キャンディ・マーケットに続いては、仏歯寺を見学しました。キャンディの街の中心地といえるクイーンズ・ホテルの前で車を降りました。クイーンズ・ホテルは、1895年創業のイギリス統治時代を忍ばせるコロニアルスタイルの老舗ホテルで、ベラヘラ祭りの際には、ここが見学の一等地になります。
クイーンズ・ホテルの前が仏歯寺の入口ゲートになります。ここでは、靴はまだ履いたままで良いのですが、簡単な持ち物検査があります。
入口からは直線的な参道が設けられています。仏歯寺が見えていますが、その手前にある子供の像は、キャンディ王国終焉の際の悲劇を物語っています。
台座には、見落としたのですが、「ライオン・ハートのチャイルド・ヒーロー、ムッダマ・バンダラ、9歳 1814年5月17日、処刑者の刃を前にして、怯える兄に向い『兄さん怖れないで、僕がどんな風に死に向かうのか見せてあげる』と言った」と書かれているようです。
まず、キャンディ王国の歴史を振り返ってみましょう。
シンハラ王朝は、紀元前にアヌラータブラに最初の都を設けましたが、南インドからの侵略を受けて南に遷都を繰り返すことになりました。ポロンナルワなどを経て、1474年にキャンディに都を移すと一応の安定が得られました。しかし、近代に入ると外国からの圧力を受けることになりました。1505年に植民地支配を始めたポルトガルは、キャンディ王国から分離した西海岸のコーッテ王国を滅ぼした後に、キャンディ王国を正当な王権として認めました。しかし、香料貿易の利権を巡って対立するようになると、キャンディ王国は、植民地支配を狙っていたオランダと組んでポルトガルを追放しました。オランダは、はじめキリスト教を広める一方で仏教も保護する政策をとり、この政策の下でキャンディ王国は繁栄を極めました。しかし、ポルトガルと同じように貿易権を巡って対立するようになり、キャンディ王国は、今度は当時インドを支配していたイギリスと手を結んでオランダを追放しました。
しかし、コロンボ周辺を支配していたイギリスは、セイロン島で唯一残された独立王国のキャンディ王朝に対し強硬な政策をとり、1815年には、王朝に起こった内紛に乗じてキャンディ王朝を滅ぼして全島を植民地化してしまいました。
この子供の像は、キャンディ王朝滅亡のきっかけになった内紛の際に起こった悲劇に基づくものです。
キャンディ王国最後の王、スリー・ウィクラマ・ラジャシンハは、キャンディ王朝が既にイギリスの政治介入で黄昏時にあった19世紀のはじめ、18歳で戴冠しました。しかし、宮廷内は、
結束するどころか親族や大臣、族長たちが王位と利権を狙う蛇の巣になっていました。前前国王のスリ・ラジャディ・ラジャシンが非常に知的で聡明な人物だったせいもあり、無名の若い王子はいかにも頼りなさげに見られ、野心家であった大臣が、彼の傀儡として王子を使うために王に選んだとも伝えられています。
大臣はキャンディ・イギリス側双方に暗躍し、互いに戦争を始めさせるように工作活動を続け
、ついに20歳そこそこになったばかりのスリ・ヴィクラマ王に宣戦布告させるまでに至りました。この戦争は12年間続く長く陰惨な争いになり、キャンディで王座を巡る虐殺が繰り広げられました。
自身の領地で非常に尊敬されていた有力な領主アハリポラが反乱を起こすと、王はそれを制圧し、彼を処刑するため追跡しますが、アハリポラはコロンボのイギリス占領地内に逃げ込んでしまいます。
スリー・ウィクラマ・ラジャシンハ王は兵をアハリポラの家族のもとに向かわせ、領主の妻、赤ん坊を含めた3人の子供を拘束し、イギリス側に領主を引き渡すよう通告しますが、3週間たっても返事がなかったため、処刑が行われてしまいました。
この像は、兄弟が処刑される際に発せられた言葉を現したものです。男子兄弟は、斬首あるいは臼ですりつぶし殺されと言われており、母と小さな娘二人は重りをつけてキャンディ湖に沈められました。この残酷な家族の処刑が、民衆の心を王から離れさせる決定的な契機になったといいます。
