草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

現状では日本は台湾有事にまったく対応できない

2023年07月21日 | 自衛隊
 シンクタンク「日本戦略研究フォーラム」は去る15、16の両日、「台湾海峡危機シュミレーション」を東京の都内で行ったが、それを扱った日テレ深層ニュースをみて背筋が凍るような思いがした。
 総理役の小野寺五典元防衛相の判断はあまりにも甘い。まず中国の海警船による海上保安庁巡視船への攻撃で保安官が多数死傷したにもかかわらず、この段階ではまだ「組織的、計画的な武力行使」とは断定できないとして「武力攻撃予測事態」としか位置づけられないというのは、現行憲法によって「交戦権がない」ことの制約があるからだろう。
 中国にいる10万人の在留邦人や沖縄県先島諸島の10万5千人の住民の退避などを言い訳としているが、そうした局面になれば、短期間で移動することなど無理に決まっている。それ以前に何らかの手を打つべきなのである。
 さらに、中国による台湾侵攻時に、我が国へのサイバー攻撃が行われても、日本は耐えることしかできなという判断を小野寺総理役はしたが、日本国民の生活が重大な危機にさられる事態ともなれば、超法規的な戒厳令に近いものを考えておかなくては、日本は火の海になってしまうだろう。
 工作員が日本に潜入して破壊活動をすることも想定しておくべきだろう。間接侵略に対しても万全で臨まなくてはならない。外出や移動の禁止などは当然のことである。
 今回のシュミレーションで明らかになったのは、日本の安全保障が切れ目なく対応できないことだ。まず台湾有事に際して在日米軍の基地使用をめぐっては、安保条約第6条にもとづいて、日米の事前協議を経なくてはならない。ここで時間が取られれば、台湾が持ちこたえることは困難になる。
 また、安保条約第5条があろうとも、日本の施政権下への武力攻撃が加えられたことで、すぐに米軍が日本を救援するわけではなく、議会などの決定を経なければならない。日米間の戦略的対話が重要になってくるわけだが、そんな悠長なことでいいのだろうか。
 戦争が始まってからではなく、今から身構えて置くべきなのである。抑止力を早急に高めなくてはならない。さらに、海上保安庁や自衛隊の犠牲を前提にするという考え方は容認できない。 
 我が国が平和を維持するのには、もはやそんな小手先では駄目である。中国が手出しできないようにするには、核の議論を避けては通れないのである。
 ウクライナのようにならないためにも、米国との核の共有は絶対に必要であり、それを米国がそれを拒否するのであれば、独自の道を選択するしかないのである。
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キンドルで和辻哲郎の『古寺巡礼』を読む

2023年07月20日 | ネットの世界
 洛陽の紙価を高めるようなベストセラーは、刊行後間もなく弊履のように捨ててかえりみられなくなる。それと比べると古典は違うのである。
 しかも、ネット時代に突入したことで、著作権の切れた書物は無料でキンドルで読めことができるようになった。本を購入しなくてもそこで多くのものを学ぶことができるのである。
 今僕が読んでいるのは、和辻哲郎の『古寺巡礼』である。紙の本も持っているが、携帯でも読むことができるのだから便利である。
 改版序の和辻の「この書の取り柄が若い情熱にあるとすれば。それは幼稚であることと不可分である。幼稚であったからこそあのころはあのような空想にふけることができたのである」との文章も、薄汚れた文庫本や全集の重たい一冊を手にするのとは、まったく違った感じがする。
 まだ僕は始めたばかりで、ライブラリに登録されているのは、泉鏡花全集、大川周明の『復興亜細亜の諸問題』、西田幾多郎の『絶対矛盾的自己同一』などわずかしかない。
 僕のことだから、今後は有料の本も含めて、日に日に増えていくことになるはずだ。垂涎の的である古典をどこでも自由に読めるというのは、本好きにとってはまさしく天国である。
 折口信夫が『遠野物語』を上野の薄暗い公衆電話の下にしゃがみこんで、その明かりで読んだというのは、あまりにも有名な逸話である。携帯一つあれば、そこで何冊も読めるのである。
 その一方で、紙の本でなければ味気ないという意見もあるだろうが、世の中は着実に変っており、そこには必ずプラスの面とマイナスの面があるのだと思う。
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饒舌な言説よりも小林秀雄の一言が肺腑を衝く

