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異文化

2007年06月25日 | 歴史
群れの中から若くて健康的な牛を一頭引き出す。その牛から生血を採る。それに牛乳を混ぜて、回し飲みする。
伝統的な生活をするマサイの人たちは、野菜や穀物を一切口にしない。食べるのは肉、乳、血だけだ。
それでも、脚気や壊血症のようなビタミン欠乏症にならないのは、牛が草を食べて採ったビタミンを生血から摂取しているからだ。
マサイが住むサバンナでは、雨が年間300ミリ程度しか降らない。そんな土地で農耕に依存したら、たちまち旱魃に悩まされなければならない。そのため、彼らは「土から生まれるものは不浄だ」という教えで農葉を遠ざけ、遊牧の生活に依拠しているのではないかーーー。
牛の生血を飲むのは、野蛮で未開だからではない。そうしなければ、生きていけない環境に住む人々の生活の知恵だった。

サバンナと逆に、ガボンは熱帯雨林帯にあり、年間降雨量が5000ミリに達する。巨大な樹木がびっしり密生して、農業をしたり、牛や羊を飼うような拓けた土地を確保できない。
人々は生きていくため、密林の中でたんぱく質を手に入れなければならない。密林のたんぱく質-それが今度は「猿を食べる」ことだった。
牛肉や魚肉から充分にたんぱく質を得られる人々が、自分たちの生活を基準に、そういうものが手に入らない人々の食習慣を非難するのは、不遜というものだろう。

一方、「食べない」文化もある。イスラム圏の豚肉だ。
牛や羊、ヤギ、ラクダなどの反芻する動物は、草を食べて消化する能力がある。人間は草を消化できないから草を食べない。従って、牛と人間が食物をめぐって競合することはない。
しかし、反芻しない豚は草を食べることができず、穀物を食べる。従って、人間と競合する。
ユダヤ教やイスラム教が生まれた土地は砂漠の荒地だ。苦労して作ったわずかな穀物を、豚に取られてはたまらない。
権力者や金持は庶民から穀物を奪ってでも豚を育てようとするかもしれない。それを防ぐために「豚を食べてはいけない」と教えたのではないか---。

食文化というのは、暑さ寒さや雨の量、地形風土、その他もろもろの環境の影響を受けながら長年かかってその地域で形成されてきたものだ。未開とか野蛮とかいうレベルではないのである。


豊かな自然があるところでは、農耕が盛んになる。そうした生活はさまざまな神を生み出す。田の神、山の神、川の神、森の神・・・。生活を支えているあらゆる恵みに感謝するのは当然で、そうした環境から多神教が生まれる。従って、多神教と農業は密接に関係している。

一方、自然環境が厳しい砂漠の地方では、遊牧や通商がなりわいになる。そこでは一歩間違えると死が待っている。それが「最後の審判」の思想を生み出した。人々を裁く絶対的な存在。一神教の誕生だ。

遊牧や通商の社会は移動が基本となる。隣人と対立したら、牛を連れて別の土地に行ってしまうことができる。商人なら商品をまとめて店を移ればいい。自分が正しくて相手が間違っていることを大声で主張できる社会だ。そこでは、自己主張の文化が生まれる。

しかし、農耕社会ではそうはいかない。田んぼや畑は持ち運びができないからだ。隣人が気に食わなくてもじっと我慢して対立を避けなければならない。「根回し」とか「なあなあ」という妥協と協調の文化は農耕社会から生まれた。

この50年ほどで、日本では農業を中心とした生活が崩れている。ほとんどがサラリーマンになったためだ。会社をくびにさえならなければ食う心配は無い。共同体など関係なくなった。
そのため「根回し」「恥」とか「いたわり」とかの農耕共同体の価値観は次第に意味を持たなくなってきた。
弥生時代から二千数百年にわたって続いてきた価値観がいま崩壊しようとしている。
そして、次の価値観がまだ出来上がっていないそれが私たちのいる時代だ。
「図書」1999年:渡辺保著




