アブ・シンベル神殿を見学後、再び飛行機に乗り、アスワンに戻りました。
眼下には、砂漠の中に満々と水をたたえたナセル湖が広がっています。
アスワンに到着して、まずアスワンハイダムの見学を行いました。
アスワンハイダムは、1970年に完成した、高さ111m、全長3,600mのナイル川を堰き止める巨大ロックフィルダムです。
ナイル川の氾濫防止と灌漑用水の確保、発電が目的で、砂漠の緑化も行った反面、ナイル川の水位が下がって塩害を生じるなどの負の影響も出ていると言います。
ダムサイトに立っているのは、完成を祝う記念塔です。
下流部の眺め。
日本の深い渓谷にかかるダムに比べると、高さに対して幅が広いため、スケール感は伝わってきません。
逆の上流部の眺め。
広大な湖が広がっており、ダム湖とは思えません。ナセル湖は、全長500kmに及び、琵琶湖の7.5倍の面積を持っているといいます。
アスワンハイダムは、第四次中東戦争においてイスラエル軍により爆弾を投下されたことから軍事施設扱いになっており、周囲に軍事基地もあるようです。観光対象ではありますが、銃を持った警備兵がおり、カメラの撮影は許されていても、ビデオの撮影は禁止されているようです。
ダムサイトには、ガラブシャ神殿の巨大な塔門が見えていました。
この神殿も水没を免れて移転されたものです。アメンヘテプ2世やトトメス3世が建造し、プトレマイオス時代やローマ時代に再建されたものです。太陽とも関係する方策の神マルルやデドウェン神が祀られていたといいます。
アスワンハイダムは、通り抜け禁止のためか、一旦左岸のゲートに戻りました。
ゲートを出た所の路肩で、車が停められて、アスワンの砂採取になりました。定番スポットになっているのか、足跡が多く残されていました。
あらかじめ用意してあったビニーール袋に砂漠の砂をつめました。
砂漠の砂採取は、先日のシルクロードの旅での月牙泉の砂に続いてですが、持ち帰った砂を見比べると、アスワンの砂は、赤みを帯びて細かいのが特徴的でした。
アスワンダムの堰堤で、右岸に渡りましたが、その途中で、アギルキア島にあるイシス神殿を眺めることができました。
イシス神殿もアスワンハイダムによって水没するところを、もとあったフィエラ島からアギルキア島に移動されて救助されました。
フィエラ島は、イシス神がホルス神を生んだ神聖な島とされ、イシス神殿は「ナイルの真珠」とも称えらられています。
この神殿は見たかったのですが、残念ながら遠望のみに終わりました。
ガラブシャ神殿にしてもイシス神にしても、パッケージツアーといっても、現地ガイドからの説明ははここまで及びませんでしたので、興味を引いたものは、まずは写真を撮っておいて、後で調べるという作業が必要になります。
アスワンの街に到着して、まずはナイル・クルーズの船にチェック・インし、昼食をとりました。
「ナイル・スタイル」という船に入っていきますが、ロビーをそのまま通り抜けて三隻目が乗船する「ソラリス」でした。船付き場が限られているため、ナイル・クルーズ船は、このような重列停船をするのが普通のようです。
自分の乗る船ではありませんが、下船する時には、岸側に見える船の名前を覚えておく必要がありました。
昼食後、街の背後にある石切り場に、未完のオベリスクを見学に出かけました。
アスワン産の花崗岩は、上質で堅く、ギザのクフ王のピラミッドの王の間も、ここの石で囲まれているといいます。
未完のオベリスクを見るには、石切り場の上に登る必要があります。日差しがきつく、暑さが堪えました。
未完のオベリスクは、長さ42m、重さ1168トンの、完成すればエジプト最大のものになるはずでしたが、ひびが入ってしまい、そのままになってしまいました。
なお、ガイドブックや現地ガイドの説明では、石の切り出しは、石に切り込みを入れ、そこに木のくさびを打ち込み、水で濡らすと木のくさびが膨張して石が割れると言われています。ところが、吉村作治教授によれば、実際にくさびを使って試みたが割れなかったとのことです。やはり、一列に鉄のくさびを打ち込んで、それを叩いていく方法が採られていたようです。
この巨大なオベリスクが、どのような神殿に立てられる予定であったのか、想像力がかき立てられます。
未完のオベリスク見学の後は、帆船のファルーカに乗ってクルーズ船に戻りましたが、その船付き場から、コプト派の教会を見ることができました。カイロ市内でもバスの車窓から多くのコプト派の教会を見ることはできたのですが、写真が撮れなかったので、アスワンの写真で代表することにします。
コプト派とは、エジプトを中心とする原始キリスト教の一派です。エジプトにおけるキリスト教の戦況は、AC40年頃に聖マルコによってアレキサンドリアから始まったといいます。2世紀にはエジプト全土に広がりましたが、450年には、古代キリスト教の中心地であったアレキサンドリアから異端とされて独立の道を進みます。7世紀のアラブ軍のエジプト侵攻によってイスラム教が広まり、コプト教は衰えていきます。
現在のコプト派信者は、7%の少数派になっています。
建物の上に十字架があるので、キリスト教会であることが判りますが、丸屋根やイスラム寺院のミナレットのような塔からは、ヨーロッパの教会とは異なる感じを受けます。
