3日間なんて、あっという間に過ぎ去ってしまうものだ。
*
タイとラオスの国境の町、フエイサイの岸辺をスローボートが離れたのは、7日の午前11時40分だった。
出発時刻は11時の予定だったのだが、あるツアーグループが遅刻をして暑い日差しの中を延々と待たされてしまった。
その間なんの説明もなく、係員が何度も何度も乗船している人数を数えるだけ。
タイよりもラオスの方が、さらにのんびりしているようだ。
試しにタイの携帯電話でラーに電話をかけてみると、あっけなくつながってしまった。
「ハロー、ハニー!」
元気なしゃがれ声が、国境のはるか南、オムコイの村から届いてくる。
「いま、どこにいるの?」
「ラオスのフエイサイ。もうすぐ、スローボートが出発する。そうすれば、もう電話は通じなくなる」
「そう、もう出発なの。でも、またチェンマイに戻ってくるよね?また、会えるよね」
「それは、まだ分からない・・・胃の調子はどうだ?」
「まあまあ。でも、まだ何も食べられない。ミルクしか飲めない。そちらは、ゲンキデスカ?」
教えた日本語をはきはきと発音するので、思わず笑ってしまう。
「日本語、とてもうまいぞ」
「アリガト。ゲンキデネ!」
「ああ、そちらも早く胃を治して元気でやるんだぞ。ウイスキーの飲みすぎに気をつけて、タバコも控えるように」
「分かった。キヨシは昨日飲まなかったの?」
「部屋で、少しだけ飲んだ」
「ひとりで?」
「ああ、ひとりで」
「それは良くないなあ。きれいな女性と一緒に飲んで、楽しまなきゃ」
「ライブバーに行こうと思ったんだけど、店の外で聞いた歌手の歌があまりにひどかったんで、部屋に戻ってきたんだ」
その様子を想像したのか、ラーがけらけらと楽しそうに笑う。
「ところで、今日はどこに泊まるの?」
「パクベン。ルアンパバーンに着くのは明日の夕方だ」
「ルアンパバーンはいい町だよ。お寺がたくさんあって」
ラーは数年前に、家政婦として雇われていたアメリカ人夫妻に誘われてラオスを旅している。
喧嘩別れする前には、私をあちこちに案内しようと張り切っていたのである。
「わたしが鳥だったらなあ。どこにでも飛んでいけるのに。ルアンプラバーンにだって行けるのに・・・」
「ラー、そんなこと言っても仕方ないだろう」
「ごめんなさい・・・落ち着いたら、メールちょうだいね」
「分かった。メールが駄目だったら、電話をかけるかもしれない」
「すべてに対して、ありがとう。ゲンキデネ。サヨウナラ」
「さようなら。元気でな」
*
スローボートが、メコンの流れに乗った。
もう、引き返せない。
100人あまりの乗客を載せた20メートルに近い長い船が、エンジンを全開にして真っ赤な水を突っ切っていく。
両岸を覆う原生林が、延々と続く。
見えるのは、空と雲と山と川。
ときどき、村が見え、物売りの人々が姿を現し、そして消えていく。
エンジンの音だけが、やけにうるさい。
午後6時前に、パクベンの村に着いた。
上陸した途端、目の前に迫ってきた若い男の誘いに乗ってバイクの後ろに乗った。
着いたのは、家を改造したような素朴なゲストハウスだった。
水浴び場は共同で、80バーツ。英語も通じるので、この宿に決めた。
シャワーを浴びて、さっそく町に出る。
といっても、町は一本道だ。
船着場に行き、メコン川で洗車をする男と水遊びをする子供たちを眺める。
坂をのぼり、現地の男たちがたむろする川べりの店に入った。
ビアラオを頼み、焼き鳥を注文する。
酔った男たちがワイ(合掌礼)を送ったり、「ハロー」と声をかけたりして、「焼酎を飲まないか?」と誘ってくる。
見ると、でかいボトルを数人で囲み、小さなグラスを回しのみしている。
ラーの村で見た?歓迎儀式?の献杯の応酬と同じである。
鄭重に断りを入れ、酔うにつれてカラオケ画面に合わせて踊り始めた男たちの様子を観察しながら、ゆっくりとビール2本を飲み干した。
彼らのしゃべる言葉は、いくつかがタイ語と同じだった。
*
眠りにつくと、しばらくして電気が消え扇風機がとまった。
暑くて、なかなか眠れない。
明け方に雷雨とともにスコールが襲い、やっと涼しくなって眠りに落ちた。
7時に起きて朝食をとり、夕べとは反対方向の道をたどって古い寺と小さな市場を眺めた。
女性たちは、少女も含めてほとんど巻きスカートを着用している。
8時に宿を出て、スローボートに乗り込んだ。
今日は、前席にフランス語をしゃべるラオス生まれの30代カップル2組。
となりに、ドイツ人中年姉妹。
そのとなりにオーストラリア人と日本人学生という配置である。
今日の船はエンジン音は静かだが、椅子がお粗末で座り心地が悪い。
風景もまったく変わらず、船旅はかなり苦痛なものになってきた。
久々に俳句をひねったりしたが、錆びついた言葉はなかなかひらめかない。
たまらず席を立ち、後部に集まっていたオーストラリア人やスペイン人、オランダ人たちと会話を交わす。
しばらくして席に戻ると、日本人学生がとなりに座ったので、あとはずっとこの学生としゃべりながら退屈な時間をやり過ごした。
