草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

我が国が中共の属国にならないために楯でなく矛が必要だ!

2019年10月17日 | 安全保障

安倍首相の国会での答弁を聞いていて、歯がゆくてならなかった。習近平を国賓として来年春に招待するというのは、あまりにも馬鹿げている。そこまで配慮する必要があるのだろうか。香港の人たちを弾圧する中共を容認するのだろうか。そうでなくても、トランプのアメリカは東アジアから手を引こうとしている。このままでは中共の影響力が大きくなり、日本の属国化は避けられないだろう▼すでに安全保障の面で日本は丸腰に近くなっている。現在の時点でも中共は、弾道ミサイルを200基、巡航ミサイル800基を我が国に向けている。それを迎撃するのは、今の対ミサイル防衛システムでは不可能である。北朝鮮の弾道ミサイルにも対処できないのに、中共の攻撃に備えることは無理なのである▼『このままでは日本は衰亡する』のなかに収録されている「まかり通る弱者の論理」で、会田雄次が衛藤瀋吉を相手に核武装の必要性を語っていた。あまりにも日本が不甲斐ないので「原子力潜水艦20隻位造って、それに30発ずつ水爆載せて、全世界に集中的に攻撃できるようにし、そのうちの7割までは確実に命中させる。その程度まで装備すれば、それほど我慢しなくてすむことになる。そういう方向に日本は動かないでしょうか」と主張したのだ。これに対して衛藤は「30年は動かない」と断言した▼その本が出てからもう30年以上が過ぎている。抑止力としての武力がなければ、日本は中共に屈服する以外にない。楯でなく矛を持つことを私たち日本人は決断すべきなのである。

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朝鮮(韓国)の歴史の真実28 (嫌韓有理)
2019-10-17 07:21:25
 「全承学編『韓国独立運動史』によれば、(乙未義兵から)16年間に及ぶ義兵総動員数は6万人。」「『高等警察要史』の数字では、日本政府側の死者336人、義兵の死者1万7,779人となっている。」
「日本軍の行動は、『殺戮、放火、掠奪、暴行など、この世のものではない地獄』と書かれ」「統監府設置以後は、日本の憲兵警察が朝鮮半島の隅々までに駐屯し、『極悪非道』な弾圧と虐殺を意のままにしていたとよく書かれている。」(黄 文雄)

 実際はどうだったのか。
 「朝鮮半島の憲兵警察の数字と行政区域をいくら照らし合わせてみても、隅々まで憲兵警察を駐在させることは不可能である。統監府時代から3・1独立運動に至るまで、朝鮮人と日本人を合せた憲兵警察の総数は、初期の千人ほどから最高7千人まで、人数が年々増加していったとされてはいるが、各面(村)まで駐在させるには、数字的に不可能であった。」(黄 文雄)

 「義兵は『激烈な抗日』の主役に据えられているが、同時代人の儒生・黄玹は、イメージとほど遠いその実態を伝えている。
 『忠を抱き、義に因る人は、若干名に過ぎなかった。名を売ろうとする者が導き、禍を楽しむ者が附き、悪人どもが千人、百人と群れを成し、みな“義兵”と称していた』『残忍、凶暴、淫蕩で、略奪し、強盗と異なるところのない者がいた』
 当初彼らは内陸を通行する丸腰の日本人を襲撃していたが、やがて朝鮮の良民に矛先を向けるようになり、犠牲者は時に日本人の10倍にもなったという。(中略)
 蜂起の件数が多かったことをあげて抵抗の激しさを強調する向きもあるが、組織も統一もなかったから、騒擾が各地でおきたというだけである。十数人の討伐隊が鎮圧に向かうと、百人、千人が蜘蛛の子を散らすように逃げるというのが『義兵戦争』の実態だった。
 『暴徒の実力に至りては実に微弱』で『二百乃至三百の団衆に対しても1小隊(注:30人程度)以上の兵力を用いる程の強抗を受けたること無く』というのが日本側の認識・・・現に『義兵戦争』たけなわの1907年春、在韓日本人の不平を尻目に、駐屯2個師団のうちの1つが内地に引きあげている。日本の治安当局は、本州ほどの広さのこの地に、1個師団もおいておけば十分と考えていたのである。」(『韓国「反日主義」の起源』草思社刊)

 「いわゆる“義兵”は、正式な軍隊とは違って・・補給を得ることが難しい。数週間もたてば食糧が断たれてしまう。(中略)食糧が足りなくなって、農村を襲うという行為に出れば、農民から敬遠されるのは、ごく当たり前のことだからだ。
 住民の支持を得られらくなった義兵は、山間部に逃げ込むと、貧しい農村や集落では食糧を供出することができず、義兵が匪賊に変身して、村を略奪した。農山村を義兵の襲撃から守るには、逆に憲兵警察と手を組んで、『討伐隊』を組織して村を守らなければならなかった。それが義兵運動のたどった自己崩壊の運命であった。」(『立ち直れない韓国』)

 「一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」。
 この世には負けると分かっていても、戦わなければならない時がある。そのとき問われるのは、「何のために、誰のために」戦って死ぬかである。
 「日本の奴隷になって生きるよりは自由民として死ぬ方がはるかにいいのです」と抗日義兵は、カナダ人記者に語ったという。だが、“王朝的専制と腐敗・貧窮・差別の泥沼”だった李氏朝鮮・大韓帝国の下で生きてきた民衆が自由民として生きるということは、現実的には、山賊・匪賊のように生きることを意味していた。
 それとも、高宗を守り(復辟し)、大韓帝国を支持(再興)することなのか? 儒教(朱子学)に凝り固まった愚かな両班たちに従って死ぬことなのか?
 そこには夢も希望もないから、朝鮮の民心は“義兵”に同調しなかった。
 そうして、『検定版 高等学校韓国史』が“抗日義兵戦争”と最大限に《潤色》した運動は、日本側の死者336人で終息したのである(注:アルジェリア独立戦争でのフランス側軍警は戦死28,500人、負傷者65,000人に及んだという)。

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