「母の寝小屋ができあがったよ」
夕方、ラーから電話がかかってきた。
私自身は、朝一番に若い衆を引き連れてバナナ小屋のベランダ用割竹を引きはがしに行き、午後からの作業は彼らに任せていたのである。
ところが家に戻ってみると、冒頭の写真のごとく前面の壁に割竹ではなく、コンクリート痕の残った無粋なベニヤ板が張ってある。
「おいおい。これじゃあ、せっかくの伝統的小屋造りが台無しだぞお。いったい、どうしたんだ?」
ラーに話を聞くと、これには甥っ子ジョーが強くこだわったのだという。
「ベニヤは竹よりも長持ちするし、雨や風も防ぎやすい。これは、僕から婆ちゃんへの贈り物です」
実は、このベニヤ板はジョーの仕事っぷりに惚れ込んだ橋梁工事の親方が足場用の孟宗竹と共にプレゼントしてくれたものなのだ。
そして、自分の家の水浴び場用に使おうと思っていたらしい。
ところが、婆ちゃんの離れづくりが急に決まったので、大切に取っておいたこの板をこちらに回し、自分の方は残った割竹で代用することに決めたのだという。
まあ、ここだけをベニヤ板にしてもほとんど意味はないし、竹の隙間から光が入らないから、鬱陶しくもある。
だが、ジョーの“気持ち”となれば、日本人としての見た目になどこだわってはいられない。
よし、あとは引っ越しだな。
町に新しい敷きマットや枕、蚊帳などを買いに出かけ、急いで家に戻った。
*
ところが、出来上がった小屋の中に、なぜか僧侶たちが上がり込んでいる。
ワイ(合掌礼)をしながら薄暗い中をのぞくと、なんと、ふた月前ほどに山の奥の瞑想寺建設予定地までクルマで送って行ったトン師を初めとする修行僧たちではないか(3月2日記事を参照)。
彼らは確か、説法のためにラオス国境をチェンコーンから南下していたはずである。
「実はな、バンコクに着いたところでパヤオの寺に呼ばれたもんだから、オムコイが恋しくなって、急に思い立って戻ってきたんだよ」
そういうトン師は、車酔いでふらふらだ。
一行には、当年68歳の高齢僧も交じっている。
急に思い立ってとは言っても、パヤオからオムコイまでは360キロも離れている。
私もつい先日、6時間がかりで走って疲労困憊した。
*
パヤオからクルマを運転してきたのは、高齢僧の昔からの知り合いで、携帯電話販売を手がけているという中年男性である。
「いやあ、オムコイへの山道はすごい。まったく、すごい」
疲れ切ったのだろう、そう言いながらビアチャンをぐいぐい呷っている。
「バンコクから電話があったんで、最初はパヤオからバンコクまで迎えに行ったんです。それから、チャイナー、アユタヤを経由してまた10数時間がかりでパヤオに戻った。その二日後に、今度はオムコイです。そして、明朝にはまたパヤオに戻るという。いやあ、このお坊さんたちは化け物みたいだ。今日なんか、眠気覚ましに煙草を二箱も吸っちまった」
そう愚痴りながらも、楽しそうに笑っている。
オムコイは涼しくて、とても快適だそうだ。
粗末なカレン式寝小屋にも、興味津々である。
*
目の前にラーが用意した薬草入りの焼酎がある。
僧侶たちに供していいものかどうか迷っていると、煙草を吹かしていた40歳くらいの僧侶が、手早くぐい呑みに満たして私に手渡した。
恐縮しながら飲み干し、試しに返杯してみると、ためらうこともなくグイと飲み干す。
高齢僧も、同様である。
トン師は、気分が悪くなって風に当たりに出たのでその飲みっぷりは見られなかったが、車酔いでなかったら同様に飲むという。
「煙草のことは前回聞きましたが、タイの僧侶は酒も飲んでいいんですね?」
以前読んだタイ仏教に関する本には、タイの僧侶は禁酒、禁煙、禁女はもとより数々の厳しい戒律に縛られると書いてあったからだ。
そう訪ねると、高齢僧が笑いながら「少しだけならね」と笑いながら答えた。
若い頃に英語を学んだそうで、時おり記憶の底から絞り出すような英語が混じる。
食事も、原則としては朝と昼の2回で、午後には牛乳やジュースなどしか飲めないそうだが、「どうしようもなく腹が好いた場合は、まあ少しだけならね」とまた笑う。
「もちろん、それはある程度修行を積んだ者に限られるけどね。修行中の若い僧には、もちろん許されないことだよ」
ラーの補足によれば、彼らはすでに「僧侶たちの先生」という立場にあり、もしも住職として寺にとどまれば、かなりの地位にまで上り詰めているはずだという。
だが、60歳のトン師も68歳のこの高齢僧もそれを望まず、各地の寺や信者に呼ばれると疲れも厭わず、こうして過酷な旅を続けているのである。
*
ゆっくりと時間をかけて焼酎をやりとりしていると、運転手役の人が私に携帯電話を手渡した。
「この女性は、日本語が話せます」
受話器を耳に当てると、「初めまして、こんばんは!」