ルアンパバーンに着いたのは、午後5時過ぎだった。
集まった客引きを無視して、見当をつけておいた川べりの宿に行き、一泊4ドルで即決。
さっそく散歩に出ると、激しいスコールに見舞われた。
雨宿りをしたギャラリーの男の笑顔が、穏やかだ。
スコールが止むのを待って散歩を再開すると、メインストリートは欧米人観光客向けのレストランや旅行会社で埋め尽くされている。
あきれて市場に向かったが、ビールを飲ませる屋台がなかなか見つからない。
どうやら、ビールと惣菜ともち米を別々に買って持ち帰るしかないようだ。
面倒なので一番素朴な外人向けレストランに入り、チキンバーベキューとパパイアサラダを注文したら、これがなかなかの味。もち米もタイとは違って精米が荒く、焦げ味とともにしっかりした噛み応えがあった。
料金は、なんと49000キップ。驚いて米ドルに換算してもらったら、6ドルだった。いやはや。
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今日は、9日。長崎原爆投下の日だ。
7時に起きてシャワーを浴び、すぐに散歩に出た。
一番有名なワット・シェントーンに行き当たったので、勇んで向かうとなんと参観料2万キップ。鄭重にお断りし、仏像にのみお参りしてそそくさと踵を返した。
ラオスの仏像の表情は、タイに比べてどことなく硬い。
メコン川支流のカーン川沿いに歩くと、現地人だけがたむろする麺類屋を見つけた。やはり、ラオス人はタイ人よりものんびりしていてかなり待たされたが、味のほうはなかなかで、スープはタイのようなくせがなくあっさり味、米の麺もコシがある。6000キップ。
腹ごしらえを済ませ歩き出すと、古い寺に突き当たったのでそのまま階段を昇っていくと、その先になんと代表的な観光名所の「プーシー」(仏塔のある山頂)への上り口があるではないか。
ここでも参観料2万キップを請求されたが、ここは町全体を俯瞰するためにも上っておきたい。
結果は、吉と出た。
すばらしい景観の上に、仏像が落ち着いたいい表情をしていたのである。
現地の人にならい、三拝のあと黄金の重い仏像を抱えてそれを肩の上まで持ち上げる。これを3回繰り返すと、何らかのご利益があるらしい。
そのあとで座禅を組み、しばし瞑想にふけろうとしたのだが、なぜかラーとのけしからぬシーンばかりが頭をよぎり、「修行が足りん!」と自らに喝を入れることしきりである。
山頂でめぼしをつけておいた橋まで歩く。
これが鉄橋を改造したと思われるバイク・自転車専用の橋で、人は両側のお粗末な木の橋げたをわたらねばならない。
橋から振り仰げば、先ほどここを見おろしたプーシーの仏塔が目に入る。
初めての町に着いたら、まず私が一番高いところに上るのは、この俯瞰と眺望の醍醐味を味わうために他ならない。
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汗だくになったので、いったん宿に戻り、シャワーを浴び洗濯をした。
市場に行って鳥の丸焼きと豚肉トマトスープ、もち米、ビールを買い、メコン川のほとりで昼食をとった。
おばばが「1万5000キップ」というから、「タイバーツならいくら?」と訊くと「60バーツ」だと答える。
チェンマイより少し高めだが、パーイのような外人向け観光地なら相応の値段だろう。
ちなみに、酒屋で買うビールは9000キップ。昨夜のレストランは、これに1000キップを上乗せしていたことになる(スローボートでは2万キップだった)。
だが、レストランによっては「8000キップ」と表示しているところもあるから、この酒屋は私を外人とみてぼったのかもしれない。
やれやれ。
昼食後、目の前にある国立博物館を見学した(3万キップ)。
この建物は1909年に建てられた王宮で、1975年に革命が起こるまで王族はここで暮らしていたという。
そこで、博物館となった建物内には王が着ていた服や警護が使っていた刀などが残されており、なかなかに生々しい想像力をかきたててくれる場所となっている。
博物館とは、本来こうでなくてはならないと思う。
しかし、それにしても、快晴のラオスは暑い。
博物館敷地内にある寺に入ると、仏像はなく、仏像が鎮座する金きらきんの台座が中央を占めている。
なんだか拍子抜けして座り込むと、大理石の床の冷たさが気持ちよく、思わず横になりたくなってしまった。
さすがに、それは不謹慎だと自らを叱咤し、再び宿に戻ってシャワーを浴びることにした。
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このところ、長い文章が続いて、読むほうも大変だろうなあと反省している。
自分の旅の覚書が主目的なので、読み手への配慮はほとんどない。
そんな文章にお付き合いくださった皆さん、そろそろビールにしませんか?
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