2023年07月19日 | 思想家
 いつになったら梅雨が明けるのだろうか。もうそろそろだと思うが、なぜか気持ちまで滅入ってしまう。そんなときは決まって、自分を元気づけるために、小林秀雄の本を読みたくなる。
 小林は核心を突くようなことをさらりと言ってのける。「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解していこうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた」(「Xへの手紙」)という文章などは、誰もが思い当たる節があるのではないだろうか。
 そして、小林は「人と人との感受性の出会う場所が最も奇妙な場所に見える」(「同」)とも書いた。今の世の多くの識者は、その部分を整理して無理に理解しようとする。だからこそ、LGBT法案のようなものが通ってしまうのだろう。
 知ったかぶりや思わせぶりな言説には僕は食傷気味である。言葉を徹底的に削ぎ落して、生身の人間を語ろうとする小林の側に立ちたい。
 小林が言いたかったことは、人間同士が出会う不可解な場所があることを認め、そこでの抜き差しならないドラマを尊重することなのである。理屈よりも、生きることの大切さを説いているように思えてならない。
 わけもなく書きなぐる僕のような人間であっても、饒舌よりもはるかに優る沈黙があることを熟知しているからこそ、小林秀雄を何度も何度も読み返すのである。
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岸田内閣と同じく自民党支持率も大幅に下落

2023年07月18日 | 政局
 やっぱり予想した通りである。朝日新聞が去る15、16日に実施多世論調査の結果によると、自民党の支持率も28%に下落した。岸田内閣ばかりか、自民党までもが国民にそっぽを向かれ始めているのだ。
 しかも、内閣支持率と同じく、これから増える要素はまったくない。その一方で無党派層が51%になったというのは、自民党を支持していた層が、そう簡単に別な党に乗り換えられなくて、困っているからだろう。
 自民党の国会議員も、ここにきてようやく気づきつつあるのではないか。岸田首相のままでは選挙を戦えるわけがないからだ。
 岸田首相はリベラルとかいわれるが、その実は無思想無節操である。左翼マスコミにそそのかされて、やってはいけないことに手を染めてしまったからだ。
 防衛三文書では非核三原則にこだわったほか、旧統一教会叩きを利用して党内保守派をさらしものにし、増税と緊縮財政で国民の生活を圧迫するといったことは、あまりにも常軌を逸していた。極めつけはLGBT法案のゴリ押しである。
 それもこれも、自分が支持されたいがために行ったことだが、逆の結果になったのだ。岸田首相は保守の思想を、反動と勘違いしているようだが、そもそも保守にはドクトリンなどない。現実主義という言葉こそふさわしい。急激な変化を避けるべきだという立場なのである。
 日本が壊されるのを、このまま放置しておくことはできない。自民党内の保守派が高市早苗さんを担いで乾坤一擲の勝負に出るべきだろう。日本初の女性首相を誕生させることで、ムードを一新するしかないのである。
 
