さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
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さすらいの風景 北京 その12

2011年08月08日 | 海外旅行
雍和宮(ようわきゅう)は、北京最大のラマ教寺院群です。

15世紀から代々の皇子の住居として使われ、清の康煕帝の第4子、雍正帝もここに住みました。1722年に康煕帝の崩御呉後に雍正帝が即位し、自らの名前を取って「雍和宮」と命名しました。実際は、雍正帝の特務機関が置かれていたようです。雍正帝の次の乾隆帝の時代に、チベット仏教の寺となりました。

入り口には、瑠璃牌楼が置かれています。



昭泰門



雍和門



お馴染みの唐獅子



数多くの建物があり、それぞれに仏像が飾られています。



中国では、動物の形をしたゴミ箱を良くみかけます。



四体碑亭



四体碑亭の奥には、雍和宮があります。



雍和宮の扁額

左から、蒙古、チベット、漢、満洲の文字が並んでいます。


法輪殿

屋根の上にチベット式の塔が載っています。



満福閣

ここには、木造としては世界最大の地上18m、地下8mの弥勒菩薩像が納められています。

この仏像の由来としては、乾帝がダライ・ラマ7世を助けてチベットの豪族の反乱を平定したことに対し、ダライ・ラマ7世が感謝の印にネパールで白檀の巨大な幹材を買い求めて贈ったといいます。

清朝は、ラマ教を保護しますが、一方で、チベットの内外政の他、法王位の継承などに干渉を加えるようになっていきます。しかし清皇族をはじめとする満州族にはチベット仏教に篤く帰依する者も多く、宗教活動自体は保護を受ける面が強かったといいます。

この状況が一変するのは、毛沢東の指導よる1950年の中国軍の侵略からです。ラサが占領され、ダライ・ラマはインドに亡命します。この後の文化大革命の時期も含めて、僧侶の弾圧、僧院の破壊、漢民族の流入によるチベット文化の破壊が続いていきます。1949~1979年の30年間で中国側に殺されたチベット人の数は120万人ともいわれています。

さらに、チベット仏教第二位の高僧のバンチェン・ラマにも迫害の手が加えられます。ダライ・ラマ14世によって認定された6才の少年の第11世パンチェン・ラマは、認定発表の3日後に中国政府の手で親ごと拉致されて行方不明になってしまいました。なお、前代の第10世パンチェン・ラマは10年間の投獄、さらに北京で5年間軟禁された後にチベット帰還しますが、当局の意向を無視してスピーチをした結果、その5日後に50歳の若さで突然他界しています。

チベット独立運動に対し、中国側は元や清朝ではチベットを直接支配していたと主張していますが、その発端はこの雍和宮にあるともいえます。

ラマ教寺院は、チベット以外ではあまり見られないので面白く見ることができますが、歴史の陰もうかがうことができます。
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