いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

上海参り 2012

2012年12月02日 12時36分54秒 | 中国出張/遊興/中国事情

            海を越えたら上海
                どんな未来も楽しんでおくれ  (井上陽水、「なぜか上海」、1979

■ 1週間前の連休は、上海に行った。暇だからだ。ブログを書く人はしばしば、忙しい、忙しい、と書いている。だからブログ記事を書く暇がないんだと。一方、自分は暇人だからブログをやっているといっているひとはめったにみない。なぜなんだろう?おいらは、暇な上に9月の中国全土の反日暴動で、日本からの観光客が激減したとの報道をうけ、これなら料金も暴落しているだろうとハイエナのように思いつき、せっかくなので、上海に行くことにした。果たして、札幌に行くより安い。例えば、航空券は上海-成田往復で2万円というのもある。あわよくば、「おまえ、日本人だろう!」と石でも投げつけられれば、この日本では何者でもない ちんけ なおいらも、彼の地においては、"21世紀的新生軍国主義日本"の尖兵としての役割が果たせるのではないかと夢想した。やはり、アタマがいか@れているのだ。

● 機上

    
  がらがら       虚構の40年を見続けた熊猫

■ 上海

外灘・バンドから黄浦川越しに浦東 [Pudong]地区を望む。 これが「未来」だ。


   


1945年頃の地図。 浦東には何もない。この状況は1980年以降の改革開放政策まで続いたはず。

  

黄浦川は川底を通るゴンドラでも行ける。橋はない。地下鉄か、このゴンドラで行く。
トンネルの壁が電灯装飾されている。


  黄浦川をくぐって、浦東の高層建築物群を見る。

 


その浦東の高層ビルのひとつに登り、眺めてみた。

■ 1. 昭和の成仏のために

 おいらは、日頃、昭和の成仏のためにがんばっている。上海は、筑波山麓なぞよりはるかに、成仏できない昭和がさまよっている。

   
   上海、虹口公園。"ここ"は、1932年(昭和7年)4月29日、上海天長節爆弾事件がおきた場所。


 1932年(昭和7年)4月29日の "ここ"

雨はしきりと降る。
そのため傘を開くものあり、また三々五々帰途につくもののあるのを台の上で直立しながら目撃した。しかし、君が代の合唱は新公園を圧して続けられた。二回目の君が代がまさにに終わろうとする瞬間であった。異様な形をした金属性のものが式台の上に投げ上げられた。式台の上で野村中将だと思うが、
「爆弾!」
と叫び
「二発目がくるぞ!」
 と大声で叫んだ。急に動揺が始まった。台の上も下もざわつき出した。自分は君が代の合唱を不動のまま続けた。が、それとともに今か今かと思う幾瞬間の後、水筒形のその怪物は爆発した。爆音は強かった。自分には極めて固い鋼鉄と鋼鉄とを強く撃ち合わさったような、歯切れのいい、耳をつんざくような音であった。それと同時に鬼の金棒か何かでしたたか打ちつけられた感じがした。倒れた自分を起こそうとして手にしていたステッキの助けで立ち上がろうとした時、ステッキが自分の身体を支え切れずにポキポキと三つに折れた。止むを得ず倒れたまま脚部に目を注ぐと潜血がズボンを通してほとばしり出ている。
「やられた」
と思った。   重光葵、『外交回想録』

▼ この爆発で、河端貞次が即死、第9師団長植田謙吉中将・第3艦隊司令長官野村吉三郎海軍中将・在上海公使重光葵・在上海総領事村井倉松・上海日本人居留民団書記長友野盛が重傷を負っている。重光公使は右脚を失い、野村中将は隻眼となった。白川大将は5月26日に死亡した。 (wikipedia: 上海天長節爆弾事件)

この重光葵は、もちろん1945年に戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印するあの重光葵である。

  

この戦艦ミズーリの艦上での写真は靴を両足に履き、ステッキをついている。靴は履いているが右足は義足のはずだ。1932年(昭和7年)4月29日、上海天長節爆弾事件で失ったからだ。おいらは、がきんちょの頃から重光葵の文章を読んでいる。当時、写真になるような歴史的出来事に参画した人物がその時どんな状況、気持ちだったか書いたものがあると知り、びっくりした。だから、重光葵の本を集めるようになった。1945年に戦艦ミズーリの艦上の状況のひきうつしはこちら(愚記事; 帰路東京湾中より富士見事に見ゆ)。そして、重光は両足がある時から、ステッキを使っていたのが、上記日記からわかる。倒れた自分を起こそうとして手にしていたステッキの助けで立ち上がろうとした時、ステッキが自分の身体を支え切れずにポキポキと三つに折れた。って、切実感がある。

