貧者の一灯ブログ3

マイペースの自己満のブログです。
人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…
神戸発信…

特別編・貧者の一灯ブログ

2024-06-12 | 貧者の一灯ブログ




以前小林修さんの講演記事を掲載した。

脳性まひの小林さんは体が思うように動かせない。言語障害
もあり、思っていることがうまく話せない。その悔しさと60
年以上も付き合ってきた。

そんな小林さんが言う。「健康な体をもって生まれたのに、
その体を悪いことに使って自分の人生を台無しにしている
人がいる。

せっかく不自由ない体で生まれてきたのだから立派に生きて
ほしい」と。健康な人ほど軽く受け流してしまいがちな言葉
だ。

確かに体の一つひとつの機能をどううまく使おうかなど普段
はあまり考えない。

小林さんは幼い頃に受けた機能訓練のおかげで生活自立がで
きるようになり、結婚もし、子どもにも恵まれた。

それも「この体で生きていく」という若き日の決意があった
からだろう。・・・  


元中学教師の腰塚勇人さんは、ある日突然体の機能を失った。

スキーをしていた時の事故で首の骨を折った。2002年3月、
36歳の時だった。  

集中治療室で目が覚めた時、待っていたのは手足が全く動か
ない現実だった。

「人生、終わった」と思った。

教壇では「命の尊さ」を生徒に訴えてきたのに、その時の
正直な気持ちは「死にたい」だった。  

食事も風呂も排泄も看護師の介助なしにはできなくなった。
その屈辱の日々は耐えがたく、毎日死ぬことばかり考えた。  

ある日、優しく声を掛けてきた若い看護師に「おまえに俺の
気持ちが分かるか。偉そうなこと言うな」と口には出さなか
ったが、そんな気持ちでにらみつけた。  

その気持ちが伝わったのか、看護師は「私、今、腰塚さんの
気持ちを考えず言ってしまいました。 ごめんなさい。

でも本気で元気になってもらいたいんです。お願いですから
お手伝いさせてください」、そう言って泣きながら病室を出
ていった。  

その夜、腰塚さんは何時間も泣いた。

「ここに俺の気持ちを分かろうとしてくれている人がいる」と。
 

4月を前に学校側は腰塚さんを3年1組の担任にした。「ふざ
けるな。俺は寝たきりだぞ」と言ったが、見舞いに来た学年主
任の先生は、「戻ってくるまで私が代わりに担任をします。

卒業式では必ず腰塚先生が卒業生の名前を呼んでください」と
言った。  

リハビリで24歳の理学療法士から「腰塚さんの夢は何ですか?」
と聞かれた時も、「ふざけるな。こんな体で夢なんか持てるか」
と思ったが、リハビリの度に聞かれるので、半ばふて腐れて「夢
はもう一度教壇に立つこと」と言った。そして「絶対無理だと思
うけど」と付け加えた。  

リハビリは過酷を極めた。

何回やっても動かない手足。諦めそうになる度に3年1組の生徒
の顔が浮かんだ。「待ってろよ!」と、また奮起した。  

「それまでは『できない理由』ばかり言ってきた。でもあの時、
彼らの存在は『諦めない理由』になった」と当時を振り返る腰塚
さん。

そして事故から4か月後、杖をつきながらではあったが、腰塚さ
んは本当に教壇に戻ってきた。  

昨年12月、宮崎市立赤江中学校で開催された創立70周年記念講演
会に腰塚さんが登壇した。

講演会の後、「70周年記念に石碑を建て、腰塚さんのメッセージ
を刻もう」という話になった。

「坂村真民先生の『念ずれば花開く』という石碑は全国にあるけど、
腰塚さんの石碑はまだどこにもない。ここを第1号にしよう」と
盛り上がった。  

先月、除幕式があり、腰塚さんも駆けつけた。正門近くに建てられ
た石碑には彼のメッセージ「五つの誓い」が刻まれていた。  









晴れの日もあれば、嵐の日もある。それが私たちの人生です。

そういう人生を歩む中で、幸せを掴むにはどうしたらよいの
でしょうか。

すべてが思いどおりに計らわれることを望みながらも、様々
な厳しい状況が襲ってくるのが人生です。

ここで大事なのは、人生の苦難はそれを受け入れてこそ離れ
ることができるし、苦難を受け入れた時、通常では見つめら
れない深い幸せが存在していることに気づけるということです。