家族を殺されたアハリポラは、イギリス軍にキャンディを攻撃するよう説得し、1815年、イギリスはキャンディを王の暴政から解放するとして進軍し、キャンディ王国は終焉を迎えました。拘束されたスリー・ウィクラマ・ラジャシンハ王は、処刑されることなく、数多くの南インドの権力者が収容されたインドのベロールフォート砦に送られ、そこでわずかな生活費を支給され52歳で世を去りました。
なお、アハリポラはイギリス支配下で重用されましたが、二年後に起きた大反乱の首謀者として囚われて、最後はイギリス統治領のモーリシャスで亡くなりました。
仏歯が収められた仏教の聖地で、このような悲惨な処刑が行われたのは、歴史の皮肉としかいえません。
参道脇に、ホウガンボク(砲丸の木)がありました。名前の通りに、砲丸のような大きな実がついていました。この木は、サラの木とも呼ばれ、サラ(沙羅)は、日本では沙羅双樹として知られています。二本並んだ沙羅の木の下で釈尊が入滅したことから、沙羅樹は沙羅双樹とも呼ばれるようになっています。
釈迦が生まれた所にあった無憂樹、釈迦が悟りを開いた所にあった菩提樹、釈迦が亡くなった所にあった沙羅双樹は、仏教三大聖樹とされています。
サラの木(ホウガンボク)の花。
沙羅双樹については、「齢80歳でブッダがクシナガールの地から涅槃に向かったとき,彼は二本の「沙羅の木」の間に横たわっていた。ブッダの入滅の際,周囲の沙羅の木は一斉に薄い黄色の花を白く変えた。」という言い伝えがあります。
平家物語の有名な冒頭の「祇園精舎の鐘の聲(声)、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。」も、この言い伝えに基づいています。
ただ問題なのは、ホウガンボクは日本では育たず、日本では代わりに白花を咲かせるナツツバキが沙羅の木とされています。さらに本家のインドでは、白い花を咲かせるフタバガキ科のサラの木が沙羅の木とされています。タイでは、スリランカと同じくホウガンボクが沙羅とされていますが、これは、仏教とともにスリランカから伝わったようです。
話はややこしくなっていますが、国によって沙羅の木が異なるのも興味深いところがあります。
参道の途中で足が止まりましたが、仏歯寺の前にやってきました。
入口には、八角堂が設けられています。
お馴染みになった像が飾られていました。
仏旗が並んでいました。
脇の小屋で靴を預けて、裸足になって入場します。
入口の両脇には、通常ならばガードストンが置かれているところですが、象のレリーフが飾られていました。
入口の階段下にはムーンストーン代わりの半円状のレリーフが置かれていました。
階段を上ったところに、ガードストーン風のレリーフが飾られていました。
仏歯寺の周囲には堀が巡らされていました。戦の際の防御施設としての役割もあるのでしょうか。
入口から入るとホールが設けられていました。
キャンディで行われるペラヘラ祭りの際には、ここまで象が入ってきて、一段上のテラスから仏歯を入れた舎利容器を象の背に載せるようです。
壁には、ペラヘラ祭りの様子を描いた絵が飾られていました。
ペラヘラとは、祭りの際に、ご神体を担うか象の背中に載せて行進することをいいます。特に7~8月にキャンデで行われるペラヘラ祭りは、仏歯寺に保管されている仏歯を舎利容器に入れて象の背中に載せ、数多くの踊り手や100頭にもの象も参加して行進することから、スリランカを代表するお祭りにになっています。
この絵では象の他に、縄や火の演技をする人や楽団が描かれています。
ご神体の仏歯を載せた象が描かれています。
ペラヘラを構成する人々は、ムチ打ち、旗持ち、太鼓奏者、象厩舎長、ダンサー、副在家総代、仏歯寺の象、在家総代、ウェスダンサー、キャンディ王国の各守護神殿総代、ラーンドーリと呼ばれる輿など多岐に及ぶといいます。宗教・政治それぞれの権威に交じって、音楽や踊りを受け持つ者も一緒に行列するところが特徴になっています。
絵からもペラヘラ祭りの盛大さがうかがわれます。
仏歯が行列に加わるようになったのは、1775年以降で、それ以前はキャンディに祀られていた国の四大守護神、すなわちナータ(弥勒菩薩)、ヴィシュヌ(スリランカと仏陀の守り神とされるヒンドゥー神)、カタラガマ(ヒンドゥー神シヴァの息子ムルガン)、パッティニ(疫病を祓う女神)をを中心とする祭祀であったといいます。
