【タイ山岳民族の村に暮らす】

チェンマイ南西200キロ。オムコイの地でカレン族の嫁と綴る“泣き笑い異文化体験記”

【めでたさも憂いに曇り】

2007年03月12日 | アジア回帰
 今日はベンの実家の“柱立て”の日だ。

 屋根や各種建材はかなり近代化されたとはいえ、基本構造は昔ながらの高床式住居だから、まずは28本ほどの柱を立ち上げることから家づくりはスタートする。
 
 いわゆる“吉日”を選んでの挙行であるから、日本での“棟上げ式”に近い。

 女たちは早朝3時に起き出して、総出で炊き出しに励んでいるという。

 受話器の向うに、女たちの賑やかなしゃべり声や叫び声、時おり大工が釘を打つような音が響いて時おりベンの声がかき消されてしまう。

「ベン、調子はどうだい?」
「大丈夫。問題ないよ」
「でも、疲れたろう?」
「うん、少しね。今日はお昼からパヤオのクリニックに行く予定」
「爺ちゃんか?」
「ううん、ベンとノンと叔母の3人で」
「どうしたんだ?」
「目がちょっと見えにくくて、薬をもらいに行くの」

 ドキッとした。本当に、どんどん悪くなっている。
            *
 実は、先週木曜日に実家から電話してきたベンと喧嘩になって、一時はお互いに別れを覚悟するほどの険悪な雰囲気になってしまった。

 金曜日の夜には、「ありがとうとさようなら」を言うための電話がかかってきたが、私は冷たく突き放した。

 脳に腫瘍らしきものが発見された直後だけに、私の方が折れるべきだったのだが、ベンが小さな嘘をついたことがどうしても許せなかったのだ。それは必要に迫られてのことだったのだが、私の行動規範はいまだ厳格な「日本人」のままだ。

 眠れぬ3夜を過ごし、考えもまとまらないまま日曜日の朝にこちらから電話をかけた。
 視覚に問題を抱えるベンを、このまま放っておくわけにはいかない。

 アパートにやってきたベンは、なんだか少し小さくなったような気がした。
 建て替えにまつわる雑用に追われてギスギスしていた表情が薄れ、久々に柔らかな微笑をたたえている。

 「髪、切っちゃった。色も染めたの。どう?オーケイ?」

 化粧をしたり、髪形を変えたり、新しい服を着るとき、ベンは必ず私に見せて「オーケイ?」と訊く。
 だが、あれほど「黒い髪の方がいい」と言い聞かせたのに「オーケイ?」も何もないものだ。

 まったく、この頑固者め。

「美容院は高いから、自分で切ったの。染料も自分で買って、シャワー室でノンに染めてもらったんだよ」

 髪はかなり“ざんばら”だが、そのせいかデザイナーズカットを受けたような不思議ないい味が出ている。
 少しやつれたのは事実だろうが、顔が小さく見えたのはこの髪形のせいでもあったのだろう。
 染料も、言われなければ気づかないほどの淡い色で、なかなか似合っている。

「きれいだよ」

 そう言うと「ね、だから言ったでしょ!」とでも言わんばかりにニコッと笑った。
 久々に過ごす平和な時間だ。

 だが、平和はなかなか続かない。

 いまの体調を聞くと、辞書を開いて「頭痛」と「吐き気」を指差した。
 吐き気も出てきたのか・・・。

「パヤオの大きな病院に行ってCT画像を見せたら、最悪の場合7ヶ月で死ぬかもしれないって言われちゃった。だから、薬で小さくならなかったら・・・・」と言いながら、私の腕をノコギリで切るような仕草を示す。

 辞書を開いて“手術”の項を見せると、こっくりうなづいた。

「でも、手術をするならバンコクの方がいいって。設備も医師も揃っているから」

 どうやら、この医者は脳の専門医ではないらしい。
 それなのに、どうしてこうも簡単に「7ヶ月で死ぬ」などと患者に向かって言うのだろう。

 私はカミさんを癌で亡くした体験から、医師による余命宣告がいかに無責任で当てにならないものであるかをよく知っている。

 最近の日本では、癌ですらも余命宣告を行わない医師や病院が増えていると聞いた。

 だが、ベンは去年、心臓の血流障害と腸の機能不全で入院したときには「あと2年しか生きられない」という宣告を受け、アルツハイマーといくつかの内臓障害をもつ祖母は今年1月に「あと4年くらい」という宣告を受けている。

