異次元いいちこ日記

いいちこ片手に今日もいくつもの扉をあけます。
トワイライトゾーン(llllll゜Д゜)ヒィィィィ

感動をありがとう。

2008-01-13 15:08:37 | Weblog
今日眠たい目をこすりこすり、行って来ました「ボーイスカウト」

知的障害者の参加する「尼崎第25団」。

朝8時に起きて身支度してお迎えに行って9時10分、みんなの待つボーイスカウトの仲間の所に行く。

子供とそのおかーさんを紹介して、団長さんとの挨拶はなんともおかしく、「子供とおかーさん」は何故ココにいるのか解るけど、なんで「居酒屋のオッサン」が来てるのか・・・・

会う人会う人と挨拶したけど、何故ボクがここにきているのか説明がつかない。

まぁー付き添いだと言えばそれまでなんだけど、しんどいめをして何故来てるのか不思議なようだった。

しかし実はボクが来たかったのです。

ボクはなぜか身体障害者の人たちをどうしてもほっておけないのです。
今回のこの団は身体障害者の中でも、知的障害のあるこどもたちなので、もちろん全くの健常者も来てるのですが、うんまぁー半々と言う所かな?

「ダウン症」の子供たちもいて、可愛くて可愛くて仕方がない。
年齢によってグループ分けしているのですが、いちばんちっこいのが「ビーバー」って呼ばれていて、これまたとてつもなく可愛い。

「坊主めくり」で大盛り上がり、「おかしつかみ」でやんやの歓声。

可愛くて可愛くて、胸が一杯になって涙があふれそうになったから、一緒に連れて行った子供に「おじちゃんごようじで先に帰るね」と言ってその場を離れ、おかーさんにも挨拶して車に飛び乗り、ずっと我慢していた涙を、信号を3つ行った所の公園に止めて、はらはらと感動の涙を流しました。

大人たちが一生懸命子供たちと真正面から向き合い、余計な手出しをせず、じっと子供の自立を願って活動する「ボーイスカウト」に感動しました。

どうか皆さんもお近くの知的障害者、身体障害者の活動に参加してください。
忘れかけていた「何か」を見つけることが出来るでしょう。

山田 六郎伝ー4

2008-01-12 15:19:28 | Weblog
昭和22年、山田六郎氏42歳。
この年山田六郎氏「兵庫県議会 県会議員」になる。

婦人服も戦争でどもならん時、山田六郎氏は県議会委員になっていた。

心斎橋では商売を始める家が増え
道頓堀にもボツボツ家が建ちだした。

しかし山田六郎氏の土地だけは相変わらずほったらかしだった。

ある日巡査がやってきて
「何でもいいから商売してくれはりませんか?」
山田六郎氏の土地はうっそうと草が生え
すりやら泥棒の格好の逃げ場になっていたから・・・

ほったらかしにしていたのは、忙しいだけやなく
建物が15坪しか建ててはいけないという制度があったから。

100坪に15坪の建物ではどもならん
商務省に相談したら

「15坪の家を、4つ5つくっつけて建てればよろしい」
これで規則に背反しないと言う

で、何の商売されますか?
「食いもんやでんね」

古今東西の書物を読み漁り
「食いだおれ」に決めるも、賛成してくれる者がいなかった

倒産しそうやな
食中毒みたいや

でも嫁さんはこういった
何百年の間、くいだおれの名前は誰も付けませんでした
この屋号はわたしたちの為にとってあったようなものやおまへんか

「大阪名物 くいだおれ」がここにはじまった。

突然ですが

2008-01-11 18:13:06 | Weblog
来週月曜日から水曜日まで臨時休業いたします。
14,15,16日です。

ボクはお休みの間、沖縄に遊びに行って来ます。
奥さんと一緒です。

話は変わりますが、武庫之荘に午前5時まで営業する居酒屋が今日オープン致しました。

オープンセールが終わったら行ってみようと思います。

山田 六郎伝ー3

2008-01-10 15:04:54 | Weblog
「あっぱーぱー」は当たりに当たり、山田六郎氏の店は大きくなっていった。
はじめは4,5人ではじめて、
スグに10人を超えた。

はじめは上本町の2階建てで始まった店も
3年経って、松屋町の3階建てに引っ越した。

従業員の数も増えに増え続けて、
3階建てでも寝るところがなくなった。

これではどもならんと
布施に、いまはPL教になったひとの道教団の差し押さえられた
大きな土地の話に飛びついた。
800坪の土地に、200坪の工場が建っていたものを買った。