その上海天長節爆弾事件の映像ってのもあるんだ; ⇒ YouTube

さて、この上海天長節爆弾事件が起きた時、重光は(今から言えば)第一次上海事変 [wiki] の停戦協定に奔走していた。もし、こんあ爆弾事件で停戦協定が成立しないと、停戦交渉が無に帰す。

そして、尹奉吉(ユン・ボンギル)さん

「日帝」大将や外交官を殺傷した"爆弾テロ"を行ったのが、尹奉吉(ユン・ボンギル)さん。現在、彼はこの事件があった場所で顕彰されている。

  

  
出撃の記念にピストルと手榴弾を手に記念写真。 おやごさん。

おやごさんは、儒者らしい。

やっぱり、儒教はテロリズムの源泉なのだ!(愚記事; They look just like two Gurus in drag ! 西のグル、北のグル

逮捕後の供述で尹奉吉(ユン・ボンギル)さんは言っているらしい; 

今回のような事件を起こしても独立に直接効果がないことは満々承知しているが、ただ期待するのは、これによって朝鮮人の覚醒を促し、更に世界に朝鮮の存在を明瞭に知らしめることだ」 (特高資料、上海ニ於ケル尹奉吉爆弾事件顛末 [ソース])

     《動機オーライ主義》

▼ やはり、朝日は、デマゴーグ;

支那人の爆弾ではありません。 朝鮮出身の大日本帝国臣民である尹奉吉(ユン・ボンギル)さんの爆弾です。

紅葉とプラタナス

 

まず、上海にはプラタナスが多かった(後述)。そして、この旧虹口公園、魯迅公園には紅葉が多かった。

魯迅の墓

1932年(昭和7年)に「日帝」陸軍大将が爆弾テロで殺されたこの公園は、今では魯迅公園という名称だ。魯迅の墓があるからだ。

おいらが、行ったとき、誰もいなかった。

■ 2. 毛(マオ)さんを探して

おいらが文革(中国で1966年-1978年になされたプロレタリア文化大革命)を少し調べ始めたのは小泉内閣の頃だ。あの小泉ブームの熱狂の頃だ。おいらは、当時、あの小泉ブームを見て、これはあのマオさんの文革ではないか!と直感した。それは、建物に大きな肖像を掲げたたり、「自民党をぶっこわす!」と叫び、それら従来の 愚民党 自民党と違う流儀が、毛沢東が文革を始めたときの「司令部を砲撃せよ!」とアジッたことを彷彿とさせたりした。

  
  中国化する日本 !

文革については、本で読むより、映像で見た方がより面白い。理由は、当事者が芝居がかっているからだ。これは小泉劇場も見ないとその面白さがわからないのと同じだ。小泉ブーム以降、劇場型政治、ポピュリズム批判が現在に至るまで盛んだ。でも、中国では半世紀前から劇場型政治なのだ。下記YouTube参照。

毛沢東の中国:大いなる実験 4 of 5(文化大革命1 1966-1967)

今回の上海参りでの掘り出し物。 2005年の北京では掘り出し物に遭遇。うれしかった。

 北京(2005年)での掘り出し物(愚記事;中国出張② 毛沢東 と 江青 。お「宝」掘り出した。)

上海では、道端のもの売りはひとりだけみた。売っているものを見たら、ひとつあった。買った。20元。日本円で260円ほど。表紙以外の本編には毛さんは全く出てこない。京劇のパンフレットのようなもの。京劇といっても当時新進の革命京劇だ。典型的、文革的遺物である。掘り出し物に遭遇。うれしい。

   


  1970年出版、とあった。 陽水の『なぜか、上海』は1979年なので、この文革・京劇時代から10年も経っていないのだ。

この文革期の京劇の事情が上のYouTube「毛沢東の中国:大いなる実験 4 of 5(文化大革命1 1966-1967) 」に解説されている。この俳優さんの回想インタビューもみれる。


 このおじさんから買ったのだ。コンビニの前で商売してた。
   なぜかしら、卓球の使い古したラケットも売っていた。

▼ 巷の毛さん像

 

通りや広場でマオさんの大きな肖像画は見なかった。でも、通りのお店の奥にマオさん像が貼ってあった。御真影なのか?庶民の信仰対象なのか?それとも、最近流行の打黒派の暴動から身を守る護符なんだろうか?御真影とともに福に字が逆さに倒して貼ってある。やはり、伝統的な中国庶民なのだ。到福を祈る!

