私が読む本のほとんどは、この世を去った者の書である。生きている者は、未だ値打ちが定まっておらず、一定の評価を受けた死者の声に、私は耳を傾けたいのだ。還暦を過ぎるとなおさらである。生きている者は、あまりにも生々しいし、自己弁護に終始している。沈黙を強いられた者たちには、じっと耐える潔さがある。否応なくこの年齢になると、死を意識せざるを得なくなる。すでに夭折する夢は挫かれてしまい、ただただ成り行きに任せるしかない。山田風太郎の『人間臨終図巻Ⅰ』は、私の座右の書である。15歳から55歳までに死んだ人たちのことが、エピソードをまじえて紹介されている。私が気に入っているのは、惜しまれながら世を去った人たちであるからだ。私のように生き長らえているのとは違って、どこか若さをたたえているし、すぐにでも活躍できるようなイメージがある。10代で死んだ山口二矢から、55歳で死んだ大川橋蔵まで、それは共通している。毎年お盆くらいは、時間をつくって死者たちの書を読みたいと思う。これから100年も生きるかのようなことを考えて、生きている者の声しか聞こうとしないのが進歩派である。それと比べると保守派は、死者の前に首を垂れるのである。ことしもまた8月15日がやってくる。散華せし者たちが私たちに訴えたかったことを、もう一度私たちは噛みしめるべきだろう。著書を通して、そのことの大切さを私に教えてくれたのは、小林秀雄であり、柳田国男であった。
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