ベンの症状が気になったので、バンコクに電話を入れてみた。
結婚後もベンからは何度か電話があり、昨日の電話では前夜ひどい頭痛に襲われたと言っていたからだ。
「ベン、具合はどうだ?」
「少し治まったけど、まだ頭痛は続いてる」
「とにかく、病院に行ったらどうだ?」
「お金がないから、行けない」
「金、出してくれないのか?」
「病気のことを話したけど、よく理解できないらしいの。お金の蓄えもないというし・・・」
「叔母さんは助けてくれないのか?」
「オバは娘夫婦の家に出かけて、しばらく戻ってこない。鍵がないから、オバの家で休むこともできない」
そういえば、結婚翌日の早朝、ベンは叔母の家から私に電話をかけてきた。
その後も、しばしば叔母の家に「避難」していたらしい。
叔母の方でも呆れて、一族の“厄介者”になってしまったベンを一時突き放すことにしたのだろう。
家では相手の母親との3人暮らしで、昼間はひとりになれるという。
「家でいったい何をしているんだ?料理とか作っているのか?」
「料理は、アカ族とは好みの味が違うから作らない。昨日、今日はずっと横になっていた。調子がいいときは、VCDで映画を観たりしてる。いまは、ショウライのことを考えていたところ」
“将来”は、ベンがもっとも早く覚えた日本語だった。
「わたしね、8月になったら、家を出ることに決めたんだ」
「え?本当に出るのか?出て、どうする?」
「友だちがいるシンガポールか、タイのどこかで仕事をする」
「何の仕事?」
「夜の仕事」
「ナイトレディか?」
「うん」
「どうして?」
「お金がないから。お金がすぐにほしいから。病気でいつ死ぬかもしれないから、早くお金を稼いで、自分の家とクルマを買うの」
「どこに家を買うんだ?実家には帰れないし、親戚がいるからチェンマイにも帰れない。バンコクにだって、いられないだろう」
「分からない。たぶん、友だちに頼んでチェンマイの郊外に家を探す。市内には親戚がいるけど、田舎の方なら問題ないと思う」
「それにしても、なんでナイトレディなんだ?それが、ベンの将来なのか?」
「キヨシ。いまの私にはお金がないし、帰る家もないの。だから、すぐにお金がほしいの。タイでは、女がすぐにお金を稼ぐには夜の仕事をするしかないの」
「・・・」
考えた末のことなのだろうが、なんという痛々しい「将来」なのだろう。
それに、結婚相手の立場はどうなるのだ?
「問題ないよ。ゆうべ、相手とも話しあったの。相手は、酒とタバコとディスコと夜遊びが大好きで、わたしはそのすべてが大嫌い。それに、相手にはアカ族の女がいることも分かったの。だから、わたしが別れたいと言ったら、相手もこう言ったの。『俺はあんたが好きだけど、あんたが俺のことを嫌っているのは分かっている。だから、2ヶ月くらいしてほとぼりが冷めたら、この家を出ていっても構わない。マイペンライ』って」
「・・・」
言葉を失うとは、こういうことを言うのだろう。
私は、しばらく口がきけなかった。
彼らの頭の中は、いったいどうなっているのだろう?
おまけに、この相手はベンのために食事も作ってくれるのだという。
私は心の中で「マイコッジャイ、マイコッジャイ(分からない、分からない}」と呟いた。
「それでね、キヨシ。あんまり頭痛がひどいから、来週病院に行こうと思うの。たぶん、入院することになると思う」
やっと、私は現実に立ち返った。
「・・・ああ、そんなにひどいのか。で、いい病院は見つかったのか?」
「ううん、わたし、バンコクのことはなんにも分からない。だから、タクシーの運転手に話してみるつもり」
「で、お金はどうするんだ?」
「・・・キヨシ、できたらあなたに助けてほしい」
数秒間、考えた。
結論が、出た。
「ベン、もしもキミがバンコクで俺に会いたい、あるいはチェンマイに戻って俺に会いたいというなら、話は別だ。あるいは、何か地道な仕事を探したいというのなら、ぜひとも協力したい。だけど、キミはもう俺には二度と会えないという。そして、正式にかどうかはしらないけれど離婚して、夜の仕事で稼ぎたいという。キミの病気のことは俺が一番よく知っているし、キミの置かれた状況も俺が一番よく分かっている。だから、今すぐ入院させてやりたいのはやまやまだ。だけど、俺はキミをナイトレディにするために、これまでキミと付き合ってきたわけじゃない。むしろ、そうならないように願ってきたんだ。だから、キミがナイトレディになることが分かっていて、キミを助けることはできない。分かってくれるね、ベン。ひょっとしたら、キミは明日死ぬかもしれない。だけど、キミが他の道を考えてくれない以上、俺はキミを助けることはできないんだ」
数秒間の沈黙のあと、ベンが「ワカッタ」とつぶやいた。
「あなたの気持ちは、わたしもよく理解できる。大丈夫。問題ないよ。わたしのことは、心配しないで」
「オーケー、ベン。グッド・ラック。くれぐれも、自分を大切にするんだ」
「サンキュー、キヨシ。グッド・ラック」
電話を切った。
これが、最後の電話になるのかどうか、いまの私には分からない。
