草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

逃げてばかりで国民に背を向ける菅首相

2010年07月02日 | 政局

 民主党政権は、日本国民を愚弄している。菅直人首相が横並びの党首討論には参加しない、としているからだ。そんなことを口にした首相が、これまでいただろうか。民主主義というものは、自由な討論の上に成り立つ。それを一方的に拒否しているのだから、とんでもない暴挙である。与党側が少なくても、国民が判断するためには、候補者を擁立した政党については、できるだけ平等に扱われるべきだろう。しかし、菅政権は何を怯えているのだろう。そんなに自信がないのだろうか。消費税を持ち出したと思ったらば、急にトークダウンしたりで、やっていることはメチャクチャである。菅首相は、野党時代に舌鋒鋭く攻撃した割には、責められるのには弱いようだ。所詮アジテーターというのは、そんなものなのだろう。政権交代をした当初は、「ジミンガー」の連発で乗り切ろうとしたが、ここまでくるとそれもかなわず、逃げるしかないのだろう。それでは、国民に対して無責任過ぎる。各政党の党首が参加した討論を通じて、争点が浮かび上がってくるのであり、それもしないで、投票しろといわれても、ホトホト困ってしまうからだ。多勢に無勢だからと尻尾を巻くのでは、政治家として失格である。今後、菅首相が独裁色を強めることになれば、それこそ、サヨク政権の本性をむき出しにしたということであり、国民の総反発を買うことになるだろう。

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攘夷断行と高杉晋作の詩的な情念

2010年07月02日 | 思想家

 菅直人首相ともあろう人が、とりわけ長州人としての誇りがあるのならば、敵に後ろを見せるべきではないだろう。テレビでの党首討論会を拒否するというのにいたっては、何をかいわんやである。平成の高杉晋作を名乗るのであるならば、堂々と受けて立つべきだろう。国会においても、論戦を避けて、参議院選挙に突入してしまったが、そんなことで、国民の支持を得られると思っているのだろうか。高杉と菅首相の大きな違いは、詩文の才能があるかないかである。高杉は詩的な情念があったからこそ、明治維新の礎となったのである。司馬遼太郎が『世に棲む日日』のなかで、どれだけ高杉を正確に書いたかは分からない。しかし、現実にこだわる政治家としてよりも、詩人の方が現実を動かす場合があるのを、私たちに教えてくれたのだった。「外国を怒らせ、戦争にもちこむ。日本じゅうをあげて―大名やその家来だけでなく百姓も女子供も―侵入軍と戦い、山は燃え、野は焦土になり、流民があちこちに発生し、それとともに既成の秩序はまったくこわれ、幕府はなにもあったものではなくなるとき、その攘夷戦争をやってゆく民族的元気のなかから統一がうまれ、新国家が誕生する、と晋作はおもった」と司馬が評価したのは、高杉の捨て鉢な危険な賭けに、詩人の詩人たる所以を見たからだろう。菅首相はそんな賭けよりも、堅実さで政権を運営しようとしている。しかし、日本人は高杉タイプを好むのである。生き長らえて晩節を汚すのは、厭うべきことであるからだ。

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デマゴーグに踊らされる日本の政治を憂う

2010年07月02日 | 思想家

 民主主義というのは、民衆の支配ということであり、一歩間違えば衆愚政治に転落するのである。昨今の日本の政治を見ると、大衆社会特有の液状化現象が進んでいるように思えてならない。「つながりのないばら銭」とエドマンド・バークが評した孤独な群集というのは、共同体的な絆から解きはなされ、伝統的な忠誠対象を失った人々を指している。昭和30年代までは、隣近所の付き合いも、それなりにあったし、農村地帯では、共同作業を通じて、連帯感が培われていた。さらに、戦前においては、戦争という非常事態に直面したこともあって、「国のために」という言葉が、国民共通のスローガンとしての意味を持っていた。しかし、都市化が進み、農村人口が減少すると、もはやそれは過去のこととなった。それでいて、身を寄せるべき権威を追い求めるのが人間なのである。だからこそ、デマゴーグの餌食になってしまうのだ。コメンテータ-の一言に影響を受けるのは、自分で決めることができないからだ。さらに、デマゴーグの真骨頂とは、特定の階層を槍玉に挙げることで、憎悪を煽ることであり、それがもっとも手っ取り早いのである。しかも、自分たちの意見を主張するにあたっては、常に世論なるものをバックにして、批判を封じ込めようとするのだ。日本中を吹き荒れた政権交代の嵐にしても、その実はマスメディアの踊らされただけではなかろうか。デマゴギー政治に振り回されないようにするためには、まずは頭を冷やすべきだろう。そして、大勢に逆らう少数派の意見にも、謙虚に耳を傾ける必要がありはしないか。

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