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私って看護師に向いているのかな?心の境界線:バウンダリーと看護学校

2019年11月30日 | 精神科看護

バウンダリー(国境)などと言います。

しかしながら、これは物理的な境界線だけではなく、実際は「目に見えない境界線:バウンダリー」が明確に存在します。

 

心理的距離感などという言い方をしますが、「何となく、あの人は苦手だ」

という直観的なものから、「あの人の性格、考え方は合わない」「生理的に合わない」といったものもあります。

今回の記事ではまず、「バウンダリー」について見ていきたいと思います。

まずはセラピストのブログから引用致します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(バウンダリー(心の境界線)について 2019-03-20 13:15:34 テーマ:心理学)

最近カウンセリングの中で
このパウンダリー問題を抱えていらっしゃる
クライエント様が多いのでパウンダリーについて書こうと思いました。

 

「境界線」よく耳にする言葉かと思います。

物理的な世界ではそれがはっきりと見えます。

 

例えば、壁や柵、土地の所有権など。


では、心の境界線はどうでしょうか。
もちろん存在します。


でも‥残念ながら目には見えません
目に見えない境界線を明確にすることが
とても大切なことなんですね。

 

ただ、バウンダリーが分からない、
距離感が分からないことがあります。
必要以上に相手に介入してしまったり
または介入されてしまったり。

 

なぜでしょうか?


原因を見ていきましょう
それは、遡ること幼少期‥

 

例えば、幼少期に身体的、性的虐待の被害が
あった場合、境界線の意識が脆弱になります。
後に境界線を確立させるのが困難になりやすいです。

 

また、幼少期から親子関係に問題があり
例えば、過保護・過干渉で母子癒着状態だった場合、

 

バウンダリーをきちんと設定しようが、
母親はそこを強行突破して
入り込んで来たのです。
そして心の中をあれこれと指示されたり、
コントロールされ、破壊されます。


子どもの頃はそれが正しいと思うので、
母子癒着状態となり自分を持てなくなります。
その結果バウンダリーが曖昧になり、
相手と自分との心の区別がつかなくなります。


母子癒着を他者に投影します。

・相手と同じ気持ちでいないとダメだ
・相手と自分の考えの区別がつかない


そして他者との距離感が掴めず、必要以上に
介入してしまったり、関係性が壊れることを恐れ
極端に距離を取ったり
突然関係性を切ってしまったりします。

 

 

※母子癒着とは?
「母悲しいとて私も悲しい」
「母が落ち込むのを見ると私も落ち込む」
母と私が一体化してしてしまう状態

 

母親の過干渉が原因になることが

とても多いことに気づかされました。

 

また、機能不全家族で育った場合
バウンダリーが持てなくなる場合が
多く見られます。

 

機能不全家族で育ったアダルトチルドレンは
他者と自分との間にパウンダリーを
引くことができないのです。

 

例えば、無理な仕事を頼まれてもNOが
言えないのです。
自分だけが多くの仕事を抱えこんでしまい
とても疲れるのに言えない。


そこで嫌と断れば嫌われる‥
幼少期から親の顔色ばかり見てきたからです。
生きていく癖のようなもの。


また、自分の嫌なところを相手に見られたくない
という自己嫌悪の問題にも直結します。


例えば、
私のこんな性格の悪いところや腹黒いところ
嫉妬深いところを見られると嫌われる‥
自分が嫌がってる要素なので
知られるときっと相手が失望するに違いない
嫌われるに違いないという勝手な
強い思い込みが隠れているのです。


そうですビックリマークここでも投影が起きています。
「自分が嫌っているから相手もそう思うに違いない
だから嫌われる」ってことですね。


では、克服するにはどうすればいいのでしょうか。
今はもう大人になりました。
怖れることなど無いのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

母子癒着が盛んに書かれています。

しかし、現実的な問題を全部「母親の責任」にしてしまっては元も子もないですね。

(母子関係で詰まってしまうのが事実なのでしょうか?)

