いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

チョコバナナフルフル

2006年02月05日 21時23分50秒 | 筑波山麓


チョコバナナフルフル

つくば市、『ウエストハウス』

こういうのって、ただ、バナナと生クリームとアイスとワッフルなのだから、味覚としての特筆すべきことはなし。 自分でつくればいいんだよね。

■今日の日曜美術館は、なまぐさくて、おもしろかった。美術品がいかに、時代変遷とともに、「お金もち」のあいだで、移動していくかの話。「強盗慶太」の五島美術館もでてた。そうなんだよ、いつの世も新興金持ちは「アウトロー」扱い。もっとも、五島慶太はつかまってません、念のため。ちゃんと、オンジエッジ。ビヨンドジエッジじゃない。

■大正5年の伊達家の「お宝」放出の話も出てた。おいらは大正5年の伊達家目録というの聞きかじっていたが、この時きちんと目録を作ったのね。仙台伊達家が大名家として初めて「お宝」放出したそうだ。ちなみに、明治年間に、北海道に渡った、敗残旧仙台藩士たちは、海岸でひろったホタテ貝のカイガラを器につかっていたのだ。

■敗残旧仙台藩士たちが使った、竹雀紋入り、ホタテ貝のカイガラ器って(そんなのないけど、あったら)、にこにこできる。


聖上、英霊に御親拝 昭和16年10月19日

2006年02月04日 21時57分51秒 | 日本事情


■聖上英霊に御親拝 昭和16年10月19日。折りしも、近衛内閣総辞職、東條内閣成立の日。

■戦前新聞は「天皇陛下」ではなく、聖上陛下といっていたことがわかる。靖国「参」拝ではなく、御親拝。「参る」は謙譲語だから、天皇は参拝とはいわないのだろう。ただし、朝日の岩井克巳の解説付きの『徳川義寛、侍従長の遺言』の岩井の解説では、「天皇は・・・・参拝・・・」という言葉づかいをしている。

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■昭和50年、ひろひとさん、そして天皇「最後」の靖国親拝。

時系列でいうと、昭和50年9月末の訪米の後ということなる。邪推すると、日米和解に一定の区切りがついたことの すめろぎ さんからの戦没者への「報告」か?

●上下の写真の間で、「英霊」の御霊が数百万柱増えたのである。八百万(やおよろず)のカミガミも一気に千万超えである。 ひろひとさんは、歴代すめろぎでいちばん、

海行かば
水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば
草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の
辺(へ)にこそ死なめ
かえりみはせじ


屍を築いた すめろぎ さんである。

息子の流儀




 

はきだめと鶴

2006年02月03日 21時44分28秒 | 国内出張・旅行

西鹿児島駅前にある明治維新貢献薩摩人の像。大久保を頂点とするその像のハイエラーキー的配置も、像のひとつひとつの変な格好とあわせて、醜悪である。もちろん西郷はいないのであるが、こういう醜悪な群像に似合わないところが西郷の、数少ない、美点であろうか。




薩摩、出水の鶴。 地球上で一番鶴が集まっている場所。

■今日のニュースで鶴の北帰航が始まったとのこと。彼らの一部は既に薩摩を去ったのだな。なので、あわてて記事にする。彼らは、38度線の非武装地帯で休んだ後、シベリアへ向かう。

JG



東條首相 総理大臣室(七月三十一日撮影) だって。

2006年02月02日 20時19分45秒 | 日本事情


アサヒグラフ大東亜戦争第三十四報

昭和十七年 八月十九日号

発行所 
東京市麹町区有楽町二丁目三番地
朝日新聞東京本社

発売所 朝日新聞社

■朝日って戦前は有楽町にあったんだね。

■ひろひとさんが靖国神社に行かなくなったのは、いわゆる「A級戦犯」が合祀されたからだと言うひとがいる。確かに、時間軸で見ると松平宮司長が、決断主義的に、いわゆる「A級戦犯」を合祀した後に、ひろひとさんは靖国神社に行っていない。これを、ひろひとさんが、いわゆる「A級戦犯」の合祀に反対だからと解釈するひとがいる。