 
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国民から見捨てられつつある岸田首相は退陣するしかない

2023年07月17日 | 政局

 岸田内閣の支持率は下がる一方なのに、また泥船だと気づいていない自民党の国会議員が多いようだ。早く見切りを付けて、高市早苗さんを総理総裁にしなければ、二度と赤絨毯を踏めないというのを、まだ理解できないようだ。
 共同通信が去る14日から16日にかけて実施した世論調査の結果では、内閣支持率は34・3%となり、前月の調査から比べると6・5ポイントの大幅下落で、いよいよ20%台になりそうな気配である。
 いつものように共同通信はミスリードをして、その原因が福島第一原発の処理水の海洋放出が、マイナンバーカードが批判されているような飛んでも書き方をしているが、実際は岩盤保守がLGBT法案に対して怒り心頭に発していると同時に、財務省の言いなりの増税路線に、国民は嫌気を差したのである。
 今だと岸田離れが、自民党離れに結び付かないが、これからはそれも心もとない。地獄を見ることになるのはこれからである。世論の動向を人一倍気にしていたわけだから、どのような政権運営をするのかお手並み拝見である。
 過去最高の税収がありながら、それを追い風にできないのは最悪である。台湾有事にしても、そのことを話題にするわりには、日本の安全保障には関心があるとはいえない。ハト派として認めれもらいたいために、非核三原則を未だに堅持しているのだから、言葉に窮してしまう。
 安倍元首相が提唱したように、日米による核のシェリングが実現していれば、台湾有事は阻止されただろう。核を保有した国家にちょっかいを出すのは、かなりの覚悟が求められるからだ。
 つまり、日本が国家として身構え、台湾の後ろ盾となれば、戦争は防げるのである。しかし、それができないならば、確実に中国は台湾を侵略し、自衛隊や先島諸島の人たちは多大な犠牲を強いられるだろう。やるべきことをやらない岸田首相は、ある意味戦争を招き寄せることになるのだ。それで本当に私たちはよいのだろうか。 

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岸田内閣の増税路線に多くの国民が猛反発

2023年07月16日 | 経済

 岸田内閣は解散・総選挙のタイミングを逃したし、増税路線を隠さなくなったことで、もはや前途が見通せなくなった。内閣支持率がアップすることなど、これからは期待できそうもない、とくに、今反発が強まっているのはサラリーマンへの課税強化である。
 安倍や菅内閣では飛ばず吹かずだった政府税制調査会が岸田内閣になってから息を吹き返した。6月末に提出された中期答申が、これまた酷いものであった。そこでは「退職金」「通勤手当」「社宅の貸与」なども増税の対象としている。
 2022年度の国の決算では、一般会計で71兆円余りの税収を記録。3年連続過去最高を記録したといわれる。にもかかわらず、財務省ベッタリの岸田首相は、国民からむしり取ることしか考えていないのである。
 それよりは、高橋洋一氏が言っているように、所得税の減税などで税収が増えた分を国民の還元すれば、それ以上に経済が上向き、また税金となって戻ってくるのに、そんなことはお構いなしである。
  海外へのバラマキで、バイデンによく思われたいのだろうが、まずは足元の日本のことを優先させるべきなのである。円安で利益を出した大手企業が牽引役になったからだろう。しかし、その一方で、中小零細企業は依然として低迷を続けている。コロナ下で受けた融資の返済の時期が迫っており、何らかの対策を講じないと、倒産が相次ぐ危険性がある。そこへの手当ても忘れてはならないだろう。
 税収が増えているのは、アベノミクスによるものが大きいといわれる。安倍政治と相反するような政策を打ち出している岸田首相が、その実は安倍元首相に助けられているのだから皮肉だ。
 その運も間もなく尽きようとしている。岸田内閣の終わりは始まっており、後継者を誰にするかで、自民党の命運が決まるだろう。永田町界隈の意見と世論は乖離しており、その辺を考慮しないと、自民党そのものが消滅してしまうのである。