 タイでは、こうした宣告が当たり前のように行われているのだろうか。

 私は座り直して、ベンの手をとった。

「ベン、その医者は脳の専門医じゃないんだろう。インターネットで調べたら、俺のかかりつけのチェンマイ・ラム病院には脳神経外科も脳神経内科もある。とにかく、脳の専門医に診てもらうのが先決だ」
「でも、私立だから診察費がものすごく高いんだよ」

 ベンは、大学卒業後、この病院で看護婦として働いた経験がある。
 だが、遺体処理の仕事に震え上がってわずか6ヶ月で退職した。
 このときの体験談は、不謹慎ながら何度聞いても爆笑ものだ。

「それは仕方ないさ。先週行った眼科医には設備が無いから、わざわざ大きい病院に行ってCTを撮ってもらったんだろう?」
「うん」
「チェンマイ・ラムには眼科もあるから、一ヶ所で連携治療を受けた方が絶対にいいんだ。それに日本語の通訳もあるから、俺もドクターの説明が理解しやすい。それでもダメなら、バンコクに行くことも考えよう」

 チェンマイ・ラムの医師は、英語をしゃべる。
 だが、発音に癖があるため聴き取りにくく、医学の専門用語を使われると私もお手上げになってしまう。
 特に、今回のケースのようにデリケートな症状では日本語通訳が不可欠だ。

「分かった。ありがとう。でも、今日はまたランパーンに行かなくちゃいけないんだ」
「またか?忙しいのは分かるが、頭痛と吐き気があるのに、運転するのは無茶だ」
「明日は“柱立て”の日だから、今日は大工さんと打ち合わせがあるの。明日は職人さんたちに料理も振る舞わなきゃいけないし」

 古き良き日本の風習にもつながるタイ北部農村のしきたりは、時として重い足かせともなる。
 女の役割が大きい女系家族の、とりわけ“大学を出た長女”の肩には渉外・会計担当としての重責がのしかかる。
 病気ですら、不在の言い訳にはできないらしいのだ。

 いや、むしろベンは病気をひた隠しにして、祖父母孝行・親孝行に挺身する。

 力づくでも引き止めたいところだが、そうすればベンは逆に強いストレスを感じて病状を悪化させてしまいかねない。

 だから、昨日は何も言わずに送り出したのだった。
         *
 だが、ベンの話から視覚障害は確実に進行している。
 即刻、手を打たなければならない。

「ベン、くれぐれも無理するんじゃないぞ」
「大丈夫。料理もみんなに任せて見ているだけだし、パヤオ行きも叔母が運転してくれるから私は1時間くらい眠れるし」
「で、いつチェンマイには戻れるんだ?」
「うーん、まだ分からない。材木もまだ揃っていないし・・・」
「ベン、俺はキミの病気についてインターネットで調べたんだ。とにかく、一日も早く専門医に見せなくちゃいけない病気なんだぞ」

 可哀想だが、少し脅さないと自分の体よりも家族への奉仕を優先してしまう。

「・・・分かった。じゃあ、水曜日中にはなんとか戻るようにする」
「よし、俺も水曜日はタイ語の授業があるから木曜日に病院に行こう。いいね」

 会話の合間に、誰かが挨拶するような声とそれに答えるベンの声が音楽のように混じりあい、からかうような女たちの笑い声が鼓膜を突き破りそうな勢いで耳に飛び込んでくる。

 ベンの母親が電話口で「サワッディージャーオ(おはようの女性方言)!」と叫んだので、こちらも「サワッディークラップ(おはようの男性語)!」と叫ぶと、また大きな笑い声があがった。

 義弟の家の裏庭に散乱する調理道具のまわりで、家族や親戚、近所の女たちに囲まれて楽しそうに微笑むベンの姿が目に浮かぶ。

 今日はめでたい“柱立ての”日。

 だが、そのめでたさも憂いに曇りがちな春3月(タイはすでに初夏)の吉日である。

 

 
 

 




 
 

 

 
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