まぼろしの毛主席語録;

おいらは、本物の毛主席語録を持っていない。現在日本語への翻訳本は、『毛沢東語録』として、竹内実の訳で平凡社から出ている(Amazon)。1995年出版とある。おいらがものごころついて、本というものを読み、集めはじめた1980年代に、毛沢東語録は伝説の書でしかなかった。少しは "古本屋まわり"というものを行っていたが、見たことがなかった。同様の本に田中角栄の『日本列島改造論』がある。たくさん刷られたはずなのに、実物をみたことがなかった。21世紀になって初めて見た(愚記事; せどり(もどき)/春樹/日本列島改造論 )。『毛沢東語録』、『日本列島改造論』ともに隠れていた時代、それが1980-2000年の世界である。 今では歴史的に再評価が起こり復権しているニクソンとあわせて、20世紀末において、角栄・ニクソン・毛沢東の評価は不遇の時代だったのだ(関連愚記事; ゾッキ本・計400円で読む角栄・ニクソン・毛沢東)。

それで、探したょ、毛主席語録。『毛主席語録』って億の数が印刷されたはず。でも、ない。おいらが、見つけたのは、『毛主席哲学語録』。哲学だって。右は英語版の『毛主席語録』。虹口近くの古本屋でみつけた。


 おのおの、160元=2000円ほど。

『毛主席哲学語録』。哲学!だって。 ぬほんごじゃないか! 周(あまね)、よかったネ。

  
  西 周         毛の傍で、毛主席語録を振りかざし、生きながらえる another 周 さん。

 したたかな鋼としなやかな柳の両面を持ち合わせていた外交官としての周恩来を絶賛する声は多い。批判的な声は、文化大革命で多くの心にもないことを語り、多くの心とは異なることをやったとするが、小平をはじめとする多くの古参幹部を保護した功績だけでも歴史的な役割を果たしたといえまいか。 (鬼頭春樹、『国交正常化交渉 北京の五日間  こうして中国は日本と握手した』) [強調、ikagenki]

▼ そして、21世紀の毛(Mao)さん、何の因果か落ちぶれて、今じゃ、走資派の使い走り

上記YouTube「毛沢東の中国:大いなる実験 4 of 5(文化大革命1 1966-1967) 」は言う; 「毛沢東は革命の情熱が失われことを懸念していました。中国でもソ連と同じように共産党内に特権的な階級が生まれつつあり、毛沢東は資本主義と実利主義の復活を恐れました。 (中略) 毛沢東の支持者は彼の言葉を一冊の本にまとめ、資本主義に走る走資派の攻撃に利用しはじめました。」 これが、毛主席語録の縁起。 今じゃ、マオさん自身が走資派の手先である。資本制における一般的価値形態の化身として、世界を駆け巡っているのだ。史上最大のインターナショナル活動家である。たまに、為替操作国認定問題、つまりは国際資本制におけるテロ行為の嫌疑をかけられるが、むしろマオさんのお里が知れてにこにこできる。今後は、支那紙幣が国際資本制へ「司令部を砲撃せよ!」と、ことを起こすことを、世界のえすたぶりっしゅめんとさまはかたづをのんで見守っているのだ。

■ 3.路地裏の経済学

 地下鉄打浦橋駅付近です。高層ビルのとなりのブロック。表通りからブロックの中へ入る路の門が見えます。
入りました。

 

ものもたくさん売っています。生きたカニ、とり、うさぎなどが並べられていました。

 

 ■ 4. 坊さん中共派

上海の旧フランス租界地域に、中国共産党の第一会大会が行われたとされる史蹟がある。上記の画像にあるように大々的に交通標識が掲げられている。この画像は高架橋の下の歩道橋。無宿者が寝ていた。中国共産党の第一会大会の主役で、偉大なる マオ主席 が創った、の無宿者。しかも、橋の下だ。彼(か彼女かわからないが)の子孫もがんばって上海市長になれるよう願う。