 

このように、心理学のセラピストは、母子関係にその問題を見出すところが多いです。

確かに、脳が発達するまでの間、人間は大人から一方的に「食事、排泄、睡眠、清潔」といった安全のケアを受けなくては生命維持できません。

これを「生理的早産」などと言ったりします。

他の動物と違って、人間だけは身体的、生理的に1年早く生まれてきてしまうことです。

 

これは、人間が社会の中で生きていくための準備期間だともいわれています。

 

これは幼少期のものではなく、成人になるまでの間に、他人から傷つけられたり、他人を傷つけたりすることで、

「対人関係の危険性」

を脳がインプットするのではないかと私は思います。

 

実際、「傷つけられたくない」と思うと、口を閉ざします。

口を閉ざすと、周囲の人たちは「不気味だな」「不愛想だな」と思うに違いありません。

(余談:こういう、人に対して、営業では「アイスブレイク」「壁取り」という作業を行います。)

 

良く考えてみてください。

誰もが傷つけられたくないと思うはずですし、傷つけたいと思う人もいません。

ただし、人間は集団、徒党を組んで生活していくスタイルを持っています。

これがいわゆる「社会を構成する」というもので、これらが高度に発達したものが、文化を生み出しているのです。

 

人間のような集団に所属しないと生きていけない生き物には、必ず対人関係のトラブルはつきものです。

そして、それは所属する集団によって特徴がわかれます。

 

私自身、あまり人と話すことは好きではありません。

他人と話すにしても、知的水準が低い人と話すのが得意ではないのです。

 

ペットの話、恋愛の話、旅行の話、パチスロの話や、テレビ番組の話、芸能人、スポーツの話などをしていても、

私には「お金を使った単なる暇つぶし」の話題してたんだなぁとしか思えず、ちっとも楽しくありません。

 

また、北朝鮮がミサイル発射したとか、天皇家のパレードの話、オリンピックの話などされてもウンザリしてしまいます。

(少しだけ、「北朝鮮の金正恩は横田さんの親戚らしいですね?」

「天皇家の小和田雅子様のおじいさんが、水俣病問題の発端となった会社の責任者らしいでうね?」

「オリンピックやると経済効果に勝る税金が投入されて、一部のゼネコンや団体にしか利益が入らないそうですね」

などと試しに話したりはしますが。

しかし、多くの人は耳を貸してくれません。)

 

コミュニケーション、表現方法が直接的な人もいます。

他人に対して馴れ馴れしい人や直接的な命令口調になる人です。

「そういう人が、他人との対人交流を怖くないのか?」と質問したことがあります。

すると意外な答えが返ってきました。

「対人交流が怖いから、自分を先に曝け出して、相手からも話してもらいやすいようにしている」

という明確なコミュニケーションスキルを使っているのだそうです。

 

飾らない、素敵なコミュニケーションスキルだと感じました。

 

確かに、お互い黙り込んでいたら、相手がどんな人なのか?分からないため不安は不安ですよね?

気まずいですし、時間が経つのが遅く感じるかもしれません。

 

そのため、お互いの共通点を見つけ出す作業をして、会話を進めるとともに、自分の考え方、価値観を伝えていき、相手にも価値観を話して貰えるようにしているのだそうです。

 

確かにそう考えると、私も、「実は困っている人」を探しています。

困っていない人はなかなか存在しませんが、深刻に悩んでいる人、堂々と悩んでいる人はいません。

何か、悩む事は悪のような風潮があるからです。

 

ここからが本題ですが、日本人は、あまりにも「楽観的な人が多い」と感じます。

「人生何とかなるだろう」

特に看護学校の学生は、「取り敢えず、看護師免許取ってしまえば何とかなるだろう?」と楽観的に物事を捉えている学生が多いです。

病院など奨学金施設から授業料と生活費の一部を前借りして、借りた年数をお礼奉公する制度を利用している学生が多いのも特徴ですが、「就職先がすごくブラックだったらどうしよう?」

「看護学校で自分の進みたい科や病院が見つかったのに、新卒後、すぐに奨学金施設に就職しなくてはならないことが不安だ」

などという考え方がないのでしょう。

「取り敢えず、手に職つけたら後はどうにでもなる」

とくらいしか考えていないのだと思います。

 