クイーンズ・ホテルの前が仏歯寺の入口ゲートになります。ここでは、靴はまだ履いたままで良いのですが、簡単な持ち物検査があります。
入口からは直線的な参道が設けられています。仏歯寺が見えていますが、その手前にある子供の像は、キャンディ王国終焉の際の悲劇を物語っています。
台座には、見落としたのですが、「ライオン・ハートのチャイルド・ヒーロー、ムッダマ・バンダラ、9歳 1814年5月17日、処刑者の刃を前にして、怯える兄に向い『兄さん怖れないで、僕がどんな風に死に向かうのか見せてあげる』と言った」と書かれているようです。
まず、キャンディ王国の歴史を振り返ってみましょう。
シンハラ王朝は、紀元前にアヌラータブラに最初の都を設けましたが、南インドからの侵略を受けて南に遷都を繰り返すことになりました。ポロンナルワなどを経て、1474年にキャンディに都を移すと一応の安定が得られました。しかし、近代に入ると外国からの圧力を受けることになりました。1505年に植民地支配を始めたポルトガルは、キャンディ王国から分離した西海岸のコーッテ王国を滅ぼした後に、キャンディ王国を正当な王権として認めました。しかし、香料貿易の利権を巡って対立するようになると、キャンディ王国は、植民地支配を狙っていたオランダと組んでポルトガルを追放しました。オランダは、はじめキリスト教を広める一方で仏教も保護する政策をとり、この政策の下でキャンディ王国は繁栄を極めました。しかし、ポルトガルと同じように貿易権を巡って対立するようになり、キャンディ王国は、今度は当時インドを支配していたイギリスと手を結んでオランダを追放しました。
しかし、コロンボ周辺を支配していたイギリスは、セイロン島で唯一残された独立王国のキャンディ王朝に対し強硬な政策をとり、1815年には、王朝に起こった内紛に乗じてキャンディ王朝を滅ぼして全島を植民地化してしまいました。
この子供の像は、キャンディ王朝滅亡のきっかけになった内紛の際に起こった悲劇に基づくものです。
キャンディ王国最後の王、スリー・ウィクラマ・ラジャシンハは、キャンディ王朝が既にイギリスの政治介入で黄昏時にあった19世紀のはじめ、18歳で戴冠しました。しかし、宮廷内は、
結束するどころか親族や大臣、族長たちが王位と利権を狙う蛇の巣になっていました。前前国王のスリ・ラジャディ・ラジャシンが非常に知的で聡明な人物だったせいもあり、無名の若い王子はいかにも頼りなさげに見られ、野心家であった大臣が、彼の傀儡として王子を使うために王に選んだとも伝えられています。
大臣はキャンディ・イギリス側双方に暗躍し、互いに戦争を始めさせるように工作活動を続け
、ついに20歳そこそこになったばかりのスリ・ヴィクラマ王に宣戦布告させるまでに至りました。この戦争は12年間続く長く陰惨な争いになり、キャンディで王座を巡る虐殺が繰り広げられました。
自身の領地で非常に尊敬されていた有力な領主アハリポラが反乱を起こすと、王はそれを制圧し、彼を処刑するため追跡しますが、アハリポラはコロンボのイギリス占領地内に逃げ込んでしまいます。
スリー・ウィクラマ・ラジャシンハ王は兵をアハリポラの家族のもとに向かわせ、領主の妻、赤ん坊を含めた3人の子供を拘束し、イギリス側に領主を引き渡すよう通告しますが、3週間たっても返事がなかったため、処刑が行われてしまいました。
この像は、兄弟が処刑される際に発せられた言葉を現したものです。男子兄弟は、斬首あるいは臼ですりつぶし殺されと言われており、母と小さな娘二人は重りをつけてキャンディ湖に沈められました。この残酷な家族の処刑が、民衆の心を王から離れさせる決定的な契機になったといいます。
家族を殺されたアハリポラは、イギリス軍にキャンディを攻撃するよう説得し、1815年、イギリスはキャンディを王の暴政から解放するとして進軍し、キャンディ王国は終焉を迎えました。拘束されたスリー・ウィクラマ・ラジャシンハ王は、処刑されることなく、数多くの南インドの権力者が収容されたインドのベロールフォート砦に送られ、そこでわずかな生活費を支給され52歳で世を去りました。