■靖国神社問題を考慮外にしても、ひろひとさんが東條元総理大臣の慰霊を行わなかったことは君臣の道に悖るものといわざるを得ない。なぜなら、東條英機さんはクーデターを起こして政権を奪取したわけないことはもちろん、総理大臣になろうと画策・陰謀した気配もない。事実は重臣会議が決定し天皇に進言、天皇が東條英機さんに命を下したのである。

■本来なら、維新政府なのであるから天皇自ら国政を総攬すべきを、東條英機さんにも、輔弼願い、手伝ってもらっていたのだろう。早い話、東條英機さんはひろひとさんの第一臣下、部下なのだ。部下が自分の命令で事をなして、その過失、どころか罪科とされる、を犯して刑死した場合、「上司」に責任はないのであろうか? もちろん天皇は大日本帝国憲法で無答責・無責任なのであるからとやかく言うべきではないのであるが、せめて、自分の身代わりに死んだ、部下・臣下の慰霊はすべきではないか。

■しかしながら、戦後日本で、靖国神社以外でも、ひろひとさんがいわゆる「A級戦犯」を慰霊しないということに政治責任を求めた声は聞かない。もちろんこれは一般国民の東條以下、いわゆる「A級戦犯」憎しのルサンチマンを背景にしてのことだろう。 それにしても戦後、ひろひとさんの威や人気が一般国民の間では全く色あせなかったことと、いわゆる「A級戦犯」への怨嗟による誹謗中傷は対照的である。ただ、おいらの言いたいことは、一般国民がいわゆる「A級戦犯」へ怨嗟を抱くのは自然な感情だと容認できる。しかし、ひろひとさんのいわゆる「A級戦犯」無視は道義的にかなりやばい....。

『私の昭和維新ノート』 門馬昇 

2006年02月01日 20時44分32秒 | 


『私の昭和維新ノート』 門馬昇、さきたま出版会、非売品 

■つくば科学万博が開催された時(1985年)、つくば市はなかった。いくつかの町や村が合併して、「つくば市」が発足したのは1987年。なので、今のつくば市には旧町村にできた図書館が点在している。そんなつくばの図書館のひとつに、日頃はあんまり行かないのだが、行った。その時発見したのが、この『私の昭和維新ノート』。郷土史のコーナーに、なぜかしら、あった。

■著者の門馬昇さんは大正七年、福島県は相馬の生まれ。没落士族の家系とのこと。海軍兵学校受験のため上京勉強中2・26事件に遭遇。衝撃と感銘を受け、大東亜塾に入門。北一輝に傾倒。統制派の別働隊ごとき昭和維新には一線を画し、活動。つまり、<国家=政府を援けるが右翼>という俗論の外にいたということらしい。

■この本の主張は極めて簡素なんものであるが、極めてユニーク。つまりは、丸山眞男・宮沢俊義流の敗戦=八月十五日革命説ならぬ、敗戦=昭和維新(=2・26事件)説、というもの。その説は、昭和天皇は日本の民主化を条項に含むポツダム宣言を受け入れることで、2・26事件でできなかった民主化を、戦後日本で実現したというもの。

■モデルは単純;
悪玉;陸軍統制派(=2・26事件「弾圧」);君側の奸
善玉;薩長→北一輝や「皇道派」青年将校→米英占領軍;忠君
戦後日本というのは、昭和天皇が選び取った評価・肯定されるべき歴史であるということになる。

著者が詠う短歌は;

  ・君知るや敗戦変革はGHQによる二二六の再現なりしを

  ・さながらにGHQは薩長(北・西田派)なりき指令変革の跡をし見れば

■もっとも、昭和天皇が二二六事件のとき、討伐する!と言ったとされることへのコメントは特になし。

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