随分前ですが、私の講演会でのことです。

一人の女性が私の話を聞きながら、ハンカチを使おうともせ
ずに涙を流し続けている様子が目に留まりました。

「きっと思い当たることでもあるのだろう」とは思っていま
したが、講演が終わり、受講者からの質問の場面になった時、
彼女が手を挙げてこう話し始めたのです。

「私の体の中は洞窟と一緒なのです。

これまで8回手術をして、こんな空っぽの体で、どうして生
きているのかお医者様も不思議でたまらないと言われています。

それなのになぜ、私がこうして元気で生きられるかと申します
と、実は私には知的障碍の20歳の息子がいるからなんです」

彼女はその子が生まれて間もなくご主人と離婚。彼女を必要と
している息子さんのために、今日まで手術を重ねながら死に物
狂いで働いてきたのでした。

勤めを終えて家に帰った彼女を、息子さんはまるで子供のよう
に手足をバタバタさせて喜んで出迎えてくれたといいます。

喜びを満面にした顔を見る度に日々の苦労が吹っ飛ぶというの
です。

「この子を残しては死ねない」

その思いこそが彼女を突き動かし、生かす原動力でした。
幸・不幸というものは客観的に計り知ることはできない。

苦しみの極みを積極的に受け止めて生きていく時、苦しみは
生きる深い喜びをもたらしてくれる、と話しました。

彼女はその話を聞いて、知的障碍の息子を持つ、ボロボロの
体の自分でも、我が子の顔を見て幸せを感じ取ることができ
ることに気づき、これまで味わったことのない深い感動が込
み上げてきたそうです。

息子さんは生まれた時、3年生きればいいと宣告されました。

20歳の誕生日に赤飯を炊いて、ささやかながらお祝いをした
時、息子さんは彼女の顔を見ながら「おかあさん、ありがとう」
と伝えました。

その言葉は単なるお礼ではなく、彼女にはまるで、自分を成人
になる今日まで育ててくれたことへの深い感謝の思いのように
感じられてならなかったといいます。

講演からしばらくして、私のもとに彼女から一通の手紙が届き
ました。

息子さんが亡くなったことを知らせる文面でした。

ところが、そこには悲壮感のようなものは全くありませんでした。
「私は幸せなことに、こうしてまだ生かされております。あの子
の笑顔が、しあわせに生きてゆくようにと呼びかけているのです」

