧的に政治の安定が続き、経済が発展して消費と工業化が拡大した方が儲けが大きかった。



 19世紀から現在まで、イギリスは世界最強の諜報技能を持っており、ほとんどこの技能だけで国を存続させている(経済の主力である金融も諜報技能が大事な業種であり、ユダヤ人の産業だ)。



英のMI6(SIS)、米のCIA、イスラエルのモサドという世界3大諜報機関は、いずれも英諜報機関から派生した。


米英イスラエルはいずれも、ユダヤ人の力で発展した国でもある。


ソ連のKGBも強い諜報機関だったが、ロシアでは中世から経済がユダヤ人の担当だった(18世紀まで、モスクワでは「ジャーマンタウン」と呼ばれたゲットーのユダヤ商人が対欧州貿易を握っていた)。



 諜報機関の起源がユダヤ資本家のネットワークであるなら、彼らは政治謀略だけでなく、金融謀略を行う技能もあるはずだ。


戦争や政変だけでなく、相場の暴落、急騰などの背後には、諜報機関が動いていると疑った方が良いことになる。





▼効率良い国家体制の試行錯誤


 イギリスが均衡戦略によって欧州の覇権国になれたことは、諜報と金融の国際的な「ネットワーク」を使って、イギリスが欧州大陸諸国の政治を外から操作できたことを意味する。



イギリスに限らず「ネットワーク」を使いこなす勢力は、諸国の政治を操り、世界を間接支配できることになる。


このような「ネットワーク」の存在を前提に考え直すと、国際政治は、常識的に考察されているものとは全く別の特徴を帯びる。


まっとうな議論から排除されてきた陰謀論を視野に入れざるを得なくなる。



 18世紀後半から19世紀にかけての欧州では、産業革命がイギリスから全欧に広がり、農民が都市労働者に、農奴が市民に転換し、王侯貴族と教会の支配が崩れ、民主主義と資本家の影響力のある国民国家が作られた。


この変化が自然に起きたはずはなく、どのような国家体制が効率的か、多くの実験的な発案や実践が行われた。


またこの時期は、国際的には、産業革命で強くなり、交通革命によって移動時間を短縮した欧州が、世界を市場や原材料生産地として経済支配する体制が確立した。


国家の政治経済体制と同様に、国際的な政治経済体制についても、分析と議論と実験的な実践が行われた。




 いずれの動きも「正史」としては、大した背景もなく偶発的に新たな政治哲学が出てきて、革命や改革が行われたという平板な話になっている(学校の世界史は本当につまらない)。



正史は建前だけで書かれ、国家体制や国際政治体制に外から影響を与える勢力など存在しないことになっている。


だが「ネットワーク」の関与を仮定すると、平板さの陰に隠れたダイナミズムが洞察できる。



 たとえばフランス革命は、資本家が都市住民や農民を扇動して決起させ、王侯貴族と教会というそれまで国家運営の特権を持っていた勢力を潰し、


国民国家という、愛国心に裏づけられた納税制度で財政が強化される国家体制を確立したという意味がありそうだ。


仏以外の国々の王侯貴族は国民国家になることに抵抗したものの資本の論理に従わざるを得ず、折衷策として立憲君主制が作られつつ、国民国家制度は世界中に拡大された。




 前編で、イタリアとドイツの統一建国は、フランス包囲網の一環としてイギリスが1815年のウィーン会議で「予約」したと書いたが、


これも資本の論理で見ると、イタリアとドイツに国民国家を作って投資対象として強化する話になる。


ドイツ統一の中核となったプロシアは18世紀後半からユダヤ人の移民を積極的に受け入れ、経済を発展させて国家財政を黒字化し、成功した(当時の欧州の大半の国は財政が赤字だった)。


1880年代、ウイーンの弁護士と物理学者の6割はユダヤ人だった。


ナチス以前のドイツは、ユダヤ人に頼る国だった(製造業はドイツ人だが、金融や知識産業はユダヤ人という状況を破壊するため、ナチスはユダヤ人を収容所に入れた)。


 19世紀の欧州では、共産主義からファシズムまでの多様な政治の哲学的思考と活動実践などが開花したが、これも国家経済成長の高速化を課題とする資本の論理に合致し、資本家好みの展開だった。(資本家との分業体制なのか、革命家、思想家にはユダヤ人が多い


