
それでは、オランダシリーズを開始します。まずはアムステルダムから。
アムステルダムは、オランダの首都です。ただし、政治の中心地は、ハーグになっています。
13世紀にアムステル川の河口に町が築かれ、16世紀には海運貿易の港町として、ヨーロッパ屈指の都市へと発展しました。
アムステル川をダムでせき止めて作った街であることから、アムステルダムと呼ばれるようになったようです。
アムステルダムの街歩きは、アムステルダム中央駅から開始しましょう。
以前は、東京駅は、このアムステルダム中央駅を模した作られたという説が広まっていましたが、現在では、否定されているようです。しかし、どこか東京駅と似た感じはあります。
ちなみに、東京駅東口一帯をさす八重洲の地名は、オランダ人ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(日本名は、やようす)に由来します。これもなにかの縁でしょうかね。

駅前通りを進むと、ダム広場に出ます。最初にダムが築かれた場所で、まさにアムステルダムの礎の置かれた場所です。

広場に立つ白いモニュメントは、第2次大戦時のオランダ人犠牲者のための戦没者慰霊塔です。

広場に面して王宮があります。1648年、市庁舎として建てられ、1808年ナポレオンの兄弟ルイ・ボナパルトの居城として王宮となり、現在では迎賓館として用いられています。

目を引く、ゴシック建築は、中央郵便局です。

新教会
後期ゴシック様式の教会で、現ベアトリクス女王など、歴代のオランダ国王の載冠が行われる場所です。

新教会のステンドグラス

ムントタワー
ムントとは、「貨幣を鋳貨する」という意味で、1672年にフランスがアムステルダムを侵略した際、この塔を貨幣鋳造所として利用していた事からムントタワーと呼ばれる様になりました。もとは、街を取り巻く城壁の一部で、後に塔の上に時計が取り付けられて、現在の姿になったようです。

街のいたる所からこの塔は見えて、これは花市場とムントタワー。

繁華街から見るムントタワー

繁華街。
アムステルダム駅から街に足を踏み出して、まず驚いたことは、ヨーロッパの街としてはめずらしく、紙くずが散らばって、雑然とした雰囲気であったことです。繁華街も雑然とした雰囲気。日本を離れてしばらく経っていたこともあり、その雑然とした雰囲気がなぜか心地よく感じられました。

涙の塔 Schreierstoren
「1480年に、中世の市壁の防御施設の一部として建造されました。17世紀に街が中世の市域を越えて拡張されたあとも、取り壊されずに残った要塞で、現在は船具店として利用されています。
由来は、旧市壁が鋭く(スレイエ、スヘルペ)折れ曲がった所に塔があったためだとか、女性が出帆する男性を見送りにきて涙した(スレイエン)ためだとかいわれています。
東インドヘ早く到達できる航絡を発見しようと、ヘンリー・ハドソンは1609年、ここから出帆しましたが着いたのは北アメリカでした。彼の名をつけたのが「ハドソン川」です。」
オランダ政府観光局HPより
まずは、アムステルダム市内の中央部付近の見所でした。
アムステルダムは、オランダの首都です。ただし、政治の中心地は、ハーグになっています。
13世紀にアムステル川の河口に町が築かれ、16世紀には海運貿易の港町として、ヨーロッパ屈指の都市へと発展しました。
アムステル川をダムでせき止めて作った街であることから、アムステルダムと呼ばれるようになったようです。
アムステルダムの街歩きは、アムステルダム中央駅から開始しましょう。
以前は、東京駅は、このアムステルダム中央駅を模した作られたという説が広まっていましたが、現在では、否定されているようです。しかし、どこか東京駅と似た感じはあります。
ちなみに、東京駅東口一帯をさす八重洲の地名は、オランダ人ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(日本名は、やようす)に由来します。これもなにかの縁でしょうかね。

駅前通りを進むと、ダム広場に出ます。最初にダムが築かれた場所で、まさにアムステルダムの礎の置かれた場所です。

広場に立つ白いモニュメントは、第2次大戦時のオランダ人犠牲者のための戦没者慰霊塔です。

広場に面して王宮があります。1648年、市庁舎として建てられ、1808年ナポレオンの兄弟ルイ・ボナパルトの居城として王宮となり、現在では迎賓館として用いられています。

目を引く、ゴシック建築は、中央郵便局です。

新教会
後期ゴシック様式の教会で、現ベアトリクス女王など、歴代のオランダ国王の載冠が行われる場所です。

新教会のステンドグラス

ムントタワー
ムントとは、「貨幣を鋳貨する」という意味で、1672年にフランスがアムステルダムを侵略した際、この塔を貨幣鋳造所として利用していた事からムントタワーと呼ばれる様になりました。もとは、街を取り巻く城壁の一部で、後に塔の上に時計が取り付けられて、現在の姿になったようです。

街のいたる所からこの塔は見えて、これは花市場とムントタワー。

繁華街から見るムントタワー

繁華街。
アムステルダム駅から街に足を踏み出して、まず驚いたことは、ヨーロッパの街としてはめずらしく、紙くずが散らばって、雑然とした雰囲気であったことです。繁華街も雑然とした雰囲気。日本を離れてしばらく経っていたこともあり、その雑然とした雰囲気がなぜか心地よく感じられました。

涙の塔 Schreierstoren
「1480年に、中世の市壁の防御施設の一部として建造されました。17世紀に街が中世の市域を越えて拡張されたあとも、取り壊されずに残った要塞で、現在は船具店として利用されています。
由来は、旧市壁が鋭く(スレイエ、スヘルペ)折れ曲がった所に塔があったためだとか、女性が出帆する男性を見送りにきて涙した(スレイエン)ためだとかいわれています。
東インドヘ早く到達できる航絡を発見しようと、ヘンリー・ハドソンは1609年、ここから出帆しましたが着いたのは北アメリカでした。彼の名をつけたのが「ハドソン川」です。」
オランダ政府観光局HPより
まずは、アムステルダム市内の中央部付近の見所でした。