山田六郎氏工場の2階をかたずけて、
ミシンを200台すえつけた。

順調だった婦人服の製造販売も、物資が不足してきた。

戦争もますます激しくなり
白米は玄米になり、玄米はイモになった。
スプーンが竹になり、鍋が陶器になった。
世の中代用品の時代となった。



ある日神戸の岡田文太郎さんがやってきて
ラシャが売れ残ってどもならん。
どうにかならんもんやろか。

ラシャとはビリヤード台の上に引いている布のこと
山田六郎氏引き取ったが
うんざりするほどの量だった。

ちょうどそのとき、
国が新しい洋服を募集していた。
布地が無駄にならなくて、礼服にも軍服にもつかえるような、
そんな外出着を募集していた。

山田六郎氏、岡田文太郎さんのラシャで試作品を作ってみた。
応募してみたら、入選した。

この新しい洋服は「国民服」と名づけられた。
山田六郎氏の店は、
陸軍海軍のさいしょの指定業者になった。
山田六郎氏の店は更に活況になった

昭和19年春、空襲が始まり、疎開がはじまるので
香住にミシンを移し、布施の工場は解散した。

山田 六郎伝ー2

2008-01-09 15:38:02 | Weblog
山田六郎、明治38年生まれで、但馬の香住。家は代々村名主。
六男坊だから、六郎。

但馬の名主の家では、長男以外は養子に出た。
六郎も教師になるはずだった。

親戚に神戸で一,二を争う岡田羅紗店の岡田文太郎のように
かわうそのチョッキに、金時計、金の鎖。一番上等のソフト帽をかぶり
金貸しと下宿屋もやってるのを見て

山田六郎、教師なんかつまらん。
わしは商売をして、金儲けがしたいと思った。

神戸の商業学校を出て
父親に報告した。

わしはヤッパリ養子には行きませぬ
教師にもなりませぬ
わしは大阪に出て商人になります。

父親は何も反対せず
大阪にでる前の晩、息子たちを一同に集めて
宴会のお膳を並べて、こう言った。

六郎を今日限りで勘当する。
六郎も驚いたが、皆も驚いた。

今日限り親でもなければ子供でもない。
六郎は明日からは独立して、
自分の進む道を、自分の責任において開拓せよ。
人間いたるところに青山あり、活躍の場は広い。
たとえ六郎が無心を言ってきてもやってはならぬ。
与えるものがあったら勘当する。

そして餞別に30円貰って、
山田六郎氏は大阪に出発した。
大阪、滝本合名会社に丁稚に入る。
月給3円50銭。大正が終わるころだった。


大阪の商家では
丁稚や番頭は本名で呼ばれません
丁稚に入ると、旦那さんが適当な一字を決めて
その下に「吉」の字を入れて、なに吉どん、と呼ばれた。
かぞえで二十一になると、なに吉さん、に出世する。
番頭になると「吉」から「七」、なに七さんになる。

山田六郎氏、岡田文太郎さんからの紹介なので
「文」の字を取って、商業学校をでていたから
吉の変わりに「造」の字がついた。

山田六郎文造の誕生である。

滝本は洋服屋
最初に洋服を着だしたのは「軍人」さん
次に「役人」そして「会社員」
女の人はまだ着物を着ていた。

それが昭和7年「白木屋」で大きな火事があって
すそをからげるのが恥かしいと
沢山の女の人がなくなったことをきっかけに
女の人にも洋服が広まった。

そのころヨーロッパでは戦争の影響で服地が不足してたのと
女の人も工場にかりだされたので
窮屈なコルセットもなくなり
スカートの長さも短くなり、洗剤も不足してきたから
女の人の髪型も短くなった。

一気に洋服ブームが来るとみんなが予想した
予想したけど、どうしてつくったらええのんかわからん。

山田六郎氏、滝本で文七までなって、商売を自分のもんにして独立
最初に手がけたのが
婦人服の販売だった。

どうしてつくったらええのんかわからん洋服、しかも婦人服。
山田六郎氏考えた
そして世にでたのが「ワンピース」を考案した。
これは大当たり

すぐに「アッというまに着れて」、「スカートがパッと広がる」
そうこれがあの「アッパッパー」という
いまにしたらだぶだぶのワンピースを
山田六郎氏が考案した。
またたくまに日本中に広がった。大当たりである。


山田六郎氏、ひとつ目の大当たりである。

山田 六郎伝

2008-01-08 15:24:12 | Weblog
尊敬してやまない 山田 六郎氏。
この名前だけで誰か解る人は居ないだろうと思います。
ボクも知らなかったから・・・・



