生き生き箕面通信

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1616 ・「アメリカ隷属の道を拓いたのは昭和天皇だった」と、週刊朝日が特集

2013-05-26 07:30:34 | 日記

おはようございます。                                                              生き生き箕面通信1616(130526)をお届けします。

・「アメリカ隷属の道を拓いたのは昭和天皇だった」と、週刊朝日が特集

 週刊朝日の最新号(5月31日号)が、「日本がアメリカへ隷属することになった直接の責任者は、昭和天皇だった」という驚くべき内容を5ページにわたって特集しました。

 その肝のくだりは、豊下楢彦・前関西大学教授が書いた「昭和天皇・マッカーサー会見」から引用する形で記されています。

 マッカーサーが憲法9条の精神を説いたのに対して、「(昭和)天皇はたまりかねたように本音をぶつけた。『日本の安全保障を図るためには、アングロサクソンの代表者である米国がそのイニシアチブを執ることを要するのでありまして、このため(マッカーサー)元帥のご支援を期待しております」と、アメリカ軍の日本駐留という”ご支援”を要望した、と指摘しています。

 週刊朝日は続けて、「このときマッカーサーはまだ日本の中立非武装という考えを捨てていなかったが、天皇はそれでは安全保障は保てないと考えていた。日本の安全保障を図るために米国の力に頼る、天皇は冷徹にそう判断した」と、記しました。

 この特集は、「『星条旗』下の宰相たち」というタイトルで始めた戦後史シリーズで、今回が4回目、吉田茂の編でした。この中で従来の吉田茂像とは全く異なる姿を提供し、新しい視点を与えています。実は吉田は、サンフランシスコ講和条約の調印式には最後まで出席を渋った。だが、「出席をいやがる吉田を最後に翻意させたのは昭和天皇だった」

 吉田が調印式出席を嫌がったのは、アメリカ軍の日本駐留を半永久化する「日米安保条約」に調印しなければならないことが分かっていたからでした。「日本の安全保障を図るためには米国の力に頼る」という合意(密約)が、すでに天皇とマッカーサーの間で交わされており、それをオーソライズする条約調印だったというのです。

 では、なぜ天皇はマッカーサーに「米軍の日本駐留」を進んで要請したのか。「自身の安全と天皇制の維持」のための取引だった、という見方をしています。当時、ソ連をはじめ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、オランダなどが天皇制の存続を極めて強く否定していました。だから、天皇としては連合軍側の最高司令官、マッカーサーに一縷の望みを託す以外に道はなかったのです。日本の政治家は、例によっていずれも頼りにならない。自ら打開するほかありませんでした。

 敗戦から1か月後の1945年9月27日、天皇はモーニングコートにシルクハットという正装でマッカーサーを初めて訪問、「昭和天皇は震えていた」と、米国人歴史家ジョン・ダワーは、「敗北を抱きしめて」でそう記しています。その後、二人は計11回も会談し、敗戦後の日本の新しい骨格を決めていったのでした。

 敗戦の翌年には9条を含む新憲法が施行され、天皇は国事行為を行ってはいいけない「象徴」と規定されていました。しかし、天皇は、出来たてホヤホヤの憲法など何ら意に留めることなく、マッカーサーと日本の政治の根幹を協議する国事行為を精力的におこなっていたのです。この協議の過程で、沖縄の半永久的占領を提案していたことも明らかにされています。

 週刊朝日は、「吉田は講和前の参院外務委員会で、『私は(米国に)軍事基地を貸したくない』と答弁した。駐留米軍に日本の安全保障を任せ切る天皇の考えと真っ向から対立する」と、強調しています。

 そうした経緯を経て米国からもたらされた安保条約の草案は、「日本領域内における米国軍の駐屯を日本は要請し、合衆国は同意する」という文言で始まっていました。

 つまり、天皇が要請した通りで、吉田が最後まで抵抗していた事態が条約として確定される内容だった。だから、吉田はサンフランシスコ条約調印式への全権団代表を最後までいやがったのです。それを、最終的には天皇が説得して出席させたのでした。

 今回の特集は、さらっと読み飛ばしてしまえば、何も気がつかないように細心の注意がはらわれています。しかし、しっかりと読み解くと、天皇を「告発」する極めて驚くべき内容のメッセージが浮かび上がってきます。ここに書かれていることが、日本戦後史の最大の問題点であり、今の日本を縛りつけている従属国家・日本をスタートさせた人だったのです。