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いまだに教育はよくわからない 体育よりスポーツがいいが

2018年04月19日 | 思うこと

長年教育畑を歩んできたが、社会科学系の教育というのが、いまだによくわからない。
自分の研究を成果として発表するのが、研究者なら、教育者は、何かを伝えることによって、他者の成長を促すことtでも言えばいいのだろうか?


その定義も様々にあるのだろうが、他者の成長の中身もはっきりしないし、手段として伝える中身もはっきりしない。迷いながらやってきたので、弟子が育つはずもない。

ところが、大学でスクールといわれるのは、ある考え方を持った学者の集まりで、大体が教授をトップとして弟子たちが集うようだ。

そんなことから、自分がやってきた学問内容を世代の違う学生たちに、半ば強制的に、半ば学生に自主性をもってやらせ、学会誌に投稿させ、学者の世界に引っ張りこむことが教育という名で行われてきた。私は、学問体系といった隠れ蓑を使ったある種の洗脳といった感じがして、なかなかその気になれないものだった。というのも、社会科学の場合、それが正しいとは限らないからだ。

研究ならその都度その都度自分の信じる論理を書いたり主張したりすればいいが、それを将来ある若者にまで、「どうだ、俺の説は」というのもなんだし、「どうでしょう私の考えは皆さんに気に入ってもらえるでしょうか」という気にもなれない。学生には学生の好き嫌いや自主性があると考えれば考えるほど、足がすくんでしまうのだ。

 

学生を学者の世界に放り込まなくても、社会に出て行った学生が、あの頃はよかったといって集まることがよくあるが、こうして集まって昔話ができるのが教育者としての姿だと、いう人もいる。
 ただ、久しぶりに集まった、社会の一線で活躍している者たちは、先生は、こんなことを必死に講義してましたね、などと半ば自嘲気味に、半ば揶揄的に、しかもそれがアナクロとお互いがよく認識しつつ、笑いの種にし、和気あいあいとした同窓の雰囲気を作ることがよくある。またそれこそが教育者冥利に尽きると考える学者も多い。

4年前ほど、東大農業経済のある教授の喜寿だったか何にか忘れたが、それに出たことがあるが、あいさつをする人々と教授の関係は、まだ洗脳が解けてない人々の集まりといった感があり驚いたことがある。

 これは例外としても、一般的に言えば、社会に出た卒業生は、大学教授がいかに社会と途絶し、役に立たない学問をやっているのか、おそらく在学時代から気付いていたのだろう。逆に社会に積極的にかかわっている学者は、教育にはそれほど時間を割いてないし、熱心でないのが一般的だ。


それでも大学では、教育と称して何かを教えることが続いている。

せいぜいこうした考え方もあれば、ああした考えもあるといったことを伝えるぐらいがいいと思うのだが、どうも、頑張ってしまうようだ。

 

ここからが本当に言いたいことだ。

とかく、「育」には偽善が多い、ということ。
「体育」や「食育」など、いったいどう体や食べ物を使ってなにを「教育」するというのだろうか?
私は、スポーツは大好きだが、体育にはあまりなじめない。
食べることは大好きだが、食育は胡散臭いと思っている。
なぜそうなるか考えてみると、「育」には押し付けが多いからではないだろうか。

○○すべきという根拠のないおしつけが多いように感じるのは私だけだろうか?

教育には、啓蒙思想があるからかもしれないが、

考えすぎだろうか?

教育現場はすぐ「学校化」してしまう。

「学校化」はイワン・イリッチの造語だが、社会の価値が特定化したり、制度化してしまう現象だ。学校に行かなければならないという義務も伴うから、いじめの温床にもなりやすい。

 

教育は、近代への移行期、大量生産時代に果たした役割は確かに大きいものがある。ある種の価値を、人々の間、あるいは社会に浸透させるのに貢献してきた。それにはプラスの面とマイナスの面がある。この多様化した社会で、新たな価値を作ろうという時代的節目に立ってみると、これからの社会に、ある種の価値を定着させようとする教育はなじまないのではないか?と思ったりしてしまうのだ。


私の教育への違和感を正当化しようとしてるだけなのかもしれないが、人間の成長には、あるいは社会の発展にとっても、「教育」とは異なったもっと違ったやり方があっていいと思う。

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