「この国のかたち」司馬遼太郎を要約した。
【日本の宗教】
神道という言葉は仏教が入って来てから、この国の精神習俗に対して名づけられた。
鎮護国家の仏教を受容した奈良朝のころ、僧たちは神々にありがたい経を聞かせて救おうとした。仏は上、神は下だった。
当時、僧のほとんどは民の救済など考えていずそういう理論体系もなかった。後の鎌倉仏教のような信仰というものは思想としてないに等しかった。
ところが、新たな首都で興った平安仏教は違っていた。貴族のために加持祈祷はするが俗権に入り込むようなことはしなかった。
文明の中心地から遠く離れていた島国日本。強大な宗教が伝来するのが遅れ、多くの神々を敬う多様で柔軟な考え方が守られつづけた。そして生まれた神仏習合。一見無節操にも思えるこの何事にもとらわれない発想こそ、日本人ならではの柔軟な考え方があらわれている。無節操という節操が日本人の底の底にあるのではないか。
【武士】
天皇家の経済が小さくなったため、嵯峨天皇の814年から皇子を臣籍に下して独立させた。
そのうち武士として成功してゆくのが清和源氏だつた。それに平家、摂関家藤原家を加え、更に奈良時代に成立した橘家を加えた四姓とされたが、縁のない者までひとり残らず皇胤を称するに至る。こういう流れを通して「天皇制」というものが庶民武士たちの中にこまかい根を張るにいたる。
律令制で農地はみな公地だったが、開墾して墾田をつくれば私有が認められたので、むらがり集まってきた。
一所懸命に開拓した豪族が、貴族・社寺に墾田を寄進することで「特例の私有」を合法化し、自分は影にまわって経済権だけを握った。武士の発生である。
鎌倉時代、武士たちは潔さを愛し、そのことに己の一身を賭けた。常に名を汚すまいと考え、「名こそ惜しけれ」という言葉をもって倫理的気分の基本においた。
織田信長は、中世の呼称で総合される諸慣習を打ち壊した。彼の領土が広がるにつけ、彼が目指す市場経済(楽市楽座)も広がった。
また、農業経済においては、信長は中間の搾取を排し、総ての農民を自作農にし、その個々から直接租税を取り立てたいと考えた。
信長がやった版図拡大というのは、国人・地侍たちの利権を奪うことだった。それは、秀吉に継承され実現した。
【日本文化】
足利義政は、銀閣寺に風流三昧の暮らしをつづけたことが、日本の文化の基になった。
「日本建築」は、この書院造りから出る。板の間に畳を敷き床の間を置き、掛軸などを掛け、明り障子で外光を採り入れ、襖で各室を区切った。
華道や茶道に、能狂言、謡曲や、日本流の行儀作法や婚礼の作法も室町幕府が定めた武家礼式が原典にの時代から起こった。
応仁の乱以後は、無数の豪族による割拠が常態化し混乱した。そんな混迷が文化の統一をまねいた。室町の世は後世への大きな光体であった。
【日本人の好奇心】
砂鉄精錬は樹木を食うが、日本列島はモンスーン地帯にあるために山々が水を含んだスポンジのようで、森林の再生力が保たれた。
鉄が安価になったため、使いいいように多様な道具が作られた。その道具の多様さに触発されて、好奇心も誘発されたかと思える。
鉄砲伝来とともに、鉄砲を分解して日本人自身で作り上げ、戦法に活用された。黒船を見て造ったのもアジアでは日本だけだった。
維新時の日本は、西洋文明を進めるため東京大学を配電盤にした。電流の役目を大臣級の高給で招いた「御雇外国人」が果たした。
【幕末から維新】
明治初年、明治新政府は一兵も直轄兵をもってなかった。世界史上、軍隊のない革命政権はこの時期の明治政府だけだった。
新政府は大名の版籍を奉還させ、一斉に東京への移住を命じた。革命的な措置といえる。もし反乱が起これば旧藩主が担がれるのを防いだ。
大名華族になる旧藩主たちは責任が軽くなって大喜びしたといわれる。財政はどの藩も逼迫していたのに、東京居住を命じられると、毎年旧石高に比例した「永世録」が下された。いわば手取りの収入で、大名個人が金持ちになった。次に、士族を名実ともに無くしたのが明治4年の「廃藩置県」だった。
江戸時代を通じて大名は何代も替わる交代があって、お城は官舎のようだった。大名は転封されたときは所有権は消滅している。そういう繰り返しのために城地というのは天下のものという思想が出来た。
豊臣時代以来、大名がもちその家来たちが執行したのは領内の支配権という、いわば義務だけだったというのは、日本的な公意識の一源流と考えていい。
【日本の敗戦】
日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦までの40年間は日本らしくない。
この戦争を境に、日本人は自家製で身に着けたリアリズムを失ってしまったのではないか。
ロシアは譲歩は必要ない、もう一遍やるぞ、力はあるぞと脅す。結局、樺太をもらうことで折り合った。
ところが、戦勝の報道で国民の頭がおかしくなった。賠償金を取らなかったと反発して、日比谷公園に集まり暴徒化した。