昔は五座(ござ)というてな。
道頓堀は芝居の本場やったンや。
後年の、山田六郎氏の口癖だった。

なにわ座、べんてん座、なか座、角座、あさひ座とな、
おおきな小屋がいつつ、あったのや。
それがめいめいに高いやぐらをたててな、
太鼓たたいて客寄せを競うとったのや。

道頓堀はながいことな、
にっぽん一の芝居町やったんやで。




道頓というお人がつくったから、
道頓堀という。
江戸時代がはじまった年だった。
大阪冬の陣、あけて元和元年。
お城の堀が埋められたところに、
道頓堀が完成した。

船場の町ができたのは秀吉の仕業だった。
お城のまわりの町屋をつぶして、
河の中のよし島に引越しさせた。
堺の商人も、伏見の商人も
みんなこのよし島によんで町をつくらせた。

よし島は舟場といった。
お城の向かいの舟だまりだった。

町ができると、舟場は船場になり、
船場の南の水路が道頓堀になった。

道頓堀繁栄策というてな、
芝居小屋が船場から道頓堀に移されたんや。

なんでやいうたらな、そのころはな、
道頓堀の南側にあったんは
墓場と刑場や。
田んぼにもならん、畑にもならん、
墓場にしかならんような所が
道頓堀のこっち側の土地やったンや。

芝居小屋が道頓堀に移されて
天下泰平になると
大衆は娯楽を求めた。

道頓堀は昼となく夜となく
歌舞音曲の音がたえることがなくなった。

人がようけあつまるとな、
つぎは食いもん商売や。
夜店の屋台のようなもんからはじまるのんや。
道頓堀は食いもんの町になったんや。

朝田さんが土地を買わんかと言うた時
戦争あとの焼け野原
人の背の高さほどの草が一面に生えて
その中から追いはぎがでていた

戎橋の上からはお城の天守閣が見えてた。
昼日中でも歩くのが恐ろしい所やった。

どこかというと、
浪花座と中座の間
表から裏通りまで抜けた土地
間口3間半、奥行き30間
しめて111坪。

山田六郎氏父親に相談します。
父曰く
道頓堀ならうどん屋でもやっていける
山田六郎氏買いました。

そうそれが
「くいだおれ」です。

山田六郎氏は食いだおれを創業しはった人なんです。
山田六郎氏の波乱万丈の半生をこれから皆さんと見ていこうと思います。


大好きで、尊敬してやまない山田六郎氏を紹介できることに喜びを抑えることが出来ません。

まずはプロローグでした。

あら?ってなんやねん

2008-01-07 16:04:46 | Weblog
業者が5日まで休みなので、仕入れであちこち行かなければなりません。
業務スーパーも休み、スーパーも市場も休み。

仕方がないので大手全国チェーンのはしご・・・・・

自転車置き場に自転車を止めようとしたら、おばさんが何の躊躇もなく自転車をバック、イキナリむこうずねの激痛が走った。

「あった~~~~~!」
「痛った~~~~~~!」

それを聞いた、おばさん。
「あらっ?」

「あらっ?」やないやろう・・・・・

「あらっ?」より先に言うことがあるやろう?

その次に言うた言葉が
「よいしょ。」

走り去って行ったわイナぁー

ええ?まだ世間さんは酒飲んでええ調子でコタツでテレビ見てるンやで?
そやのにこの寒い中
「あらっ?」ですか・・・・・・

「あらっ?」ですのん?

そんで、「よいしょ。」ですか?

あほらしいて仕事する気も失せましたわ・・・・・

「おめでとうさんでぇー」
何がめでたいねん、オレはイキナリ労災やんけ・・・

「いいお正月ですか?」
ええわけないやんけ!むこうずね、ぷっくーやど・・・・

せっかく元旦に、ヘルメス様に御参りに行って、今年大発展間違いなしのものゴッツイ光をもろて来たのに、いきなり「あらっ?」ですわ。

しかしどんな艱難辛苦がおとずれようと、しっかり腰を入れて今年も前に進みます!



おのれ~~~~「あらっ?」のおばはんめーーーー覚え取れよ~~~~!!

明けましておめでとうございます。

2008-01-04 15:04:03 | Weblog
昨日から新年の営業を開始しております。
今年は初詣に行って、すごいパワーを貰ってきましたのでパワフルな1年になりそうです。

不景気も7年続き、いよいよ本来の大黒屋の大発展が訪れようとしております。

皆様におかれましてもこのボクの幸運を受け取ってもらえますよう、機会を見つけてお越しください。

さて大好評いただいております大黒鍋、寒い間にご予約くださいねー。
ほんとに美味しくお値打ちある大黒鍋・・・・・・・美味しいですよー!