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日本を守り抜くのは自民と無縁な保守派ネット民だ

2023年07月15日 | ネットの世界
 保守派ネット民が自分たちの味方だと思っていた自民党関係者は、今起きていることに戸惑っているのではないか。矛先が自分たちに向いてきたのが許せないというので、「ネトウヨ」という言葉まで口にしている。
 もともと保守派ネット民は政治的なイデオロギーに染まって物事を判断していたわけではない。安倍元首相に加勢していたのは、あまりにもマスコミの報道が異常であったからだ。それに対して自然発生的に声を上げたのである。
 岸田首相や自民党幹部を批判しているのは、リベラル色を鮮明にし増税しか頭にない政治が常軌を逸しているからだ。自民党の別動隊であるわけがないのである。
 自民党から資金提供など受けておらず、利権とも無縁な市井の名も無き者たちが大半なのである。風向きが変わったというので、とやかく言う方が間違っているのだ。
 吉本隆明は「安保闘争(60年)のなかでもっとも貴重だったのはいかなる既成の指導部をものりこえてしまい、いかなる指導部をも波濤のなかに埋めてしまうような学生と大衆の自然成長的な大衆行動の渦であった」(『擬制の終焉』)と書いていた。
 それと同じようなことが今ネットの世界が起きており、いかなる組織もコントロールすることができない、マグマがたまり、いつ爆発しても不思議ではない状況になってきているのだ。
 高を括っていた岸田自民党も慌て始めている。今後保守派ネット民がどこに向かうかは予測が付かないが、日本を貶めるような政治勢力とは違って、日本人が生き残っていくためには何を為すべきかを、保守派ネット民は真剣に考えている。それが日本にとっての微かな希望であり、国家としての日本を守り抜くことになるのである。
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東京裁判史観から脱却できなければ危機に対応できない

2023年07月14日 | 歴史
 東京裁判史観に縛られてしまったことで、今日の日本の悲劇が惹起されることになったのではないだろうか。米国や中国に物を言えないのは、自虐的な考え方から抜け出せないからなのである。
 大原康男が昭和58年に『東京裁判の問題性』で述べていたように、東京裁判史観を再検証することによってのみ、日本人は戦後レジームから脱却することが可能になるのである。
「もとより、東京裁判をやり直すことなど不可能であることはわかりきっている。しかし、法的意味における再審は無理だとしても、歴史的事実の上での再審は可能である。理由不尽のまま却下された弁護例の証拠を再発掘して、それを公正に評価し、裁判のゆがんだ事実認定を是正して昭和史を再検証すべきことは緊急を要する課題である。日本だけが侵略国であり、日本人だけが犯罪国民であるという、いわれなきいいがかりに対しては断固として反撃すべきであろう」
 とくに、国際法の見地からして違法であるのは「平和に対する罪」として裁かれたことである。そんな法律は国際法上は確立されていなかった。にもかかわらず、事後法によって罪を着せられたのである。
 また、共同謀議に関しても、一枚岩のナチスとは違って、我が国ではまとまった意見の集約はなかった。東条英機ですら「清水の舞台から飛び落ちる」という覚悟で、開戦に踏み切ったのである。
 さらに、無辜の民を殺戮した広島、長崎の戦争犯罪を裁けなかったことで、とんでもない汚点を残すことになったのである。逆にそのことを正当化するにあたって、米国などは、日本人を世界侵略を目論む民族であり、抹殺されても仕方がなかったという論理を展開したのである。
 ことさら正義を主張することで、敵を抹殺することを良しとする考えは、スターリンなどの共産主義者特有の思想であったが、東京裁判の根本的な立場は、それと全く変わらないのである。
 東京裁判の結果、世界は平和になっただろうか。日本が降伏してからも世界各地で戦争は続いており、より深刻になっているのではないか。戦争の当事者の国家は、それぞれに正義を主張して、相手を徹底的にせん滅するという傾向が強まっただけではなかったか。
 にもかかわらず、国家としての尊厳を喪失してしまった多くの日本人は、憲法に明記された「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」という平和ボケに慣れきってしまった。
 目前に迫った危機にも対応できないでいるのだ。東京裁判史観の過ちは必ず正される日がくるだろうが、もはやそれを待ってはいられない。日本という国家を覇権国家の脅威から守り抜くために、日本人一人ひとりが、押し付けられた価値観を拒否することから始めるしかないのである。
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最高裁判決はノモス(道徳的理念)の支配を無視した暴挙だ