その中国共産党の第一会大会が行われたとされる史蹟に行こうとしていたら、路上で坊さんの集団を見た。なんだべ?と思った。まさかこれから太鼓を打ち鳴らし南無妙法蓮華経を唱えながら寒稽古でもしやしないかとびびった。でもなんのことはない。彼らこそ、おいらが行こうとしていた中共第一大会史蹟に入ろうと並んでいたのだ。坊さんなのに中共が好きなのだ。これはみたことのある風景だ;愚記事 北京のチベタン@中共派

この記念館は展示物の撮影が禁止だった。やはり、崇拝するものを写してはいけないのだ。坊さんは警備員にダメかと聞いていた。もちろんダメだった。この記念館は展示物のメインは中共第一大会の人形再現。実物は撮影禁止だが、記念館出口の写真(下図)は撮影可能なのだ。坊さんは一生懸命撮っていた。

さらに恐ろしいことがおきた。坊さんがデジカメを持っていたり、毛沢東が大好きなのも驚いたが、坊さんが携帯電話、あるいはi-phoneを持っていた。着メロがなった。聞いたことあるメロディーだなと思いきや、~♪~好き~好き~♪~一休さん~♪~のメロディではないか! どうなっているんだ!中国。


 -没有共産党就没有新中国 (共産党無くして、新中国無し)-
YouTube; 中国和尚唱紅歌 (中国の坊主共産党の歌を唄う)

■ 5. 街路樹のプラタナス

旧フランス租界の街路樹。プラタナスがたくさん道沿いに植わっている。植民者のおふらんす人が、植樹したに違いない。

プラタナスは、おいらの生まれた札幌にも多かった。一方、プラタナスは内地ではあまり見ない木のような気がする。プラタナス=すずかけ、ってすぐには連想しない。でも、むかし、住んでた街(内地)には、すずかけ通りってあった。マドリッドでもプラタナスが多かったし、ドイツでも多かった。でも、マドリッドは暑い街だ。そして、ドイツは寒い。上海は暑く、札幌は寒い。つまりは、プラタナスは耐久性が強いんだ。そして、あの天狗のうちわのような大きな葉っぱがうれしい。おいらのの簪を挿した御方は、路上に落ちた濡れたプラタナスの葉に足をとられ、ずるっとすべって、転んだ。

▼ 旧フランス租界でブリュレ

       革命はお茶を飲むことでも無いし刺繍をしたりピクニックに行くことでもない、 毛沢東

「瀟洒」な店でお茶した。

マオ主席、ごめんなさい。おいらは、旧フランス租界でお茶を飲んでしまいました。

でも、刺繍はしませんでした。ゆるしてください。もちろん、ピクニックなんぞや...。

あれは、スメロギさまのすることです(終戦ピクニック計画)。

 google 画像

おいらは、おフランスといえば、ブリュレという貧しい発想しかできないので、注文した。

ブリュレは、中国語で焦糖布丁と知る。でも、google画像で焦糖布丁を引くと、ただのプリンだ。

焦糖布丁という言葉には、表面に薄氷のように張ったカラメルの固形状薄膜という属性は、必ずしも含まれていない。

  

でも、この上海のantique garden Shanghaiでのブリュレはちゃんと、表面の砂糖を焼いて固形状薄膜にしてありました。

さすが、旧おふらんす租界地だ(?)。

■ 6.魔都と魔女、そして、今日知って驚いたこと;

上海は「魔都」と表象される。その魔都で女優をやっていたのが、江青さん(1914年生まれ)だ。

やはり、魔都なのだ。

  出典
うら若きまだ鳴く前のめんどり。のち、鳴いておクニが転覆 or 再活性化する。

上海で女優といえば、少し後輩にあたるが、李香蘭さんもそうだ。終戦前のことだ。

1960年代、文革の四人組の拠点は、上海だった。戦争中は延安にマオさんを"タガメ"に行った江青さんは、上海に舞い戻ったらしい。

戦後のことだ。やはり魔女が舞い戻る、魔都なのだ。

そして、今日知って驚いたこと。

李香蘭さん[画像](1920年生まれ)は、まだ生きているのだ! (wiki

老優は死なず! 支那の猫も死なず(シナにゃん!)

恐るべし!、上海。