ムーア川を渡ると、繭のような不思議な姿の建物が現れました。これはクンストハウスといい、2003年に欧州文化首都になったことを記念して建設された芸術文化施設です。
古いグラーツの街並みに似合っているとは思えないのですがね。
その隣には古い教会が並んでいました。
こちらの方が、古都グラーツの景観に似合っていると思うのですが。
再び橋を渡ると、中州には、なにやら新し建造物がありました。
「グラーツ市街 - 歴史地区とエッゲンベルク城 」ということで世界遺産に認定されているのですが、この建物やクンストハウスを造ることが良く許されたなと感じます。
橋を渡って、シュロスベルクに向かいました。
ここにも目をひく教会がありました。
鳩を飾った噴水が置かれていました。
シュロスベルクへは、歩道もありましたが、エレベーターを利用しました。
岩山をくり貫いた洞窟の奥に進んでいくとエレベーターがありました。脇の線路は、子供用のアトラクションのミニ機関車のもののようです。
エレベーターで一気に高さ473のシュロスベルクに上がると、目の前に時計台が現れました。
このシュロスベルクには、ハプスブルク家所有の難攻不落の城が建っていたのですが、1809年のナポレオンによるグラーツ占領時に取り壊されました。
最初に小さな城が置かれていたことから、スロベニア語で小さな城を意味する「グラデツ」から「グラーツ」の地名が生まれたといわれています。
グラーツのシンボルともいえる時計塔は、1265年に要塞の一部として建設され、その後1560年頃に現在の形になって1712年に時計が取り付けられました。
この時計塔の針は長針と短針が逆になっており、長針が分、短針が時間を指しています。これは元々、この時計が街から見やすいよう、時間を指す長い針のみが取り付けられていたところに、後からそれより短い分針を取り付けたためと言われています。
従って、現在は8時55分です。どうしても、習慣で11時45分と見てしまいますね。
時計塔のある広場からは、グラーツの市街地を見下ろすことができました。
ハウプト広場にある市庁舎。
クンストハウスも目だっています。イボイボもあって、ナマコのように見えますね。
王宮跡でしょうか。
遠足なのか、子供たちが歩いて登ってきました。皆、草臥れているようです。
エレベーターで市街地に下りました。
レストランの看板。この凝った看板は、ザルツブルグのゲトライドガッセを思いださせます。
ハウプト広場に戻ってきて、路面電車に乗ってホテルに戻りました。
短い時間でしたが、グラーツの雰囲気を知ることができました。
グラーツは、日本人にはあまり馴染みがないかもしれないかもしれませんが、オーストリア有数の文化都市として有名人が生まれています。
まずは、指揮者のカール・ベーム。グラーツ大学で法律を学び、グラーツ市立歌劇場でデビューしています。ドイツ正統派を代表する音楽家にとって、この街の雰囲気はふさわしいように思います。
続いて、アーノルド・シュワルツェネッガー。アメリカ生まれかと思っていましたが、グラーツ近郊の生まれです。ボディビルをするために渡米し、後にアメリカ国籍を得ました。生家は、現在、シュワルツェネッガー博物館になっているようです。
グラーツ出身者で忘れてならないのは、フランツ・フェルディナント大公ですね。フランツ・フェルディナントは、オーストリア皇族でしたが、従兄のルードルフ皇太子がいたため、皇位継承の圏外にありました。しかし、ルードルフ皇太子がマイヤーリンクで情死すると、にわかに皇位継承者となりました。ここで問題になったのは、チェコ人の女官であるゾフィーを恋人にしていたことでした。皇室は二人の結婚に大反対し、これに対し、二人は意思を変えませんでした。結局、ゾフィーが皇族としての特権をすべて放棄し、将来生まれる子供には皇位を継がせないことを条件に結婚が承認されました。しかしゾフィーは冷遇され、公的行事ではすべての皇族の末席に座らされ、それ以外の劇場などの公の場でも同席は許されませんでした。このような複雑な経緯もあって、フランツ・フェルディナントは「皇太子」とは呼ばれず、「皇位継承者」と遠回しな呼ばれ方をされるようになりました。
フランツ・フェルディナントは、チェコ人と結婚しただけあって、親スラブ的な傾向があり、1914年6月に共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナの軍事演習に出かけることになりました。一方、ボスニア・ヘルツェゴビナに住むセルビア人にとっては、オーストリア=ハンガリーによって侵略されたという恨みがありました。大公夫妻はサラエヴォで暗殺され、このサラエヴォ事件によって第一次対戦が勃発してしまいます。
大公夫妻の遺体は、貴賤結婚のために、ハプスブルク=ロートリンゲン家の人々が埋葬されるカプツィーナー納骨堂には入れず、居城であったアルトシュテッテン城内の納骨堂に埋葬されました。
本来計画に含まれていなかったグラーツ訪問ですが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを訪れてきた今回の旅と関係があったようです。
