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日帰りモニターツアー~元寇史跡めぐり part2~

2016-02-23 08:50:00 | 学問


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前回紹介した、元寇ゆかりの地は、、、下の2つ。
クレヨン数字(1) デコメ絵文字


元寇襲来時に隠れていた穴!!

クレヨン数字(2) デコメ絵文字


文永の役に、元軍が上陸した海岸!!

前回のブログはコチラ!!


さて、本日も元寇ゆかりの地を回りましょう!!
地図をご覧ください。

 

クレヨン数字(3) デコメ絵文字


新城(しんじょう)神社は、壱岐の守護代・平景隆(たいらの かげたか)の本陣であった樋詰(ひずめ)城跡にあります。
城と言っても、大きさは“”程度のものであっ
たそうです。
神殿は明治19年に造営し、平景隆をはじめ、元寇で殉難
した将兵諸神(しょうへいしょしん)を安置しています。


さて、歴史を見てみると・・・
文永11年(1274年)10月14日、対馬で守護代・宗助国(そう すけくに)が80騎で元軍と応戦するも、元軍に敗れます。
そして翌日の15日、元軍は、壱岐の北西海岸から上陸しました
壱岐では守護代・平景隆が100余騎を率いて湯の本、本宮方面
まで出向いて戦いましたが、撤退を余儀なくされ樋詰(ひずめ)城まで退却。
↓↓↓一族もろとも15日に自刃したと伝えられています。

平景隆が切腹の時、家来の宗三朗(むねざぶろう)と自分の娘の姫御前(ひめごじょう)に、元軍襲来壱岐の現状を太宰府に知らせなさいという命令を出してます。
命令を受けた2人は、大宰府に向かいますが、そ
の途中で、元軍の放った毒矢が、姫御前にあたり、死ぬまぎわを見せたくない姫は自害しました。
(今回、ツアーで回ってはいませんが、姫御前の死を憐れんで、里人が塚を造った史跡“姫御前塚”もあります。)
家来の宗三朗は、一人太宰府に現状を伝えに行きました。

(平景隆墓所前で、地元ガイド:中山さんのお話を聞き入るツアー参加者の皆さん♪)

ココで、ちょっと疑問!!
なぜ「太宰府?!」なのかというと・・・
太宰府は当時の外国勢力の防波堤としての役割があり、外国人の使節なども、ほとんどが太宰府で止められていました。
外国から何か襲撃があれば太宰府が対応し、経過は太宰府から中央に報告が行きます。
なので、元軍襲来の際、報告するために太宰府に行ったのですねっ!!


平景隆墓所を後にして、歩いて次の目的地、『千人塚・文永の役跡』に向かいます。





もうすぐですよ!!


文永の役の古戦場に到着!!



大きな石碑がたっていますが、これは、元寇で犠牲になった人々の冥福を祈るために造られた千人塚です。この一帯は最後の激戦地であったとみられてます。
千人塚の中央に元寇殉国忠魂塔が建ち、左脇には観音像、右脇に本来の千人塚の標石である自然石が2基あります。

また、左脇には観音像は、おっぱいを出して、赤ちゃんに飲ませている隠れキリシタンの信仰の跡とも言われています。

(普通の人が見たら、観音像に見えるようにしてあるようです。)

案内看板もあり、元寇の悲惨さを忍ぶことができます。
 

はぁ~今回も長くなりましたので、
ここまで!!

次回も続きをお楽しみに~ 

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