日露戦争の終末期、日本は紙一重で負けるという手の内を国民に明かさなかった。明かせばロシアを利すると考えたか。
昭和になって、軍備上の根底的な弱点を押し隠して、返って軍部を中心にファナティシズムをはびこらせた。不正直は国を滅ぼすほどの力があった。
名を汚すような恥ずかしいことをするなという「名こそ惜しけれ」の武士の精神は、日本人に強い影響をあたえ、いまも一部の日本人の「公意識」の中で生きている。「名こそ惜しけれ」とさえ思えば、キリスト教的な倫理体系にこのひとことで対抗できる。
【日本の宗教】
神道という言葉は仏教が入って来てから、この国の精神習俗に対して名づけられた。
鎮護国家の仏教を受容した奈良朝のころ、僧たちは神々にありがたい経を聞かせて救おうとした。仏は上、神は下だった。
当時、僧のほとんどは民の救済など考えていずそういう理論体系もなかった。後の鎌倉仏教のような信仰というものは思想としてないに等しかった。
ところが、新たな首都で興った平安仏教は違っていた。貴族のために加持祈祷はするが俗権に入り込むようなことはしなかった。
文明の中心地から遠く離れていた島国日本。強大な宗教が伝来するのが遅れ、多くの神々を敬う多様で柔軟な考え方が守られつづけた。そして生まれた神仏習合。一見無節操にも思えるこの何事にもとらわれない発想こそ、日本人ならではの柔軟な考え方があらわれている。無節操という節操が日本人の底の底にあるのではないか。
【武士】
天皇家の経済が小さくなったため、嵯峨天皇の814年から皇子を臣籍に下して独立させた。
そのうち武士として成功してゆくのが清和源氏だつた。それに平家、摂関家藤原家を加え、更に奈良時代に成立した橘家を加えた四姓とされたが、縁のない者までひとり残らず皇胤を称するに至る。こういう流れを通して「天皇制」というものが庶民武士たちの中にこまかい根を張るにいたる。
律令制で農地はみな公地だったが、開墾して墾田をつくれば私有が認められたので、むらがり集まってきた。
一所懸命に開拓した豪族が、貴族・社寺に墾田を寄進することで「特例の私有」を合法化し、自分は影にまわって経済権だけを握った。武士の発生である。
鎌倉時代、武士たちは潔さを愛し、そのことに己の一身を賭けた。常に名を汚すまいと考え、「名こそ惜しけれ」という言葉をもって倫理的気分の基本においた。
織田信長は、中世の呼称で総合される諸慣習を打ち壊した。彼の領土が広がるにつけ、彼が目指す市場経済(楽市楽座)も広がった。
また、農業経済においては、信長は中間の搾取を排し、総ての農民を自作農にし、その個々から直接租税を取り立てたいと考えた。
信長がやった版図拡大というのは、国人・地侍たちの利権を奪うことだった。それは、秀吉に継承され実現した。
【日本文化】
足利義政は、銀閣寺に風流三昧の暮らしをつづけたことが、日本の文化の基になった。
「日本建築」は、この書院造りから出る。板の間に畳を敷き床の間を置き、掛軸などを掛け、明り障子で外光を採り入れ、襖で各室を区切った。
華道や茶道に、能狂言、謡曲や、日本流の行儀作法や婚礼の作法も室町幕府が定めた武家礼式が原典にの時代から起こった。
応仁の乱以後は、無数の豪族による割拠が常態化し混乱した。そんな混迷が文化の統一をまねいた。室町の世は後世への大きな光体であった。
【日本人の好奇心】
砂鉄精錬は樹木を食うが、日本列島はモンスーン地帯にあるために山々が水を含んだスポンジのようで、森林の再生力が保たれた。
鉄が安価になったため、使いいいように多様な道具が作られた。その道具の多様さに触発されて、好奇心も誘発されたかと思える。
鉄砲伝来とともに、鉄砲を分解して日本人自身で作り上げ、戦法に活用された。黒船を見て造ったのもアジアでは日本だけだった。
維新時の日本は、西洋文明を進めるため東京大学を配電盤にした。電流の役目を大臣級の高給で招いた「御雇外国人」が果たした。
【幕末から維新】
明治初年、明治新政府は一兵も直轄兵をもってなかった。世界史上、軍隊のない革命政権はこの時期の明治政府だけだった。
新政府は大名の版籍を奉還させ、一斉に東京への移住を命じた。革命的な措置といえる。もし反乱が起これば旧藩主が担がれるのを防いだ。
大名華族になる旧藩主たちは責任が軽くなって大喜びしたといわれる。財政はどの藩も逼迫していたのに、東京居住を命じられると、毎年旧石高に比例した「永世録」が下された。いわば手取りの収入で、大名個人が金持ちになった。次に、士族を名実ともに無くしたのが明治4年の「廃藩置県」だった。
江戸時代を通じて大名は何代も替わる交代があって、お城は官舎のようだった。大名は転封されたときは所有権は消滅している。そういう繰り返しのために城地というのは天下のものという思想が出来た。
豊臣時代以来、大名がもちその家来たちが執行したのは領内の支配権という、いわば義務だけだったというのは、日本的な公意識の一源流と考えていい。
【日本の敗戦】
