いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

非群生派

2006年11月08日 20時57分37秒 | 草花野菜

セイタカアワダチソウ非群生派

■今週は「関が原」週間。今年は見てない大河だけど、たまたま関が原だった。少し見た。山之内がドラマになるなんて信じられないし、事実つまんない。勝ち馬に乗りつづけようとするヒッシなイジマシイ夫婦三文芝居ってイメージ。全然大河じゃないじゃん。NHK小川ドラマ。

一方、今、時代劇専門チャンネルでは、政宗をやっている。今夜は、百万石のお墨付きがパーになってしまったという、上記イジマシイ夫婦三文芝居とはスケールが違うお話。ちなみに、この「百万石のお墨付き」の書状は現存していて、仙台市博物館の常設展示のはず。

さて、家康は関が原で勝てた理由は、豊臣家臣の分断に成功したから。七本槍といわれた秀吉子飼いの武将を味方にした。つまりは、家康は自分の持ち出しを少なく抑え、「敵」を分断して、合い戦わせ、自滅させたといえる。逆にバカなのが旧秀吉家臣の側で、特に加藤清正と福島正則が大バカであり、この後の豊臣家滅亡の最大の功労者である。無定見に。こういう「成り上がり者は」、目の前のことに一生懸命という属性で成り上がったのだが、まさにこの属性、目の前のことしか考えられないことで没落していく。対極的視野がない。清正なんか、絶対経験主義者。朝鮮での負け戦の経験を熊本城の作りこみに命をかける。視野狭窄。その点は家康と大違い。

大大名加藤と福島は時代が下り幕府に廃せられる。

関が原で家康に味方したのに、後につぶされる秀吉恩顧の大名は福島と加藤であるが、共通点は秀吉子飼いであったこと。つまり信長家臣ではなく、そして、由緒ある武家の系譜をもたなかったこと。そして、大大名になったことである。おいらは、この2つの理由で、徳川譜代層、つまりは老中グループの妬みを買い、つぶされたと邪推する。

この点からみて、政宗はへたに百万石になったとしたら、徳川譜代層、つまりは老中グループに狙われたかもしれない。事実、時代が下った、寛文事件、伊達騒動は徳川幕閣が伊達家をつぶして、分割処分しようとしていた。