 国家の実践的な政治戦略として見ると、共産主義(社会主義)は、国民を形成できるところまで国内が結束していない地域において、人々を「人民」として結束させ、擬似的な国民国家を形成する手法であり、国民意識が形成されるまで待つ手間が省ける。


ファシズムは、すでに形成された国民国家で、政府への結束を強制的に強めるターボエンジン的な手法である(ファッショはイタリア語で「結束」の意)。


欧州内で後発の国民国家となったイタリアとドイツで、先発諸国に追いつくために導入された。



 資本主義を嫌う社会主義国に、資本家が投資するのか、という疑問が出そうだが、その常識は建前にすぎない。


社会主義国と資本主義国が対立したのは1947年以降の冷戦時代だけであり、それ以前はソ連と欧米の関係は悪くなかった。




▼アメリカの独立と産業革命


 1776年のアメリカ合衆国のイギリスからの独立と建国も、国際政治の実験として見ると興味深い。


米が独立した時期は、産業革命が始まって英の工業生産が増え出し、米が英から産業革命の波及を抑制されて、英製品の市場の状態に甘んじるか、米自身が産業革命を行って工業化していくかという岐路であり、


米は英から独立することで、英製品を売りつけられることを阻止し、独自の工業国になる道を進んだ。米に投資した資本家は、英からの独立を支援したはずである。



 この一件からは、資本家は親英の一枚岩などではなく、英が儲からない国家戦略に固執したら英を見捨てる存在だということがうかがえる。


実際、19世紀末、英の経済力が陰り出すと、国際資本家の中心地はロンドンからニューヨークに移り、ニューヨークの資本家は覇権を英から米に移転させようとして、2度の大戦を誘発した。



 独立当時、アメリカの中心地はボストンだった。だがその後、米経済の中心はニューヨークになり、金融資本家の拠点はすべてニューヨークだ。なぜこうなったのか。


その理由はおそらく、ニューヨークがかつて、ユダヤ資本家の戦略によって世界初の自由貿易として繁栄していたオランダの北米拠点「ニューアムステルダム」だったからだろう。

ニューアムステルダム市のユダヤ人たちは、オランダが英に負けて同市が英領になってニューヨークと改名された後も同市に住み続け、米独立時にはユダヤ人の拠点となっていた。



 ボストン拠点のプロテスタントと、ニューヨーク拠点のユダヤ人は、宗教的にも聖書重視で親密性があり、米は独立時から、全欧的なユダヤネットワークの拡大された一部として機能していたと推測できる。


しかし米中枢の人々は、独立直後から、英が形成していた均衡戦略には取り込まれず、独自の影響圏を形成する戦略を持っていた。


その象徴が、1823年のモンロー宣言である。この宣言は「中南米はアメリカの影響圏なので、欧州諸国は中南米の政治に介入するな。その代わり米も欧州の政治に介入しない」という宣言である。





▼中南米独立の均衡戦略とモンロー宣言


 中南米地域はスペインとポルトガルの植民地だったが、1808年にナポレオン戦争でスペインがフランスに征服され、スペインが中南米を支配できなくなると、そのすきに中南米では独立戦争が起こり、1811年のベネズエラ(グランコロンビア)を皮切りに、1822年までに中南米各地で独立が宣言された。



 当時の中南米は、ブラジルがポルトガル領、その他の大部分はスペイン領で、ブラジルは一つの巨大な国として独立したが、スペイン領はいくつもの国に分裂して独立した。


なぜ分裂したのか。私の推察は、イギリスが「同じぐらいの大きさの国を拮抗させて均衡状態を作る」という覇権戦略の一環として、中南米を分割状態で独立させたのではないかということだ。



 ナポレオン戦争時、スペインはフランスに征服されたが、ポルトガルはイギリスの支援を受け、政府が植民地ブラジルのリオデジャネイロに避難していた。


宗主国から切り離されていたスペイン領は、イギリスの謀略で分割されて独立したが、ブラジルにはナポレオン戦争後、ポルトガル皇太子が国王になる形で形式的に独立し、分割されなかった。



