さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
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富神山と長谷堂城址(2008.7.27.)

2008年07月30日 | 登山
富神山と長谷堂城址(城山)は、関ヶ原の合戦の際に、上杉軍と最上・伊達軍が戦った古戦場です。

山形周辺には、三角形のおむすび山がいくつもありますが、この富神山もその一つで、体力維持のための登山の場として親しまれているようです。



北側の山王登山口から歩きだしました。急坂の登りを20分ほど頑張る必要があります。



富神山の山頂。



山頂は、山形方面の展望地になっています。

「市街地の中にぽっかり浮んでいる広い森が、山形城址霞城公園です。関ヶ原の戦いの頃、石田三成方直江兼続(上杉軍)が、徳川家康方、最上義光(最上軍)の拠点である山形城を攻めるためにここから城の様子を眺めようとしました。しかし、城には霞がかかってまったく見ることができません。10日間待っても霞は晴れず、その間に石田軍敗北の報が入り、上杉軍は撤退しました。このことから、十日見山(富神山)・霞ヶ城の名前が付けられたとも言われています。霞城公園内には、上杉軍を迎え撃つため出陣しようとしている最上義光の騎馬像があり、こちらをにらんでいます。」と書かれた看板が以前はあったのですが、無くなっていました。

由来のように、朝靄がかかって、山形の市街地は隠されていました。



西に向かう新登山道は、穏やかな歩きやすい道でした。ぶどう畑の中にでると、登山口も近くなります。



西登山口に出て、あとは車道歩きで、車に戻ります。



富神山から南に少し下がったところに長谷堂城址(城山)があります。

志村伊豆守光安が守将を務め、直江兼続率いる上杉軍二万に包囲されましたが、五千人の少数で頑強に抵抗し、激戦のすえ、上杉軍に大きな損害を与えています。

堅固な要塞であったため、亀ヶ城という別名ももらっています。



看板に従って集落内に入ると大きな駐車場が設けられており、その前が八幡登山口になります。



ひと登りすると八幡神社があります。


その先は、ゆるやかな尾根沿いの登りになります。



長谷堂城址の山頂は、曲輪に囲まれた台地になっています。長谷堂城址の石碑とあずまやが置かれています。



山頂からは、山形市街地が目の前に見えます。

ここが落とされたら、後は山形城が攻められることになります。



山頂には、稲荷神社が置かれていました。



また少し下ったところには、最上三十三観音の長谷堂観音のお堂がありました。城跡巡りの訪問者よりは、この参拝者の方が多くいました。

下りは、この参拝道を歩きました。



国道を少し北に向かったところに主水塚があります。激戦によって、上泉主水正泰綱が討ち死にし、その他の戦死者とともに葬った跡とのことです。

両山とも登り20分ほどの簡単な山でしたが、これで登山は終わりにして、米沢に向かいました。
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