いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

武士漂流時代 「余った三河武士」はどうなるか?

2010年11月25日 19時35分57秒 | 日本事情

「余った三河武士」はどうなるか?、あるいはメリトクラシーとアリストクラシーの半端者。

11/25なので、例年のしきたりに従い、三島ネタ;

▼過去記事 11/25
2009年画面で告白 in English、あるいは45歳で隠れること
2008年(無題)
2007年初霜の時期
2006年 うちのこは嫌い

●最近気付いた三島に関すること;

・三島は恩賜の銀時計をもらったことは知っていた(下貼り付けのYouTube内の"木像の様だった"ひろひとさんの思い出を参照)。おいらは勝手に東大法学部の時に三島が恩賜の銀時計をもらったと思い込んでいた。三島が学校秀才であったと。違った。三島が恩賜の銀時計のは目白でだったのだ。つまり学習院の高等科でのことだったのだ。どうせ周りはみんな漢字読めない連中ばっかだったのだろうから(ウソです)、ちょっとの努力でよかったのだろう。

・そして、wikiによると、三島は(旧制)一高を受験するも、落ちたらしい。

東大法学部を出た三島は大蔵省に入省した。でも、別に秀才ちゃんじゃなかったみたいだ。高等文官試験に167人中138位という成績で合格した(wiki)。

ということは、三島は、実は、メリトクラシー(能力主義)・エリートではなかったのだ。一方、祖母"夏子は両親から引き離し、公威に貴族趣味を含む過保護な教育"い、三島を学習院に入れた。でも、平民は平民。アリストクラシー(貴族[世襲]主義)の観点からも残念。

つまりは、平岡公威さん・三島由紀夫は、メリトクラシーとアリストクラシーの半端者なのだ。

・大蔵省に入ったのが昭和23年(1947)。つまりは占領下まっただ中のこと。当時の日本政府は占領軍・GHQの管轄下にあり、占領軍の意向で内政を"代行"するのが業務であった。たとえば、英語ができた宮沢喜一さんの主業務は毎日占領軍・GHQとの折衝であった。これがどんなに嫌なことであったをのちのちまで"愚痴"っていた。

・そんな占領軍の代行業務を行うOccupied Japan政府に三島は好き好んで、しかも成績下位で、就任したのだ。つまりは敗残国家の人間として占領軍の代行業に就いたのだ。三島は「俺は戦後と寝なかった」と豪語したらしいが、どうなんだろう。戦後=占領体制の本丸に出仕を願いでたのではなかったのだろうか? 勝者に取り入り生活する敗者。

・"勝者に取り入り生活する敗者" は、先の大戦の敗戦後に始まったことではない。明治維新の時(本ブログでは薩長によるニッポン乗っ取り・クーデター)、徳川家臣団は、すなわち三河武士どもは、クーデター勢力とろくに闘うこともせず、服従。その後、新政府への出仕に必死になった。その出仕への径路が明治新政府による学校制度とそれに付随する能力主義(メリトクラシー)である。ここで言いたいことは、現実の武士なんてのは、状況に順応することに窮する集団なのである。何かあったら死をも恐れぬ!というのは本当の武士の実態とは違う、物語としての「武士道」なのだ。


三島の祖母・夏子は永井一族の出らしい。旗本ではなかったらしいが、尾張の家臣団の末裔だ。荷風の永井一族と同族という。荷風の父は尾張の徳川家臣団の出だが新政府に出仕(wiki)。息子の壯吉には一高に入ることを強く求めるも、失敗。学歴貴族になりそこねた壯吉は、荷風となる。「余った三河武士」はどうなるか? 作り話創作者になっただよ。

・そして、平岡公威さん。「余った三河武士」はどうなるか?三島由紀夫になる。作り話創作者になっただよ。そして、パフォーマーにもなった。そして、戯曲作家だけあって、物語としての「武士道」のシナリオをでっちあげて、演じたのであった。

切腹した「余った三河武士」残党。

↓漂流する武士残党;

―若き三河武士のために、裕次郎ポーズを捧げています。―

三島由紀夫 vs 東大全共闘


★博士漂流時代 「余った博士」はどうなるか? 人類に敵対する作り話創作者になっただよ。