結婚後もベンからは何度か電話があり、昨日の電話では前夜ひどい頭痛に襲われたと言っていたからだ。
「ベン、具合はどうだ?」
「少し治まったけど、まだ頭痛は続いてる」
「とにかく、病院に行ったらどうだ?」
「お金がないから、行けない」
「金、出してくれないのか?」
「病気のことを話したけど、よく理解できないらしいの。お金の蓄えもないというし・・・」
「叔母さんは助けてくれないのか?」
「オバは娘夫婦の家に出かけて、しばらく戻ってこない。鍵がないから、オバの家で休むこともできない」
そういえば、結婚翌日の早朝、ベンは叔母の家から私に電話をかけてきた。
その後も、しばしば叔母の家に「避難」していたらしい。
叔母の方でも呆れて、一族の“厄介者”になってしまったベンを一時突き放すことにしたのだろう。
家では相手の母親との3人暮らしで、昼間はひとりになれるという。
「家でいったい何をしているんだ?料理とか作っているのか?」
「料理は、アカ族とは好みの味が違うから作らない。昨日、今日はずっと横になっていた。調子がいいときは、VCDで映画を観たりしてる。いまは、ショウライのことを考えていたところ」
“将来”は、ベンがもっとも早く覚えた日本語だった。
「わたしね、8月になったら、家を出ることに決めたんだ」
「え?本当に出るのか?出て、どうする?」
「友だちがいるシンガポールか、タイのどこかで仕事をする」
「何の仕事?」
「夜の仕事」
「ナイトレディか?」
「うん」
「どうして?」
「お金がないから。お金がすぐにほしいから。病気でいつ死ぬかもしれないから、早くお金を稼いで、自分の家とクルマを買うの」
「どこに家を買うんだ?実家には帰れないし、親戚がいるからチェンマイにも帰れない。バンコクにだって、いられないだろう」
「分からない。たぶん、友だちに頼んでチェンマイの郊外に家を探す。市内には親戚がいるけど、田舎の方なら問題ないと思う」
「それにしても、なんでナイトレディなんだ?それが、ベンの将来なのか?」
「キヨシ。いまの私にはお金がないし、帰る家もないの。だから、すぐにお金がほしいの。タイでは、女がすぐにお金を稼ぐには夜の仕事をするしかないの」
「・・・」
考えた末のことなのだろうが、なんという痛々しい「将来」なのだろう。
それに、結婚相手の立場はどうなるのだ?
「問題ないよ。ゆうべ、相手とも話しあったの。相手は、酒とタバコとディスコと夜遊びが大好きで、わたしはそのすべてが大嫌い。それに、相手にはアカ族の女がいることも分かったの。だから、わたしが別れたいと言ったら、相手もこう言ったの。『俺はあんたが好きだけど、あんたが俺のことを嫌っているのは分かっている。だから、2ヶ月くらいしてほとぼりが冷めたら、この家を出ていっても構わない。マイペンライ』って」
「・・・」
言葉を失うとは、こういうことを言うのだろう。
私は、しばらく口がきけなかった。
彼らの頭の中は、いったいどうなっているのだろう?
おまけに、この相手はベンのために食事も作ってくれるのだという。
私は心の中で「マイコッジャイ、マイコッジャイ(分からない、分からない}」と呟いた。
「それでね、キヨシ。あんまり頭痛がひどいから、来週病院に行こうと思うの。たぶん、入院することになると思う」
やっと、私は現実に立ち返った。
「・・・ああ、そんなにひどいのか。で、いい病院は見つかったのか?」
「ううん、わたし、バンコクのことはなんにも分からない。だから、タクシーの運転手に話してみるつもり」
「で、お金はどうするんだ?」
「・・・キヨシ、できたらあなたに助けてほしい」
数秒間、考えた。
結論が、出た。
「ベン、もしもキミがバンコクで俺に会いたい、あるいはチェンマイに戻って俺に会いたいというなら、話は別だ。あるいは、何か地道な仕事を探したいというのなら、ぜひとも協力したい。だけど、キミはもう俺には二度と会えないという。そして、正式にかどうかはしらないけれど離婚して、夜の仕事で稼ぎたいという。キミの病気のことは俺が一番よく知っているし、キミの置かれた状況も俺が一番よく分かっている。だから、今すぐ入院させてやりたいのはやまやまだ。だけど、俺はキミをナイトレディにするために、これまでキミと付き合ってきたわけじゃない。むしろ、そうならないように願ってきたんだ。だから、キミがナイトレディになることが分かっていて、キミを助けることはできない。分かってくれるね、ベン。ひょっとしたら、キミは明日死ぬかもしれない。だけど、キミが他の道を考えてくれない以上、俺はキミを助けることはできないんだ」
数秒間の沈黙のあと、ベンが「ワカッタ」とつぶやいた。
「あなたの気持ちは、わたしもよく理解できる。大丈夫。問題ないよ。わたしのことは、心配しないで」
「オーケー、ベン。グッド・ラック。くれぐれも、自分を大切にするんだ」
「サンキュー、キヨシ。グッド・ラック」
電話を切った。
これが、最後の電話になるのかどうか、いまの私には分からない。