 当時の中南米の最大の貿易相手国は、宗主国のスペインなどではなく、国際貿易全体のかなりの部分を握っていたイギリスであり、中南米は経済的にイギリスの影響が強かった。


そもそもコロンブスらが15世紀に中南米まで探検に出かけたのは、スペインがキリスト教を強化する目的でユダヤ人に追放令を出し、ユダヤ資本家(スファラディ)は探検費用を出して新天地を探す必要があったからだ。


その流れで、スペインやポルトガルから中南米に移民した人々の中にはユダヤ人が多く、彼らは貿易や経済を握り、スペイン系(クレオール)のエリートとともに植民地経営を動かしていた(現在の中南米諸国も同様)。


 中南米では、ユダヤ人の経済的影響力が大きく、イギリスとの経済関係が強いとなれば、イギリスが貿易独占権の強化を狙って中南米を独立させる際、均衡戦略にそって、大陸内の拮抗状態が生じるような分割的な独立を誘導することは十分に可能だ。


イギリスは、中南米各地の有力者に対し、バラバラに独立支援すればいいだけだった。



 中南米の独立戦争の英雄として、グラン・コロンビアのシモン・ボリバルとアルゼンチンのホセ・デ・サン=マルティンが有名だが、


ボリバルは外交官としてイギリス勤務の経験があるし、サン=マルティンは独立戦争支援のために1812年に欧州からアルゼンチンに戻る際、イギリスにあった中南米独立運動の組織と会合した後、英軍艦に乗ってアルゼンチンに上陸した。英は、中南米の独立を支援していた。(関連記事)



 かくして1810-20年代に中南米は独立したが、ナポレオンが追放されて一段落し、復活したスペイン政府は、中南米の再植民地化を画策し、新政府となったフランスと結託して動き出した。


前世紀に英との植民地争奪戦に敗れて北米から撤退したフランスは、新大陸の支配復活が夢だった。



イギリスはこの動きを防ぐため、得意の均衡戦略の方式で、アメリカに呼びかけて米英が組み、西仏に警告を発して翻意させることを目指した。



 しかし、アメリカは全く違うことを考えていた。


モンロー大統領の米政府は、イギリスからの誘いを断って、単独で、西仏に対して警告を発した。

これがモンロー宣言である。


この宣言は同時に、イギリスへの敵対的な警告にもなっていた。


「イギリスを含む欧州諸国は、中南米の政治に介入するな」と宣言したからである。


アメリカはイギリスに対し「南北米州を均衡戦略に基づく英覇権の範囲内に入れるな。南北米州はアメリカ影響圏である」と要求・宣言したのだった。(関連記事)



 イギリスは、せっかく中南米を英国式の均衡戦略で独立させたのに、アメリカに漁夫の利をとられてしまった。


イギリスは、欧州からの自立(孤立)を宣言するアメリカに「孤立主義」のレッテルを貼った。


だが、その後30年もすると、アメリカは工業化によって高度成長して経済大国になり、やがてイギリスをしのぐ国力を持つに至った。



 モンロー宣言に始まるアメリカの独自の世界戦略はその後、2度の大戦を通じたイギリスからの覇権奪取の試み、英が誘発した冷戦によってその試みが挫折したこと、そしてその後のニクソン・レーガン・ブッシュの共和党3政権による隠れ多極主義の流れへとつながっていく。




 何日もかかって苦心して書いた割には、第一次大戦にすら到達できず、多極主義の核心部分を説明するまでに至らなかった。


だが、覇権とユダヤ・ネットワークとの関係は、なぜイスラエルやネオコンなどのユダヤ人が、これほどまでに覇権や戦争、国家システムの創設と破壊、政権転覆などの謀略に長けているのか、という疑問に対する答えとなっている点で、非常に重要である。


そのため今回は、18-19世紀の世界史(欧州史)に特化して分析・推察した。



http://tanakanews.com/080829hegemon.htm



















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