日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦までの40年間は日本らしくない。
この戦争を境に、日本人は自家製で身に着けたリアリズムを失ってしまったのではないか。
ロシアは譲歩は必要ない、もう一遍やるぞ、力はあるぞと脅す。結局、樺太をもらうことで折り合った。
ところが、戦勝の報道で国民の頭がおかしくなった。賠償金を取らなかったと反発して、日比谷公園に集まり暴徒化した。
日露戦争の終末期、日本は紙一重で負けるという手の内を国民に明かさなかった。明かせばロシアを利すると考えたか。
昭和になって、軍備上の根底的な弱点を押し隠して、返って軍部を中心にファナティシズムをはびこらせた。不正直は国を滅ぼすほどの力があった。
名を汚すような恥ずかしいことをするなという「名こそ惜しけれ」の武士の精神は、日本人に強い影響をあたえ、いまも一部の日本人の「公意識」の中で生きている。「名こそ惜しけれ」とさえ思えば、キリスト教的な倫理体系にこのひとことで対抗できる。
戦いの連続ですね
そんな中で
素晴らしい日本の文化は育まれて九たことに
驚きと感謝です
そして、三寒四温ならず三温四寒のこのごろに、冬に向かっていることを感じます。
ことしの秋を見納めしておきたいです。
きょうの拙宅は、「この国のかたち」司馬遼太郎を先に10篇ほどに分散していた記事を要約しました。
第一弾 ・・・ https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/112067a46fe2ae5569d01689c7ad1230
(延岡の山歩人K)さんの当該ブログ記事のアドレスをコメント上のURLに置きました。
生前司馬遼太郎が奥様と散歩されている姿を何度も見ました。
自宅の近くに職場があったのです。
懐かしいです。
独特の日本観は彼の小説にちりばめられていますね。あたたかいものを感じま^す^
> 時間軸の「今この時」と交わって垂直に延びていくスケールの軸として理解することが出来るのです。(3図)
この3図を見て、拙宅の虚数を連想しました。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/2ef61960a965a4f1e0963670e397041e
ないはずの像を虚数と考えると、見えてきます。
五次元のことも、そんな風に形容できそうな気がしました。
伸び縮みする時間みたいです。「同じ一年を子供には長く感じられ、年寄りには短く思われる。」
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/3ba16634334490f815a856446665e7c3
> 生前司馬遼太郎が奥様と散歩されている姿を何度も見ました。
iinaも平成9年に東大阪市に住んでいましたから、司馬遼太郎が暮らしているのを知っていました。
でも、お会いできなかったです。
(のしてんてん)さんの当該ブログ記事のアドレスをコメント上のURLに置きました。
なぜ日本と西欧だけが繁栄したのかを、単純化して結論を導き、なまなかに面白い解釈でした。
砂漠地帯に文明が発生し、遊牧民は安定せず人民を纏めるために専制国家たらんとし、日本と西欧は封建制度下に近代化が育った。
当方も「この国のかたち」司馬遼太郎を要約して「日本の歩み」をまとめていました。
(原村)さんの当該ブログ記事のアドレスをコメント上のURLに置きました。
司馬遼太郎の要約、分かり易く勉強になりました。
ありがとうございました。
グーグルアースの全景は、ローマ遺跡のようです^^
ここ見下ろす高台に、美空ひばりの石碑があったような・・・❔
「この国のかたち」著:司馬遼太郎は、とても勉強になりました。
神教の神さま的天皇が、仏教を採り入れたのは神教を宗教という意識がなく、新しい文物に興味を抱いただけでした。
読みたくて買い求める書籍が積みあがってのが少し悲しくも有り人生の短さをかんじます。
終わってもいない人生が短いと嘆いても仕方ありませんが。
意味のない時が風邪がそよぐ如くに流れ去るのが悲しいです。
要約を読んで、災害の多い国で有るからこそ、素晴らしい国土を神が与えてくれて、日本の国土を紡いできたことを感じます。
最近特に思う事は、国民性の素晴らしかを特にかんじます。
細かい事では沢山の問題を抱えていますがそれでも良く国であるとおもいます。
素敵なスレッドいつもありがとうございます。
大徳寺には参りましたから、側を歩いているはずですが、惜しくも見逃しています。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/2aeeeae82a97f95c58f221f6f7952adb
「この国のかたち」著:司馬遼太郎は、日本というものをわかりやすく解きほどいてくれています。
どうにも、日本人は匠の技などは得意分野ですが、大所高所から見定めることが不得手な印象を抱きます。