【タイ山岳民族の村に暮らす】

チェンマイ南西200キロ。オムコイの地でカレン族の嫁と綴る“泣き笑い異文化体験記”

【彼女が生き急ぐ理由】

2007年03月07日 | アジア回帰
「ごめんね、キヨシ・・・」
 病院の玄関を出ると、ベンがそう呟いた。
           *
 あれほど病院に行くのを嫌がっていた彼女が、自分から「診察を受けたい」と言い出したのは昨日のことだった。
 物が二重に見え、頭痛が頻発するようになったというのである。

 先月20日に受診した際、医者から「レントゲンを撮る必要がある」と言われていたため、私もしつこく病院行きを勧めてきたのだが、彼女は頑なにそれを拒んできた。

 「今はとにかく、家族を助けなくちゃ。ドクターは一ヶ月薬を飲んで様子を見ようとも言ってくれたのだから、大丈夫だよ」

 しかし、どうも様子がおかしい。
 先月病院に行ったのは、右目の白目の部分に濁りのようなものを見つけたからだったので、二重に見えるのは右目かと思っていた。

 ところが、片目をふさいで確かめてみると、右目の見え方は正常で、見た目にはなんともない左目の方が二重に見えるというのである。

 私も不安になっていた折りだったので、頑固者のベンが自分から病院に行くと言い出したので心底ほっとしたところだった。

 ところが、今朝になってまたどんでん返しが起きそうになった。
 8時頃に「今日は病院にいけなくなった」と電話してきたのである。

「どうして?」
「早朝に母から電話があって、爺ちゃんと甥の具合がまた悪くなったんだって。爺ちゃんはバンコクで悪くなった目が痛い、甥は咳がひどくて、もう2日もご飯が食べられない。だから、ふたりをパヤオの病院に連れていかなくちゃいけないの」

 ベンの実家はランパーン県にあるのだが、かなり東北部に位置しているので町に出るにはランパーン市よりも隣県のパヤオ市の方が近い。だから、実家のかかりつけ医はパヤオにある。

 クルマで行けば30分ほどで着くことができるが、山道はかなりの悪路で急坂だ。
 実家には“モーターサイ”と呼ばれるバイクしかなく、92歳と11歳の病人がバイクを運転する父や義弟の背中にしがみついていくのは至難の業だ。でこぼこ道のリバウンドで振り落とされでもしたら、特に祖父の場合は命取りである。

 母親がベンを呼び出したのもむべなるかななのだが、ベンもまた運転できるような状態ではない。

「ベン、気持ちは分かるが、もしもキミが事故でも起こしたら、それこそ爺ちゃんが心配して夜も眠れなくなっちゃうぞ。ここは我慢して、まずはキミが病院に行きなさい。病院は何時から始まるんだ?」
「10時半だと思う」
「よし、じゃあ10時半に病院に行けば、お昼頃にはランパーンに出発できるだろう。そうすると、パヤオの病院にも十分に間に合う。分かったね?」
「分かった」

 あれほど頑固なベンが私の言葉に素直に従ったのは、よっぽど自分の具合が悪いからに違いなかった。
       *
 検査室に入ったベンが、血液検査の注射あとを脱脂綿でおさえながら待合室に戻ってきた。

「やっぱり、良くないって。それに、ドクターがレントゲンを撮りたいって言ってる」
「もちろん、撮ってもらうんだよ」
「でも、お金が高いから・・・」
「仕方ないさ。俺はショッピングは大嫌いだけど、病気の治療ならいくらだって応援するよ」
「・・・」
 ショッピング好きなベンに少し皮肉を言ってやると、苦笑交じりの照れ笑いを浮かべている。

 この病院にはレントゲン施設がないらしく、ベンは看護婦と連れ立って私立大手のチェンマイ・ラム病院に移動していった。1時間半後に戻ってきたベンに話を聞くと、CTスキャナーで頭部の造影剤撮影を行ったらしい。

「造影剤を注射したら、体がカーッと熱くなってびっくりしちゃった。横になって白い機械に吸い込まれたときは、もうドキドキ・・・」

 話を聞きながら、亡きカミさんが癌センターで受けたさまざまな検査や治療を生々しく思い出す。
 アレルギー体質で喘息にも苦しんだカミさんの場合、造影剤撮影を行うのも命がけだった。
 だが、そうした話が理解できるほどの英語力はベンにはない。

 医者に呼ばれて戻ってきたベンが、「左の目の上に何かがあるって。薬を飲んで、一ヶ月に一回検査を受けて・・・」と言いながら辞書を開き、“維持する”という言葉を指差した。
 
 ・・・腫瘍を薬で抑えるということだろうか。

 再び、肺から脳に転移したカミさんのMRI頭部画像が脳裏によみがえる。

 釈然としない私は、看護婦に説明を求め、さらにドクターとの面談を要求した。
 ドクターは癖の強い分かりにくい英語を使い、しかもベンの方を見るとすぐにタイ語に切り替える。
 苦労しながら聞き取った話は、こういう内容だったらしい。
 