マスコミや周囲の人間が発するイメージだけで、目の前のことしか見えていないのです。

もっと言えば、「看護師免許取ったはいいけど、向いてないと思ったらどうすればいいだろうか?」などとも考えていないと思います。

(実際私もそうでしたから)

 

看護師は専門学校なら3年間、大学では4年間みっちり勉強します。

当然、向いていない人は看護学校の段階でついていけません。

親身な学校は、留年させてくれるため、「早めに別の道を選択する」ことができます。(それでも退学しない学生が多いですが)

 

それでも、実際の所「臨床に出て、本当に自分が向いているのか?」がわかるのです。

学校の成績が良くても、実習ではとてもできた学生でも、臨床に出ると求められる能力が違うのです。

さらに、知力、体力を求められるのです。

そして「自分にはこれしかできない。この業界でやっていくしかないんだな」という半ば人生の諦めのようなものも味わうかもしれません。

 

30%くらの学生が、「医療ドラマを見て、医師にはなる学力・経済力がないため、医療関係者の看護師を目指した」と話します。

そして、60%の学生が、「手に職をつけたい」と考えて看護師を目指してきます。

残り10%が、「看護師という仕事がカッコ良く思えた」という憧れがあって希望したと話してくれます。

 

ある意味において、半数以上の学生が「手に職」つまり「安定を求めて」看護師になろうとしてきます。

しかし、実際のところ、不規則勤務であったり、膨大な書類事務作業、細かい技術、生活、療養上の世話など体力が要求されるのです。

技術、知識の研鑽は欠かせないため、休日もまともに休めません。

(将太の寿司、鳳寿司親方)

看護師はサービス業ではないのです。

看護師は専門職であり、技術職人なのです。

ただ、モノを作る職人ではないため、その業務の中に「接遇」が存在するだけなのです。

 

このブログでは何度も紹介していますが、寿司職人と同じです。

残念ながら、どれだけ人間性が低くても、良い仕事をする人が上にのし上がっていく世界なのです。

「ついてこれない人間は切る」つまり、「ついてこれない人は学校で篩にかけられている前提」なのです。

 

確かに新人教育、ラダー教育などありますが、結局「この業界で残れる人だけが教育の対象になるだけ」の世界なのです。

 

看護学校が「厳しい」、「教員が安易に学生に答えを教えない」という理由は、

「臨床に出てから、何でも教えて貰えると思ったら大間違いだ」

ということを暗示しているのでしょう。

言い換えれば、「学ぶ姿勢」自体を学んでいくことが看護学校=職人養成の学習方法なのです。

通常の学校なら

「先生わかりません、教えて」

でよいはずです。

しかし、実際は違うのです。

そこで教えるのは「学習塾」の仕事なのです。

 

臨床に出たら、「誰も教えてくれない冷たい世界」なのです。

基本的な技術はありますが、それを使う看護師によって手の長さや体型体格、患者の特徴によって、同じ技術ができるとは限らないのです。

基本はありますが、どんどん応用発展していき、自分だけの技術にすることが「本当の技術」なのです。

それは業務上、患者、相手が生き物であるため仕方ないですし、実施するのも人間ですから、結果や目的は変わらなくても、実施方法は状況に応じて変えていかなくては、得られたい目的や結果にならないのです。

失敗こそ経験で、経験の蓄積が技術なのです。

技術は実践によって磨かれていく、まるで生き物のようなものなのです。

 

ですから、「同じことだけ何も考えず淡々とやっていたい」人に、看護師は無理なのです。

常に患者の変化や周囲の状況の変化に対応しながら、決められた時間、人員の中で、業務を遂行していく能力が必要なのです。

 

裏返せば、自分だけの技術を身に着けてしまえば、ひと段落する仕事でもあるのです。

 

勉強してくる学生、頭の良い学生には「教える」という教育方法が良いのですが

勉強してこない、頭の悪い学生には「教えるのでなく、考えさせる」ことをさせないと「教えて貰えるから考えなくなる」という楽な道を選択し始めるのです。

 

「違う。もう一度、調べて考えておいで」

というと、「さっき調べたし」と口答えしてきます。

習得するために「本人の努力が足りない」

事を教えてあげるのが職人教育なのかもしれません。

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