なお、アハリポラはイギリス支配下で重用されましたが、二年後に起きた大反乱の首謀者として囚われて、最後はイギリス統治領のモーリシャスで亡くなりました。
仏歯が収められた仏教の聖地で、このような悲惨な処刑が行われたのは、歴史の皮肉としかいえません。
参道脇に、ホウガンボク(砲丸の木)がありました。名前の通りに、砲丸のような大きな実がついていました。この木は、サラの木とも呼ばれ、サラ(沙羅)は、日本では沙羅双樹として知られています。二本並んだ沙羅の木の下で釈尊が入滅したことから、沙羅樹は沙羅双樹とも呼ばれるようになっています。
釈迦が生まれた所にあった無憂樹、釈迦が悟りを開いた所にあった菩提樹、釈迦が亡くなった所にあった沙羅双樹は、仏教三大聖樹とされています。
サラの木(ホウガンボク)の花。
沙羅双樹については、「齢80歳でブッダがクシナガールの地から涅槃に向かったとき,彼は二本の「沙羅の木」の間に横たわっていた。ブッダの入滅の際,周囲の沙羅の木は一斉に薄い黄色の花を白く変えた。」という言い伝えがあります。
平家物語の有名な冒頭の「祇園精舎の鐘の聲(声)、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。」も、この言い伝えに基づいています。
ただ問題なのは、ホウガンボクは日本では育たず、日本では代わりに白花を咲かせるナツツバキが沙羅の木とされています。さらに本家のインドでは、白い花を咲かせるフタバガキ科のサラの木が沙羅の木とされています。タイでは、スリランカと同じくホウガンボクが沙羅とされていますが、これは、仏教とともにスリランカから伝わったようです。
話はややこしくなっていますが、国によって沙羅の木が異なるのも興味深いところがあります。
参道の途中で足が止まりましたが、仏歯寺の前にやってきました。
入口には、八角堂が設けられています。
お馴染みになった像が飾られていました。
仏旗が並んでいました。
脇の小屋で靴を預けて、裸足になって入場します。
入口の両脇には、通常ならばガードストンが置かれているところですが、象のレリーフが飾られていました。
入口の階段下にはムーンストーン代わりの半円状のレリーフが置かれていました。
階段を上ったところに、ガードストーン風のレリーフが飾られていました。
仏歯寺の周囲には堀が巡らされていました。戦の際の防御施設としての役割もあるのでしょうか。
入口から入るとホールが設けられていました。
キャンディで行われるペラヘラ祭りの際には、ここまで象が入ってきて、一段上のテラスから仏歯を入れた舎利容器を象の背に載せるようです。
壁には、ペラヘラ祭りの様子を描いた絵が飾られていました。
ペラヘラとは、祭りの際に、ご神体を担うか象の背中に載せて行進することをいいます。特に7~8月にキャンデで行われるペラヘラ祭りは、仏歯寺に保管されている仏歯を舎利容器に入れて象の背中に載せ、数多くの踊り手や100頭にもの象も参加して行進することから、スリランカを代表するお祭りにになっています。
この絵では象の他に、縄や火の演技をする人や楽団が描かれています。
ご神体の仏歯を載せた象が描かれています。
ペラヘラを構成する人々は、ムチ打ち、旗持ち、太鼓奏者、象厩舎長、ダンサー、副在家総代、仏歯寺の象、在家総代、ウェスダンサー、キャンディ王国の各守護神殿総代、ラーンドーリと呼ばれる輿など多岐に及ぶといいます。宗教・政治それぞれの権威に交じって、音楽や踊りを受け持つ者も一緒に行列するところが特徴になっています。
絵からもペラヘラ祭りの盛大さがうかがわれます。
仏歯が行列に加わるようになったのは、1775年以降で、それ以前はキャンディに祀られていた国の四大守護神、すなわちナータ(弥勒菩薩)、ヴィシュヌ(スリランカと仏陀の守り神とされるヒンドゥー神)、カタラガマ(ヒンドゥー神シヴァの息子ムルガン)、パッティニ(疫病を祓う女神)をを中心とする祭祀であったといいます。