苦しさを受け入れた時、初めて出てくる輝きと幸福感がそこには
ありました。 …










一考編・貧者の一灯ブログ

2024-06-11 | 貧者の一灯ブログ








不登校の子どもたちは、「誰も自分の本当の気持ちをわかって
くれない」と思い続けています。周りがみんな敵に見えること
もあるでしょう。





達也君(仮名)は、両親、弟との4人家族です。

幼児期は折り紙が大好きで、いつも一人で折っていました。
掃除機や換気扇の大きな音が苦手で、耳をふさぐことがあ
りました。

小学校入学後は、なかなか友だちができず、休み時間はい
つも一人で本を読んでいました。融通がきかず、相手と折
り合いをつけることが苦手でした。  

中学校時代もほとんど友だちができませんでした。自宅では
「フォートナイト」というオンラインゲームに夢中でした。

学校の成績は優秀だったので、高校は地元の進学校に入学し
ました。  

この高校では毎日のように大量の宿題が出ましたが、達也君
は、それを期限までにやり終えることがほとんどできません
でした。

計画的に宿題をこなすことができず、とうとう提出しなくな
りました。そのため、成績は下がる一方でした。

そして、高校でもなかなか友だちを作ることができません。

高校1年の夏休み明けからは学校を休みだし、その年の10月、
お母さんと一緒に思春期外来を受診しました。





診察室の達也君はとても緊張し、主治医からの質問にも
「はい」「いいえ」としか答えてくれませんでした。

自宅ではフォートナイトに没頭し、昼夜逆転の生活を送っ
ています。  

同伴したお母さんは、「せっかく進学校に入学したのに、
不登校になってしまい残念でしかたありません。

このままでは人生の落ちこぼれになってしまいます。だか
ら私は毎朝、達也を必死になって起こそうとしました。で
も、達也はベッドから出てこようとはしません。

夫は『好きなようにさせておけ』と言うだけです。私は、
何とかして登校させようと思います」と、時折涙ぐみな
がら話をしてくれました。  

不登校ということで、主治医は、2週間に1度の割合で
通院してもらうことにしました。

達也君には多少、発達の偏りがあるかもしれないことを頭
に置きながら面接をしていくことにしました。  

通院を始めて1か月がたちましたが、不登校は続いています。
診察室で達也君は、「僕には味方が一人もいないんです。

学校ではいつも一人っきりで、それがつらくて学校を休む
ようになりました。でも、家ではお母さんが、毎日のよう
に『学校に行け』とうるさく言う。

弟も登校できない僕をバカにしてくる。誰も僕のことをわ
かってくれない」と言って、涙を流しました。





ところが、その1か月後から、達也君は登校を続けるよう
になりました。

たまたま登校した日、副担任の先生から「昼休みに一緒に
お弁当を食べよう」と誘われたのをきっかけに、生徒相談
室でこの先生と過ごすようになったのです。

お弁当を食べながら、達也君は、オンラインゲームの話を
副担任の先生にしています。副担任の先生はゲームのこと
は全くわからず、話についていけませんでした。

達也君は、ゲームの基本的なことから、一つ一つ先生に教
えてあげました。  

副担任の先生とのお弁当が始まってから、達也君は学校を
休むことがなくなりました。でも、教室では依然として孤
立していました。  

副担任の先生は、達也君に対する自分の関わりがこのまま
でよいか不安となり、本人とお母さんの承諾を得て、主治
医のところに相談に訪れました。

主治医からは、「達也君は、先生という味方を初めて見つ
けることができました。先生も大変かもしれませんが、こ
のまま一緒のお弁当を続けてください」と話しました。





副担任の先生とのお弁当は、その後も続きました。

学年が上がって副担任ではなくなりましたが、この先生は
卒業までお弁当に付き合ってくれました。  

達也君は無事に卒業式を迎え、専門学校に進学しました。

卒業後の診察時に、高校時代の一番の思い出を聞いたところ、  
「先生とお弁当を食べた時間が、一番楽しい思い出です。

先生はゲームのことを知らないのに、僕の話に付き合って
くれていました。親や弟でも自分の話を聞いてくれなかっ
たのに、先生はいつも真剣に聞いてくれました。

副担任の先生と一緒にいるうちに、なんだか元気が湧いて
きて、がんばろうという気持ちになったんです」と話しま
した。





私たち大人は、思春期の子どもたちを、どうしても「自分
より未熟な存在」として見てしまい、対等な関係を作るこ
とが難しくなります。

不登校の子どもであれば、なおさらそういう見方をしてし
まいがちです。

その結果、大人は、子どもたちに「世の中の当たり前」を
押しつけることになります。

「できないこと」や「やらないこと」があるなら、がんば
ってできるようになることが学校や社会で生きていくため
に必要だと、子どもたちに教え込もうとします。

しかし、そんな話を聞かされ、子どもたちがすぐに変わる
ことはまずありません。  

達也君は友だちがおらず、家族も味方にはなってくれませ
んでした。そんななか、副担任の先生との出会いは、達也
君が変わる転機になりました。

この先生は、教師の立場から「がんばり」を一方的に求め
るのではなく、達也君が興味を持つオンラインゲームの話
をひたすら聞き続け、達也君を先生役として、ゲームの解
説を受けました。

