1970年代後半、タイの隣国カンボジアにおいて、ポル・ポト政権による大虐殺が行われたことは広く知られている。
その大虐殺を裁く国際特別法廷で、新たに4人の政権幹部が起訴されたという。
確か4年ほど前、アンコールワットを訪れたとき、世界各国の協力を得て国際特別法廷の準備が進められていると耳にしたのだが、その時点からこの裁判の困難さは予測されていた。
今回起訴された4人はその責任を否定しているというし、去る7月の一審で禁固35年の刑を言い渡された2人の幹部も、判決を不服としてすでに控訴している。
彼らが進んで未曾有の大虐殺の罪を認めるはずはないし、肝腎のポル・ポトはすでに死亡しているのだ。
これから、またどれだけの年月が費やされることになるのか。
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このニュースを読んで脳裡に浮かんだのは、ひとりのカンボジア人ドライバー氏である。
およそ3年前、ラオスの北端から南端まで約1ヶ月をかけて旅してカンボジアに入ろうとしたとき、南端の国境で手配したワゴン車が満杯になり、私とふたりの若い欧米人が乗れなくなるというトラブルが起こった。
そのとき、急遽プノンペンからクルマを出して迎えにきてくれ、再びプノンペンまでとんぼ返りしてくれたのが、このドライバー氏だった。
普段は、プノンペンで観光ハイヤーの運転をしているといい、かなり流暢な英語を話した。
そこで、道々いろんな話をしているうちに、彼の両親と弟もポル・ポト派に拉致され、行方不明になったままだということが分かったのである。
当然、間もなく開かれる国際特別法廷に関する話題も出たのだが、彼は淡々とした語調で、「それは、もちろんいいことには違いないけど」と呟いて、ふと黙り込んでしまった。
車内に、長い沈黙が続いた。
それから、彼がやっと口を開いた。
「この国で起こった一番哀しいことは、家族や親戚、友人、知人の間にまで疑心暗鬼が広がり、誰も本心を語ろうとしなくなった、心から笑い合えることがなくなったということなんですよ。そして、それは今も変わらない。ポル・ポトが死んでも、幹部たちが捕まって裁判にかけられても、私たちの心の中には姿の見えない恐怖が染み込んでいる。だから、今のカンボジアでは、何も喋らないことが一番の処世術なんです」
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翌日、私はプノンペンまで同乗した若いファランと相談して、このドライバー氏に大虐殺の跡地“キリング・フィールド”まで案内してもらうことにした。
周知のように、慰霊塔には掘り出された頭蓋骨が無数に積み上げられている。
われわれとしては、彼に少しでも稼いでほしいという思いもあったのだが、家族を殺された当人の気持ちも忖度しなければならない。
そこで、事前におそるおそる彼の意向を確かめてみたのだが、彼の言葉は明快だった。
「それは、実にありがたい申し出ですよ。昨日、私は初対面のあなたたちに、かなり腹を割った話をすることができた。だから、内心ではぜひあなたたちをここに案内したいと思っていたんです。過去には辛い思い出もあるけど、ともかく自分は無事に生き延びて、妻や家族と幸福に暮らしている。いまの私がやるべきことは、ドライーバーとしてできるだけたくさんの人たちに、カンボジアの現実を見てもらい、何かを考えてもらうこと。それが、行方不明になった家族に対する一番の供養だと思っています」
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あれから、3年。
落ち着く先も知れぬ旅人だった私はいま、カンボジアを再訪することもなくオムコイの地で暮らしている。
特別国際法廷の気の遠くなるような進捗具合を、かのドライバー氏はどんな思いで見守っているのだろうか。
*写真は、滝下の増水にもめげずラーが収穫してきた川エビの掻き揚げである。昆虫ばかりを食べているわけではありません。
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オムコイに行きたくなりました。
来月中旬から2月末までチェンマイに滞在します。
何か要る物が有れば日本から持って行くので遠慮なく言って下さい。
お気遣い、ありがとうございます。しかし、「遠慮なく」とおっしゃられるとコンテナ一杯になりそうですから(笑)、もしもバッグに隙間があったら、打ちたてのそばと一升瓶、もとい、かさばらない程度のセンベイか漬け物でも詰め込んでいただければ幸いです。
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しんちゃん
記事には書きませんでしたが、拷問や処刑が行われたトゥール・スレーン刑務所(博物館)を見終わったあと、座り込んだ椅子からしばらく立ち上がれなかったことを思い出しました。
それにしても、当ブログをお読みになって「そうだ、ビエンチャンに行こう!」「そうだ、プノンペンを再訪しよう!」と思いつかれる身軽さがうらやましい限りです。生ビアラオの味は、いかがでしたか?