眼下には、砂漠の中に満々と水をたたえたナセル湖が広がっています。
アスワンに到着して、まずアスワンハイダムの見学を行いました。
アスワンハイダムは、1970年に完成した、高さ111m、全長3,600mのナイル川を堰き止める巨大ロックフィルダムです。
ナイル川の氾濫防止と灌漑用水の確保、発電が目的で、砂漠の緑化も行った反面、ナイル川の水位が下がって塩害を生じるなどの負の影響も出ていると言います。
ダムサイトに立っているのは、完成を祝う記念塔です。
下流部の眺め。
日本の深い渓谷にかかるダムに比べると、高さに対して幅が広いため、スケール感は伝わってきません。
逆の上流部の眺め。
広大な湖が広がっており、ダム湖とは思えません。ナセル湖は、全長500kmに及び、琵琶湖の7.5倍の面積を持っているといいます。
アスワンハイダムは、第四次中東戦争においてイスラエル軍により爆弾を投下されたことから軍事施設扱いになっており、周囲に軍事基地もあるようです。観光対象ではありますが、銃を持った警備兵がおり、カメラの撮影は許されていても、ビデオの撮影は禁止されているようです。
ダムサイトには、ガラブシャ神殿の巨大な塔門が見えていました。
この神殿も水没を免れて移転されたものです。アメンヘテプ2世やトトメス3世が建造し、プトレマイオス時代やローマ時代に再建されたものです。太陽とも関係する方策の神マルルやデドウェン神が祀られていたといいます。
アスワンハイダムは、通り抜け禁止のためか、一旦左岸のゲートに戻りました。
ゲートを出た所の路肩で、車が停められて、アスワンの砂採取になりました。定番スポットになっているのか、足跡が多く残されていました。
あらかじめ用意してあったビニーール袋に砂漠の砂をつめました。
砂漠の砂採取は、先日のシルクロードの旅での月牙泉の砂に続いてですが、持ち帰った砂を見比べると、アスワンの砂は、赤みを帯びて細かいのが特徴的でした。
アスワンダムの堰堤で、右岸に渡りましたが、その途中で、アギルキア島にあるイシス神殿を眺めることができました。
イシス神殿もアスワンハイダムによって水没するところを、もとあったフィエラ島からアギルキア島に移動されて救助されました。
フィエラ島は、イシス神がホルス神を生んだ神聖な島とされ、イシス神殿は「ナイルの真珠」とも称えらられています。
この神殿は見たかったのですが、残念ながら遠望のみに終わりました。
ガラブシャ神殿にしてもイシス神にしても、パッケージツアーといっても、現地ガイドからの説明ははここまで及びませんでしたので、興味を引いたものは、まずは写真を撮っておいて、後で調べるという作業が必要になります。
アスワンの街に到着して、まずはナイル・クルーズの船にチェック・インし、昼食をとりました。
「ナイル・スタイル」という船に入っていきますが、ロビーをそのまま通り抜けて三隻目が乗船する「ソラリス」でした。船付き場が限られているため、ナイル・クルーズ船は、このような重列停船をするのが普通のようです。
自分の乗る船ではありませんが、下船する時には、岸側に見える船の名前を覚えておく必要がありました。
昼食後、街の背後にある石切り場に、未完のオベリスクを見学に出かけました。
アスワン産の花崗岩は、上質で堅く、ギザのクフ王のピラミッドの王の間も、ここの石で囲まれているといいます。
未完のオベリスクを見るには、石切り場の上に登る必要があります。日差しがきつく、暑さが堪えました。
未完のオベリスクは、長さ42m、重さ1168トンの、完成すればエジプト最大のものになるはずでしたが、ひびが入ってしまい、そのままになってしまいました。
なお、ガイドブックや現地ガイドの説明では、石の切り出しは、石に切り込みを入れ、そこに木のくさびを打ち込み、水で濡らすと木のくさびが膨張して石が割れると言われています。ところが、吉村作治教授によれば、実際にくさびを使って試みたが割れなかったとのことです。やはり、一列に鉄のくさびを打ち込んで、それを叩いていく方法が採られていたようです。
この巨大なオベリスクが、どのような神殿に立てられる予定であったのか、想像力がかき立てられます。
未完のオベリスク見学の後は、帆船のファルーカに乗ってクルーズ船に戻りましたが、その船付き場から、コプト派の教会を見ることができました。カイロ市内でもバスの車窓から多くのコプト派の教会を見ることはできたのですが、写真が撮れなかったので、アスワンの写真で代表することにします。
コプト派とは、エジプトを中心とする原始キリスト教の一派です。エジプトにおけるキリスト教の戦況は、AC40年頃に聖マルコによってアレキサンドリアから始まったといいます。2世紀にはエジプト全土に広がりましたが、450年には、古代キリスト教の中心地であったアレキサンドリアから異端とされて独立の道を進みます。7世紀のアラブ軍のエジプト侵攻によってイスラム教が広まり、コプト教は衰えていきます。
現在のコプト派信者は、7%の少数派になっています。
建物の上に十字架があるので、キリスト教会であることが判りますが、丸屋根やイスラム寺院のミナレットのような塔からは、ヨーロッパの教会とは異なる感じを受けます。