達也君を自分の意思や気持ちをしっかりと持った一人の
人間として認め、向き合うことを続けました。

先生が味方になってくれ、自分を認めてくれたと実感で
きた達也君は、不登校を乗り越え、前に向かって進むこ
とができるようになりました。  

私たち大人が子どもたちの「味方」になるには、まず、
子どもたちに対する「見方」を変えること、ということ
でしょうか。 …








私が小学4年のころの話。

よく家にお邪魔したりされたりして遊んでた子、Aがいた
んだけど、 ある日、そこのお母さんから電話がかかって
きた。

お母さんに変わってくれるかな?と言われたので取り次いだ
ら はい、はい、と話を聞きながら次第に私を睨みつける母。

電話を切った途端に、どういうこと?!と私を叱り飛ばす。

え?何が何が?と思いながら母の怒ってる言葉を聞いている
と どうやら、Aが「(私)ちゃんがおばあちゃんの貯金箱か
らお金を盗んだ。」 と言ってるようだった。

もちろん記憶にないのでそんなことしてないと何度も訴えた
が 母聞く耳持たず。

だけど、1時間叱ってもがんとして認めない私に 母も痺れを
切らし、アンタの嘘を暴いちゃる!と言い出した。

母:○月○日に盗まれたって言ってるよ! そういやアンタ、
電動の鉛筆削り機欲しいって言ってたね。 それのために盗
んだんじゃないの?!

私:買ってないよぅ…。
母:○日は何してたの!?日曜だよ!
私:うちでお姉ちゃんとクッキー作ってた……。
母:……………。

優等生な姉(中2)が呼び出され、事実確認。母おとなしく
なる。

とりあえず父が帰宅、晩ご飯食べる。そして母がA宅に電話し、
その旨を伝えると 「姉妹グルで嘘ついてるんじゃないですか
? うちのAと、中学1年の従姉妹も盗まれたって言ってます。
」の流れのあと、電話切る。

本当に盗んでないんだね? とりあえず今日は遅いから寝なさい。
と両親に言われるも、布団の中では「自分が知らないうちにやっ
てたのかも……

怒られ続けるくらいならもう認めちゃってガツンと 1発怒られ
てそれでおしまいにしたい…」 と思い始めていた。

するとリビングから私を呼ぶ声。

Aの家族全員とその従姉妹の母親がうちに直談判に来るから着替
えなさい、と。

正直ガク((;゚Д゚))ブルで、どうしよう、やりましたって言っちゃ
おうかと迷ってるうちに Aの軍団到着。

玄関に迎えに行き、どうぞあがってくださいと言うと お宅の敷居
は跨げませんと軍団全員泣きながら土下座した。

来るときに車の中でAと従姉妹が事実を吐いたらしい。

Aおばあちゃんの貯金箱からお金を盗んだのは Aと従姉妹で、
おばあちゃんがお金がないのに気付いたとき、 よく遊びに行
ってた私に罪をなすりつけることにしたらしい。

大人5人と友達1人とよく知らない女の子が泣きながら土下座
というのは迫力があった。

A母はAを叩きながら謝るし、我が家もさすがにビビり、母が
もういいんですよ、とにかくうちの子が盗んでなくてよかった
です。と言って帰したが、 A軍団が車に乗り込むまでの間、罵
声が家の中まで聞こえていた。

その後、お互いにあまり関わらなくなったので今その子がどう
してるかは 解らないけど、私は元気です・・・














歴史への訪問・貧者の一灯ブログ

2024-06-11 | 貧者の一灯ブログ

 

 