「脳の中に癌ではないけれども小さな腫瘍のようなものがあって、それが12本ある視神経の半分にあたる6本を圧迫して、物を二重に見せたり、頭痛を引き起こしている。それほど深刻な症状ではなく、薬で腫瘍が小さくなっていけば、圧迫による症状も消えていくだろう。右目の濁りのようなものは、特に女性の場合によくある症状で、太陽を浴びすぎたり、風に当たりすぎたりしたときに出てくる炎症で、これも薬で解決できる。ともかく、あまり心配する必要はない」

 “セカンド・オピニオン”という言葉が頭をよぎったが、ここは日本ではない。
 ベンは医者の言葉を信じきっているし、私にはあまりにも情報がなさすぎる。
 しばらくは、この医者の指示に従うしか手はないだろう。

 病院の玄関を出ると、ベンが「ごめんね、キヨシ。私、具合が悪くなって・・・」と呟いた。

「いいんだ、マイペンライ(気にするな)」と返したが、胸が詰まりそうになる。

 癌センターで告知を受けた直後、カミさんも唇を噛んで「ごめんね」と呟いたのだった。
 気丈に振る舞ってはいたが、顔はすっかり青ざめていた。
 
「泣いてもいいんだよ」

 そう言うと、きっとした顔で「泣かないんだ」と強く言い切った。

 「泣かないで、闘ってやるんだ。絶対に負けないから・・・」

 その言葉どおり、カミさんは1年4ヶ月を果敢に闘い抜き、そして逝った。
          *
 気丈さでは、ベンも負けてはいない。

 「今日は運転を控えるべきだ」という私の制止を振り切って、ベンは今夜の家族のための夕食“スキ(タイスキ、日本の寄せ鍋を辛いタレで食す)”の材料を買い整え、付き添い役の友人ノンを助手席に乗せて、ランパーンに向けて出発していった。

「どうしても爺ちゃんが心配だから、今日は頑張ってランパーンに行くね。でも、戻ったら絶対に安静にしているから心配しないで」と掻きくどくように言いながら。

 ここまでは、分かる。
 だが、分からないのはこれからだ。

「キヨシ、私、髪染めてもいい?」
「髪?ダメ、俺は黒いほうが自然で好きだ」
「でも、私きれいになりたいんだ。あ、それからね、二重まぶたにしてもいい?」
「二重って、今も二重じゃないか」
「そうだけど、もっときれいな二重になりたいの」

 普段の私なら、怒鳴りつけるところだ。
 しかし、病院からの帰り、久々に立ち寄った彼女のアパートで、ベンはふとこんなことを漏らしたのだった。

「キヨシ、ビーティーレオって分かる?」
「ビーティーレオ?えーっと、確か去年という意味だったね」
「そう、去年のことだったんだけど、かかりつけの医者がね、ベンはあと2年で死ぬって言ったの」
「2年で・・・」

 ベンはよく冗談のような口調で「ベンは早く死ぬかもしれない」と口にするのだが、「医者が言った」というのは初めて聞く言葉だった。

「でもね、今はもう大丈夫。心臓も順調だし、血液も貧血気味だけど食事や薬で改善できる。目と頭も、半年薬を飲み続ければ大丈夫って医者も今日言ってくれたでしょ。だから、ベンはもう死なないと思う」

 思えば、彼女が“メーチー(女性修行者)”になりたいというのも、メーチーになれば病院では手に入らない特殊な漢方薬が手に入るからだというのがもっとも大きな理由なのだった。

 家族を楽にするために家やクルマに対して異様なほどに執着し、“家族がハッピーになったら私は死んでもいいんだ”と言い放って身を投げ出すようにランパーンとチェンマイを往復する。

 そして町に帰ってくれば、その反動のようにショッピングや美容にのめりこむ。
 
 私には、人が一生かかって手に入れるものすべてを、わずか数ヶ月足らずの間に一気に手に入れようとしているかのように思えてならなかったのであるが、その理由が今日やっと呑み込めたような気がしたのだった。

 ベンは、「あと2年しか生きられない」という医者の無責任な宣告に脅えながら生きていたのである。

 だから、今のうちにできるだけのことを家族にしてあげたいという仏教的な自己犠牲に駆られ、しかしながら反面では急速な経済成長下に育った20代後半の女性としてのさまざまな物的欲望にも引き裂かれ、そのどうにもならない葛藤を父親のような年代の私に対して、まるで駄々っ子のように地団駄を踏みながらぶつけていた、ということなのだろう。

 私自身が、癌と闘う妻を1年半看病したという事実にも何かを感じ取ったのかもしれない。

 だから、家族には言えないようなことも私にはすべてさらけだす。

 ベンよ、決して生き急ぐことはないのだよ。
 体にいくつもの病気を抱えていても、今のキミははち切れそうに若く元気じゃないか。

 それに、キミには日本人にはない強引なまでの“マイペンライ(気にしない)”精神がある。

 ときに、それは私を限りなく疲れさせるけれど、ときにはまた限りなく勇気づけてくれることも確かな事実なのだよ。

 マイミーバンハー(問題ないよ)!
 チョークディーナ(グッドラック)!

 

 
 
 

 

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