旅行の二日目は、スロヴェニアのブレッドの観光から始まりました。
宿泊したこのクリムホテルは、ブレッド湖に近い場所にありました。ホテル入りしたのは夜中の2時半で、それからシャワーを浴びて一杯ひっかけて寝たのは4時近くになっていましたが、朝の散歩を行うため6時に起きました。荷造りしたスーツケースを部屋の前に出してから7時開始の朝食に行くと、ほとんどのツアー参加者が集合していました。出発は9時45分だったので、もっとゆっくりしていても良いはずなのですがね。
小雨が降っており、傘をさしながらの散歩になりました。
ホテルの前の坂を下っていくと、ブレッド湖の畔に出ました。湖の向こうにブレッド城の立つ岩山が聳えていました。
今回訪れたスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロは、バルカン半島の国々で、ひと昔前まではユーゴスラビアに属する国々でした。これらの国々を見学するのに際しては、歴史を復習しておく必要があります。
バルカン半島の国は、東ローマ帝国・オスマン帝国・オーストリア・ハンガリー帝国といった多民族国家の時代が長かったことから諸民族が入り混じって住むことになりました。長らくこの地方を支配していたオスマン帝国の衰退とともに、セルビアなどの小国のナショナリズムが高揚します。これら地域のナショナリズムを利用して勢力拡大を目指すロシア帝国のパン=スラヴ主義と、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国のパン=ゲルマン主義が、以後この地をめぐって激突することになり、ヨーロッパの火薬庫と呼ばれるようになります。
1914年6月28日、オーストリアの皇位継承者フランツ=フェルディナント大公夫妻が、ボスニアの州都サラエヴォを訪問中、反オーストリア運動結社「黒い手」のメンバーだったセルビア人に暗殺され、このサラエヴォ事件によって第一次大戦が引き起こされます。
第一次大戦終了後に、南スラヴ人王国の構想によって「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国)」が成立し、1929年にはユーゴスラビア王国と国号を変更しました。
第二次大戦では、ナチス・ドイツはユーゴスラビアを分割占領しますが、チトーの率いるパルチザンは粘り強く抵抗し、ユーゴスラビアを自力で解放しました。
大戦中の1943年に成立したユーゴスラビア民主連邦は、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国と、セルビア共和国内のヴォイヴォディナとコソボの2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められました。これらの地域からなるユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現されました。
このようなユーゴスラビアが成り立っていたのも、チトーのバランス感覚とカリスマ性によるところが大きかったためでしたが、1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出し、分裂の動きが加速されていくことになります。
このスロヴェニアは、地理的に西ヨーロッパに近いため経済的に最も成功していましたが、南側の共和国や自治州がスロヴェニアの経済成長の足を引っ張っているという不満が高まりました。またクロアチア人は、政府がセルビアに牛耳られているという不満を持ちました。1991年6月には、スロベニア・クロアチア両共和国はユーゴスラビアからの独立を宣言しました。
ユーゴスラビア連邦軍とスロヴェニアとの間は、十日間戦争と呼ばれる比較的短い戦闘で終結しましたが、他の国々の独立は泥沼化しました。
ブレッド湖湖畔からの古城や教会の眺めからは、オーストリアの山岳部といった印象を持ってしまいますが、これもハプスブルグ家の支配が長かったことによるのでしょう。
湖畔には遊歩道が整備され、遠くにブレッド島とその上に建つ聖母被昇天教会が見えていました。教会が良く見える場所まで歩くことにしました。
島の左に船着き場があり、そこから階段を上って教会に入ることになります。
途中で、ブレッド城を振り返ったところ。
鴨の親子が湖で泳いでいました。
ブレッド湖南岸のボート乗り場を過ぎると、階段も良く見えるようになってきました。
ヴィラ・ブレッドの下を過ぎる頃からは、遊歩道の脇の木立が続くようになって、展望の開ける場所を探しながらの歩きになりました。
雨も止んできて、湖面に教会の影が映るようになってきました。
階段を正面から眺めるようになって、ガイドブック等の写真もこのあたりから撮影したもののようです。
ブレッド湖は一周6kmというので、歩けない距離ではないのですが、時間も心配なので引き返すことにしました。
ブレッド城も少し違った姿で見えていました。
戻る途中、白鳥がのんびり草を食べていました。
車道脇に並ぶ観光客向けのお店やホテルですが、オーストリアと変わらない雰囲気です。
1時間ほどの朝の散歩を終えてホテルに戻り、ひと休みした後に、正式な観光に出かけました。