むかしむかし、紀の関という関所があり、この関所に近い村
に一人の若者が住んでいました。  

ひどくあきっぽい男で、何をやっても途中で投げ出してしま
うので村人に馬鹿にされていました。  

ある日の事、その若者が山道を歩いていると、羽に矢が刺さ
ってもがいている白鳥がいました。  

若者はその白鳥の羽から矢を抜いてやると、空へ放してやり
ました。  

そのとき白鳥は一声鳴いて、うれしそうに飛び立っていきま
した。  

さてその晩、若者の夢の中で白鳥が現れて、「昼間は危ない
ところを助けてくださり、ありがとうございました。

お礼に、お前さまの願いをかなえてあげましょう」と、言うで
はありませんか。  

若者は少し考えてから、「それなら、きれいでやさしい嫁を世
話してほしい」 と、言いました。  

それから三日後、若者のところへ美しい嫁がやって来たのです。  

嫁さんはとてもいい嫁さんで、家の仕事も畑仕事もがんばり、
そして若者をとても大切にしました。  

けれども若者の方は、嫁さんよりも鳥やけものの狩りに心を奪
われるようになりました。  

そしてある日のこと、若者は嫁さんにさんざん小言をいったあ
げく、空に向かって叫びました。

「白鳥よ、おらあ、この嫁にはあきあきした。嫁より、狩りを
するのが楽しいんじゃ。もう嫁はいらんから、代わりに立派な
弓矢をくれ」  

嫁さんはそれを聞くと一晩中泣いていましたが、朝になると嫁
さんの姿はなくて、その代わりに立派な弓矢が置いてあったの
です。

「おおっ、これさえあれば、鳥でも鹿でも取り放題だ」  

若者は弓矢をつかむと、大喜びで狩りに飛び出しました。しか
しいくら立派な弓矢を持っていても、狩りの腕が悪いので山鳥
の一羽も射止められません。  

一緒に狩りに行った村人に馬鹿にされた若者は、くやしまぎれ
に弓矢を放り投げました。

「こんな弓矢、もういらん!」  

すると弓矢は美しい白鳥に姿を変えて、若者の手をするりと抜け
ると山峠のかなたへ消えていきました。

「まてー、まってくれー!やっぱりあの嫁を帰してくれー!」  

白鳥を追いかけた若者は、関所を駆け抜けようとして関守に呼び
とめられました。  

びっくりした若者は、あわてて頭を下げて言いました。「怪しい
者では、ございません。このあたりの百姓でして、逃げた嫁を探
していたのです」  

そして恐る恐る関守の顔を見上げて、若者はあっと叫びました。
なんとその関守は女で、しかも姿を消した嫁さんだったのです。  

嫁さんは、目からみるみる涙を流しながら言いました。「どん
なことがあっても、この関は通しません。お前ののぞみは、も
うかなえられません」  

そして涙に濡れた袖はみるみるうちにまっ白な羽に変わり、それ
を見た若者は転げるように逃げていきました。  

このときから紀の関は、不死鳥の関とよばれるようになったのです。

おしまい






私の家族は、父、母、私、そして弟の四人家族です。

弟は私より十二歳も年下で、その当時はまだ六歳でした。とて
も可愛い弟です。

しかし、私は遊び盛りで、家にいれば父と母が喧嘩をしている
ことが多かったため、家に帰ることが少なかったです。

弟はきっと毎日、とても寂しかったでしょう。

ある日、久しぶりに家に帰ると、普段はお酒を飲んでいる父が、
一冊のノートを手に取り、涙を流していました。

私もそのノートを覗いてみると、弟がまだ拙い字で書いた物語
が書かれていました。

「ごめんな」と父が急に言いました。
ノートには、こんな言葉が綴られていました。

「僕には楽しいパパ、優しいママ、いつも笑顔のお姉ちゃんが
います。いつもみんなで美味しいご飯を笑いながら食べます。

毎週日曜日は、家族でお出かけをします。僕はいつもみんなに
可愛がってもらっていて、幸せいっぱいです。

毎日笑顔がいっぱいです」

これは、一家にとっては現実とはかけ離れた理想の家族像でした。
しかし、弟の純粋な願いが詰まったその物語を読み、私と父は涙
を流しました。

その日、パートから帰ってきた母もノートを読んで、泣きました。
その夜、家族そろって鍋を囲みました。

弟にとっては初めての経験で、彼はとても楽しそうに笑っていま
した。父も母も私も、照れくさくなりながらも笑いました。

その日を境に、家族は少しずつ変わり始めました。弟の夢が書か
れた物語が少しずつ現実のものとなり、今では笑顔でいっぱいの
家族になりました。 ・・・