古いグラーツの街並みに似合っているとは思えないのですがね。
その隣には古い教会が並んでいました。
こちらの方が、古都グラーツの景観に似合っていると思うのですが。
再び橋を渡ると、中州には、なにやら新し建造物がありました。
「グラーツ市街 - 歴史地区とエッゲンベルク城 」ということで世界遺産に認定されているのですが、この建物やクンストハウスを造ることが良く許されたなと感じます。
橋を渡って、シュロスベルクに向かいました。
ここにも目をひく教会がありました。
鳩を飾った噴水が置かれていました。
シュロスベルクへは、歩道もありましたが、エレベーターを利用しました。
岩山をくり貫いた洞窟の奥に進んでいくとエレベーターがありました。脇の線路は、子供用のアトラクションのミニ機関車のもののようです。
エレベーターで一気に高さ473のシュロスベルクに上がると、目の前に時計台が現れました。
このシュロスベルクには、ハプスブルク家所有の難攻不落の城が建っていたのですが、1809年のナポレオンによるグラーツ占領時に取り壊されました。
最初に小さな城が置かれていたことから、スロベニア語で小さな城を意味する「グラデツ」から「グラーツ」の地名が生まれたといわれています。
グラーツのシンボルともいえる時計塔は、1265年に要塞の一部として建設され、その後1560年頃に現在の形になって1712年に時計が取り付けられました。
この時計塔の針は長針と短針が逆になっており、長針が分、短針が時間を指しています。これは元々、この時計が街から見やすいよう、時間を指す長い針のみが取り付けられていたところに、後からそれより短い分針を取り付けたためと言われています。
従って、現在は8時55分です。どうしても、習慣で11時45分と見てしまいますね。
時計塔のある広場からは、グラーツの市街地を見下ろすことができました。
ハウプト広場にある市庁舎。
クンストハウスも目だっています。イボイボもあって、ナマコのように見えますね。
王宮跡でしょうか。
遠足なのか、子供たちが歩いて登ってきました。皆、草臥れているようです。
エレベーターで市街地に下りました。
レストランの看板。この凝った看板は、ザルツブルグのゲトライドガッセを思いださせます。
ハウプト広場に戻ってきて、路面電車に乗ってホテルに戻りました。
短い時間でしたが、グラーツの雰囲気を知ることができました。
グラーツは、日本人にはあまり馴染みがないかもしれないかもしれませんが、オーストリア有数の文化都市として有名人が生まれています。
まずは、指揮者のカール・ベーム。グラーツ大学で法律を学び、グラーツ市立歌劇場でデビューしています。ドイツ正統派を代表する音楽家にとって、この街の雰囲気はふさわしいように思います。
続いて、アーノルド・シュワルツェネッガー。アメリカ生まれかと思っていましたが、グラーツ近郊の生まれです。ボディビルをするために渡米し、後にアメリカ国籍を得ました。生家は、現在、シュワルツェネッガー博物館になっているようです。
グラーツ出身者で忘れてならないのは、フランツ・フェルディナント大公ですね。フランツ・フェルディナントは、オーストリア皇族でしたが、従兄のルードルフ皇太子がいたため、皇位継承の圏外にありました。しかし、ルードルフ皇太子がマイヤーリンクで情死すると、にわかに皇位継承者となりました。ここで問題になったのは、チェコ人の女官であるゾフィーを恋人にしていたことでした。皇室は二人の結婚に大反対し、これに対し、二人は意思を変えませんでした。結局、ゾフィーが皇族としての特権をすべて放棄し、将来生まれる子供には皇位を継がせないことを条件に結婚が承認されました。しかしゾフィーは冷遇され、公的行事ではすべての皇族の末席に座らされ、それ以外の劇場などの公の場でも同席は許されませんでした。このような複雑な経緯もあって、フランツ・フェルディナントは「皇太子」とは呼ばれず、「皇位継承者」と遠回しな呼ばれ方をされるようになりました。
フランツ・フェルディナントは、チェコ人と結婚しただけあって、親スラブ的な傾向があり、1914年6月に共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナの軍事演習に出かけることになりました。一方、ボスニア・ヘルツェゴビナに住むセルビア人にとっては、オーストリア=ハンガリーによって侵略されたという恨みがありました。大公夫妻はサラエヴォで暗殺され、このサラエヴォ事件によって第一次対戦が勃発してしまいます。
大公夫妻の遺体は、貴賤結婚のために、ハプスブルク=ロートリンゲン家の人々が埋葬されるカプツィーナー納骨堂には入れず、居城であったアルトシュテッテン城内の納骨堂に埋葬されました。
本来計画に含まれていなかったグラーツ訪問ですが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを訪れてきた今回の旅と関係があったようです。