2023年07月13日 | 憲法
 トランスジェンダーについての今回の最高裁の判決は、世界の趨勢なるものを根拠としたとんでもない暴挙であり、我が国の根幹を揺るがすような決定であった。
 尾高朝雄が主張していたように、法の支配はノモス(道徳的理念)を無視してはならず、時流に媚びることのない歯止めがなければならないのである。
 しかし、判決文を読んでみると、一定程度の留保を付けながらも、混乱を引き起こしかねない文章からなっている。あくまでも限定的だとかいう見方は、あまりにも楽観的過ぎる。蟻の一穴というよりも、あっという間に音を立てて堤防が崩れ落ちている感じすらある。
 戸籍上も男性であり、健康上の理由から手術もできない経産省の50代職員が、自由に女子トイレを使ってよいことが認められたわけだから、各公共施設もそれにそった動きをすることになるだろう。
 ノモスは同時に日本の国柄を意味する。万世一系としての天皇陛下は、無私としての立場を貫かれ、それによって日本国民が目指すべき理念をお示しになっておられるのだ。それが何であるかを念頭の置きながら、法は整備され解釈されなければならないのである。
 尾高は戦後の憲法においても、ノモスの主権は変わりがないという立場を貫いた。だからこそ、尾高は「国民の総意をもって統治の基準としつつ、君主を持って国民共同体としての国家の統合性の象徴とすることは可能であり、君主制の伝統を有する国家の説く特殊性をば、民主主義という普遍的な政治原理の中に生かして行くゆえんともなるからでである」(『法哲学』)と書いたのである。
 そうした尾高の考え方を踏みにじり、日本の司法は取り返しがつかない汚点を残してしまったのだ。まともな方向に軌道修正するにはとんでもない時間がかかる。それまでは混迷の世を生き抜くしかないのである。
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LGBT法が目指す世界とエロチシズム

2023年07月12日 | LGBT
 LGBTの議論はトイレや浴場の問題にとどまらない。それ以上に重要なのはエロチシズムをどう考えるかなのである。性を慎しみ深い世界にとどめて置くのか、それとも社会の根幹を否定する革命運動と結び付け、自由なエロチシズムを謳歌する世界を目指すのかといった岐路に、私たちは立たされているような気がしてならない。
 エロチシズムに対する足枷をなくせば、それで本当に全てが解決するのだろうか。あらゆる性的な行為が白昼の下にさらされれば、人間としての性の歓びを手にできるのだろうか。
 性が秘め事であることで、人間は過剰な生をコントロールしてきたのではないか。人間には昼と夜との二つの顔があり、そこを往復して生きているのが人間ではないのか。それすらも偽善として許されないのだろうか。性を解放するカーニバルは、あくまでもハレの日のイベントである。それ以外はたわいもない日常であることで、ハレの日が大事になってくるのである。
 あけっぴろげな性は逆にエロチシズムを衰退させることになりはしないか。LGBTの人たちが無理に自分を変える必要はないが、権力を振りかざす側に回ろうとするのには抵抗がある。禁制をなくした世界においては、逆に自分たちの居場所をなくすのではと危惧してしまうからだ。
 だからこそ、何度でもG・バタイユの言葉を引用したくなるのである。これは人間への根源的な問いかけを含んでいる。全てが認められてしまえば、エロチシズムは生息する場を失うことになるというのだ。
「エロチシズムは禁制から生れ、禁制によっていきます。そしてもし自らのうちに禁制を持たなければ、もしエロチシズムの本質にたいしてこの禁制の感情を残していなければ、私のいったような意味で、すなわと侵犯を含む意味で私たちはエロチックであることはできないでしょう。動物とおなじかたちでしかエロチックでありえず、そして私たちにとって本質的なものに到達することはできないでありましょう」『マダム・エドワルダ』(生田耕作訳)
 バタイユにとっての禁制とは、法的なレベルとともに個々人の感情までも含んでいる。マイノリティーの人権は保護されなくてはならないとしても、権力とは一定の距離を保つべきではないだろうか。プロレタリアートの名において行われた革命が、全体主義をもたらしたと同じ悲劇をもたらしかねないからである。
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