宿泊したこのクリムホテルは、ブレッド湖に近い場所にありました。ホテル入りしたのは夜中の2時半で、それからシャワーを浴びて一杯ひっかけて寝たのは4時近くになっていましたが、朝の散歩を行うため6時に起きました。荷造りしたスーツケースを部屋の前に出してから7時開始の朝食に行くと、ほとんどのツアー参加者が集合していました。出発は9時45分だったので、もっとゆっくりしていても良いはずなのですがね。
小雨が降っており、傘をさしながらの散歩になりました。
ホテルの前の坂を下っていくと、ブレッド湖の畔に出ました。湖の向こうにブレッド城の立つ岩山が聳えていました。
今回訪れたスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロは、バルカン半島の国々で、ひと昔前まではユーゴスラビアに属する国々でした。これらの国々を見学するのに際しては、歴史を復習しておく必要があります。
バルカン半島の国は、東ローマ帝国・オスマン帝国・オーストリア・ハンガリー帝国といった多民族国家の時代が長かったことから諸民族が入り混じって住むことになりました。長らくこの地方を支配していたオスマン帝国の衰退とともに、セルビアなどの小国のナショナリズムが高揚します。これら地域のナショナリズムを利用して勢力拡大を目指すロシア帝国のパン=スラヴ主義と、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国のパン=ゲルマン主義が、以後この地をめぐって激突することになり、ヨーロッパの火薬庫と呼ばれるようになります。
1914年6月28日、オーストリアの皇位継承者フランツ=フェルディナント大公夫妻が、ボスニアの州都サラエヴォを訪問中、反オーストリア運動結社「黒い手」のメンバーだったセルビア人に暗殺され、このサラエヴォ事件によって第一次大戦が引き起こされます。
第一次大戦終了後に、南スラヴ人王国の構想によって「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国)」が成立し、1929年にはユーゴスラビア王国と国号を変更しました。
第二次大戦では、ナチス・ドイツはユーゴスラビアを分割占領しますが、チトーの率いるパルチザンは粘り強く抵抗し、ユーゴスラビアを自力で解放しました。
大戦中の1943年に成立したユーゴスラビア民主連邦は、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国と、セルビア共和国内のヴォイヴォディナとコソボの2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められました。これらの地域からなるユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現されました。
このようなユーゴスラビアが成り立っていたのも、チトーのバランス感覚とカリスマ性によるところが大きかったためでしたが、1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出し、分裂の動きが加速されていくことになります。
このスロヴェニアは、地理的に西ヨーロッパに近いため経済的に最も成功していましたが、南側の共和国や自治州がスロヴェニアの経済成長の足を引っ張っているという不満が高まりました。またクロアチア人は、政府がセルビアに牛耳られているという不満を持ちました。1991年6月には、スロベニア・クロアチア両共和国はユーゴスラビアからの独立を宣言しました。
ユーゴスラビア連邦軍とスロヴェニアとの間は、十日間戦争と呼ばれる比較的短い戦闘で終結しましたが、他の国々の独立は泥沼化しました。
ブレッド湖湖畔からの古城や教会の眺めからは、オーストリアの山岳部といった印象を持ってしまいますが、これもハプスブルグ家の支配が長かったことによるのでしょう。
湖畔には遊歩道が整備され、遠くにブレッド島とその上に建つ聖母被昇天教会が見えていました。教会が良く見える場所まで歩くことにしました。
島の左に船着き場があり、そこから階段を上って教会に入ることになります。
途中で、ブレッド城を振り返ったところ。
鴨の親子が湖で泳いでいました。
ブレッド湖南岸のボート乗り場を過ぎると、階段も良く見えるようになってきました。
ヴィラ・ブレッドの下を過ぎる頃からは、遊歩道の脇の木立が続くようになって、展望の開ける場所を探しながらの歩きになりました。
雨も止んできて、湖面に教会の影が映るようになってきました。
階段を正面から眺めるようになって、ガイドブック等の写真もこのあたりから撮影したもののようです。
ブレッド湖は一周6kmというので、歩けない距離ではないのですが、時間も心配なので引き返すことにしました。
ブレッド城も少し違った姿で見えていました。
戻る途中、白鳥がのんびり草を食べていました。
車道脇に並ぶ観光客向けのお店やホテルですが、オーストリアと変わらない雰囲気です。
1時間ほどの朝の散歩を終えてホテルに戻り、ひと休みした後に、正式な観光に出かけました。