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3 コメント

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もわ~ん。 (はにゃ)
2007-06-27 11:25:40
妄想と思って聞いてもらえればいいんですが
農耕共同体の価値観は崩壊しかかっている、
もしくはすでに崩壊している、
ということについては僕も頷けるものを感じています。
しかし次の価値観が出来上がっていないというのは
なにかしら違うような気がしています。
もちろんある種の時代の流れを想定した時、
自分たちの居る時代が分岐点なのではないか?
という焦りや不安はあると思うんです。
そういう不安や戸惑い、悩みに対してうまく答えを出せない感覚、
そういうものは多くの人が持っているのだと思います。

けれど価値が喪失していく時代や
混迷の中にあっても、決して失われない価値もあります。
もちろん金銭価値のように数値化できる価値であるとは限らないのですけど。
【数】を連続性としてとらえ、
連続性の中にあるさまざまな数値を要素として取り出し、
その個々の数が次々と割り切れていくなかで、
素数が割りきれずに残されるように
混迷する価値観の中に、決して消えない価値というのがあると思います。

そうしたものは出来上がっていないのではなくて、
とても見分けにくい、見つけにくいものだと思うのです。

そしてまた、僕らは共同体の中で生活しているのか?
ということ自体に対する疑問もあります。
集団としての結束力が大事な場面では、
共同体価値観のようなものが目に映りこむのだと思いますが、
価値観というのはそもそも違いを含んでいる想定の中にあるものであって、
本質的に共同であるとき、
「全は個、個は全、全は然」
のような同一を想定する場合、

人類の中にあろうが、社会の中にあろうが、
一個人の身体の中にあろうが、家族の中にあろうが、
細胞の内にあろうが、臓器の内にあろうが、
核の中にあろうが、

自己同一性、それ自体によって、価値観というのは
とても孤独なものだと思うのです。

それゆえに、文化の違いによる文化批判は不遜であるという
そのことよりも前に、文化というのは文化を再発見すると思うのです。

例えば農耕民族と狩猟民族の混血はすでにたくさん生まれていて、
それぞれの人がそれぞれに独立したシステムの中に投げ込まれて生きています。
若い世代の子供たちは絵文字やalphabetやカタカナを駆使して
自分を表現しようとします。

もうすでに、価値観というのはそこにあって、
そして認められたり認められなかったりしていると思うのです。


ところで話はガラっと変わって

>そんな土地で農耕に依存したらもたちまち旱魃に悩まされなければならない。
の一文の中に「も」という文字が混ざっているのは何故でしょうか?
したらもはや…うんぬん…
と続く文章を修正したことによるものでしょうか?
誤字だとは思うんですが、何故”も”が混じっているのか
とても気になります。(^^;
(はにゃ)さん へ (iina)
2007-06-27 22:37:05
長いコメントをありがとうございました。
(はにゃ)さんは、般若のローマ字から命名ですか?
異文化の発生には、異なる角度からとらえると特異性が目立つが、
それ事態は必然であるが趣旨です。
価値観も定まることは決してないように感じます。
あるとすれば、
相応な歴史を辿った後で振り返ったときに、そのように思えること
もあるかも知れません。
ラストの「も」は、「、」の積りがキーボードの隣「も」を打った誤字
でした。失礼しました。
原文は、「そんな土地で農耕に依存する生活を始めたら最後、たちまち
干ばつに悩まされることになる。」
(はにゃ)さんは深読みでしたが、(はにゃ)さんのブログも難しかったです。
なるほど~。 (はにゃ)
2007-06-28 00:42:40
般若からではないですよ~。
とある埴輪キャラの「はにゃ~?」という疑問系の口癖が
元のような、そうでないような…(笑)

今日偶然ニュースで見たんですが
3500年くらい前のミイラで
女性ファラオが確認されたらしいですね~。

歴史についてはあまり関心が無くて
詳しいことはわからないんですが
ピラミッドはなんだか不思議がいっぱいですー。

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