やけに元気な、しかも流暢な日本語が飛び込んできた。
「あたしはいま、千葉にいます。チェンライの出身です。あなたは、どこですか?」
「ち、千葉?僕はチェンマイ県のオムコイというところに済んでいますが、この電話は日本にかかっているんですか?」
「そうですよ、千葉ですよ。あたしは、日本人の主人と結婚してもう20年も済んでいます。あなたは、オムコイに何年住んでいますか?」
「そろそろ、3年半になります」
「じゃあ、タイ語はペラペラですね」
「いや、全然駄目で、いまもお坊さんたちと話しながら呆然としています」
「ハハハ、でも奥さんと毎日喋ってればすぐに覚えますよ」
「でも、うちの嫁は英語とタイ語とカレン語をチャンポンで喋るので、頭がついていきません」
「ハハハ、まあ頑張ってください。あたしもときどきタイには戻るけど、日本は食べ物がおいしいからねえ。房総の刺身なんて、もう最高。地震のときも、少し揺れただけで何も問題はない。だから、日本にずっといますよ」
「ははあ、そんなに日本はよろしいですか。僕は、日本よりオムコイの方がずっとよろしいですが」
「ああ、そうですか。あなた、変な日本人ね。アハハ・・・。今度チェンライに戻ったら、この電話を貸してくれた人に聞いて、絶対にオムコイに遊びに行きますからねえ」
とまあ、ざっとこんなやりとりが20分ほど続いた。
彼女によれば、電話を貸してくれた彼は同級生という話だったのだが、彼自身はラーに「若い頃に離婚した女房です」と説明してくれたそうだ。
それにしても、タイの携帯電話は凄いなあ。
*
ゆったりした酒盛りが続き、内容は半分も分からないながら、話は大いに弾んだ。
時おり、近隣の衆が挨拶に来て話に混じったり、相談事をしたり、ビールの差し入れをしたりする。
腹が減って、私と運転手役は先に飯を食べたが、僧侶たちは合間にパック牛乳や薬草茶を飲むだけである。
68歳の高齢僧も、まったく疲れを見せない。
10時になって、こちらはぐったりとなって母屋に戻りふとんにもぐり込んだ。
しかし、彼らの賑やかな話し声で一向に眠れない。
とりわけ、高齢僧の声が段々高くなってくる。
まだ、焼酎を飲んでいるのだろうか。
やはり、化け物である。
*
一夜開けて、普請中の隣家で眠った彼らに朝粥を供した。
壁が半分も囲っていない吹きさらしの板張りの上には、ゴザが敷かれているだけである。
体調の悪いトン師だけは、わが家の離れで寝たらしい。
だが、高齢僧ももりもりとエビ・イカ入りの濃厚粥を平らげた。
確か、離れには6本のビアチャンの空き瓶が転がり、焼酎はすっかり空になっていた。
私が寝たときには、ビールは3本、焼酎は半分ほど残っていたはずだ。
「あれから、かなり飲まれたようですね?」
そう水を向けると、
「ほんの少しだけね」
高齢僧が、マシュマロのようにふわっと笑った。
*
「これからパヤオに戻って、あとはラオスやビルマ(ミャンマー)を歩くことになると思う。8月になるとカオパンサー(雨季安居)に入り、その3ヶ月間どこの地の寺にこもるかは、まだ分からない。それまでに、また会いたいもんだね。すべてがうまく行くように祈っているよ」
トン師が、そう言いながら私の両手をぐっと握り、しまいには西洋式のハグで強く抱きしめた。
なんとも、さばけた茶目っ気のある坊さんである。
最後に、板の間に座り直して、4人の僧侶が読経をあげてくれた。
短いものだったが、これまでに聞いた数々の読経の中で、もっとも胸に沁み入るような底深い響きがあった。
*
彼らを送り出してから、改めて寝小屋の掃除にかかった。
寝具や蚊帳をセットし、ラーがおぶって母親を“新居”に移した。
「ああ、カレン族の家だ。あたしの家だね」
床や壁の割竹に触れながら、母親が嬉しそうに呟く。
マットに横になり、声を出しながら大きく伸びをする。
すっかり、くつろいでいる様子だ。
いかに実の娘たちの家とはいえ、持ち回りで3カ所を転々とすることに、やはり気兼ねや疲れを感じていたのに違いない。
粗末な急造りながら、今のところはいい結果が出たようだ。
目の不自由な彼女には、ピカピカのお城のように見えていればいいなあ。
「婆ちゃん、あんたの新居には先にトン師が寝てくれたんだよ。これ以上縁起がいい家は、どこにもないよ」
ラーにそう通訳させると、婆ちゃんが鼻で笑った。
「ああ、あの子は若い頃、とんでもない極道者だったねえ。・・・でも、まあ、いろいろとありがたいこって幸せですよお」
☆今日も応援クリックを、よろしく。
ホッとしますね.
そう言っていただけると、こちらも時間をかけて書いた甲斐があるというものです。ありがとうございます。
それは、なによりでした。もしかしたら、同世代でしょうか。