いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

チャンドラ・ボース;おぼえてね!(^_^)

2004年07月18日 00時32分31秒 | インド

さよならインド! おいらは、帰ります。

帰国を前にデリーの目玉ラールキラー、キラー城、東京なら旧江戸城、に行く。キラー城は首都デリーの要所のため半分はインド国軍が駐屯している現役の城である。ムガル朝時代の皇帝の居城であった。現在は城内の建物とともに博物館がある。その博物館は歴史博物館であり、主に19世紀中以降の独立史に重点をおいている。

マホトマ・ガンディの名前は多くの日本人は知っているが、スバーシュ・チャンドラ・ボースの名を知る人は少ないであろう。事実、二人はインド独立、対英闘争のライバルでもあった。余談だがデリーの本屋でチャンドラ・ボースの本を買うと店員がガンディの本も薦めてきた。いや、おいらは買わん、ボースが好きだというと、その店員は二人はこれだからなと言って両手の人差し指を交差させていた。現在でも国民的人気は大であり、ガンディーには及ばないが2位の地位は占めている。これは、実際インド人に聞いてみてもそうだった。ガンディとはタイプが正反対なので、なんとも言えないが、ある種現実的なところ、世俗的なところが人気の原因であろう。ガンディは政治家というより、聖者であるから。

チャンドラ・ボースとはインド東部カルカタの出身の対英独立闘争の戦士であり、先の大戦ではシンガポールを陥落させた日本軍のインド人捕虜を組織してインド国民軍の先駆けを作った人物である。博物館も彼のための展示スペースは広い(別途紹介する)。東京での大東亜会議にも参加。写真は日本の軍人との写真である。ボースのインド解放の夢は、日本軍のインパール作戦で実現するはずであったが、日本軍はとてつもない失敗をして大量の戦死者を出した(ビルマの竪琴の話)。

終戦直後、台湾で航空機事故で突然の死。なきがらは東京のあるお寺に埋葬されいる。なぜ、遺骨がインドに帰らないかはなぞである。(実はなぞでもないのだが、ベンガルの人に聞いた。これも別途書く。)

ということで、おいらのインド滞在も今日でおしまい。

さよなら、インド。

あんまり、考えなかったけど。インドに来たら何か考えるという発想があんまり考えてなかったかもしれない。

とまれ、今後はインドねたをぽつりぽつり書きます。

JG