マハムニ・パヤーの見学後に昼食をとり、一旦ホテルに入りました。ホテルは、旧王宮を囲む堀に面していたので、昼の休憩時間に道路を渡って、王宮の堀と城壁を眺めました。
旧王宮は、一辺約3kmの城壁と堀に囲まれています。
城壁の所々に立つ物見櫓がアクセントをつけていました。
ヤシの木が南国らしい風景を形作っています。
午後の観光では、まず旧王宮の見学を行いました。旧王宮は、東西南北の四つの門を備えていますが、観光客は東門から入場します。
堀にかかる橋の上からは、この日の最後に見学するマンダレー・ヒルを眺めることができました。
旧王宮の入場口では、兵士が警備しています。ガイドが手続きを行う間、バスを下りて、城壁を眺めました。入り口にいる銃を持った兵隊は、撮影禁止。
城壁の入り口は、警護のためか、バスの幅ぎりぎりの幅しかありませんでした。
旧王宮の敷地内は、ミャンマー国軍によって占有されており、緑の濃い中に住居や店が設けられています。旧王宮内は民間人が自由に立ち入ることはできなかったものが、1990年代に王宮が復元されたことによって、その部分に限って外国人も見学できるようになりました。
復元された王宮の入り口。
1858年に即位したコンバウン朝のミンドン王は、首都をアマラプラからマンダレーに移すことを決意し、1857年からマンダレーの街の建築がはじまりました。当時は、ヨーロッパ列強によるアジアの植民地化が進行しており、イギリスがミャンマーに進攻を開始していました。ミンドン王は外交手腕もあって王朝を存続しましたが、次のティーボー王が即位すると、イギリスはティーボー王を捕えてインドに追放してしまいます。1885年にはビルマのインド植民地化が行われ、マンダレーの王都の歴史は終わります。
第二次大戦時の1942年には、日本軍によってマンダレーは占領され、1945年の英印連合軍の反攻によって王宮は焼失してしまいました。
当時のまま残されていたのは城壁だけでしたが、1990年代に旧王宮の建物が復元されて、観光客にも開放されるようになっています。
大砲も置かれていました。第二次大戦当時のものでしょうか。
王宮に入ります。
正面には玉座が置かれています。
ミンドン王夫妻の人形が置かれています。ミンドン王は、在位は短かったですが、マンダレーの仏塔や寺院のほとんどを造った王様として崇拝されているようです。
王座の周りには、当時の什器が展示されていました。
ミンドン王の写真が展示されていました。
ティーボー王夫妻の写真。ティーボー王は、外交そっちのけで瞑想にふけっていたため、インドの進攻を許したようです。
旧王宮の見取り図です。
奥にも王座が造られていました。
建物が並ぶ中庭に進みました。
建物には、ミャンマー独特の細かい彫刻が施されています。
入り口にある塔が高くそびえています。
ひと際目を引くのは、この塔です。監視塔とのことです。
螺旋階段を使って上ることができました。
監視塔の頂上。
旧王宮の眺めが広がりました。
高い所から見下ろしているせいもありますが、映画セットのように見えます。
棟から下りて、王宮内を見て回りました。
この白い建物は、浴室と聞いたような。
建物の屋根の上に取り付けられた小屋は、監視のためのものとのことです。内部からではなく、外から登るとのことです。それほど厳重な監視が必要だったのですかね。
建物は、昔の形に再現されているといいますが、どうも安普請といった感じを受けてしまいます。金色のところは、金箔ではなくペンキで塗られているせいでしょうか。ミャンマーでは、金箔を張られて輝くパゴダや寺院を見てきたためかもしれません。
このように茶色に塗られた建物は、本来は漆塗りであったようです。
細かい彫刻は見事です。
昔の王宮が戦争によって焼失し、その責任の一端は日本にもあることは残念なことに思います。
旧王宮は、一辺約3kmの城壁と堀に囲まれています。
城壁の所々に立つ物見櫓がアクセントをつけていました。
ヤシの木が南国らしい風景を形作っています。
午後の観光では、まず旧王宮の見学を行いました。旧王宮は、東西南北の四つの門を備えていますが、観光客は東門から入場します。
堀にかかる橋の上からは、この日の最後に見学するマンダレー・ヒルを眺めることができました。
旧王宮の入場口では、兵士が警備しています。ガイドが手続きを行う間、バスを下りて、城壁を眺めました。入り口にいる銃を持った兵隊は、撮影禁止。
城壁の入り口は、警護のためか、バスの幅ぎりぎりの幅しかありませんでした。
旧王宮の敷地内は、ミャンマー国軍によって占有されており、緑の濃い中に住居や店が設けられています。旧王宮内は民間人が自由に立ち入ることはできなかったものが、1990年代に王宮が復元されたことによって、その部分に限って外国人も見学できるようになりました。
復元された王宮の入り口。
1858年に即位したコンバウン朝のミンドン王は、首都をアマラプラからマンダレーに移すことを決意し、1857年からマンダレーの街の建築がはじまりました。当時は、ヨーロッパ列強によるアジアの植民地化が進行しており、イギリスがミャンマーに進攻を開始していました。ミンドン王は外交手腕もあって王朝を存続しましたが、次のティーボー王が即位すると、イギリスはティーボー王を捕えてインドに追放してしまいます。1885年にはビルマのインド植民地化が行われ、マンダレーの王都の歴史は終わります。
第二次大戦時の1942年には、日本軍によってマンダレーは占領され、1945年の英印連合軍の反攻によって王宮は焼失してしまいました。
当時のまま残されていたのは城壁だけでしたが、1990年代に旧王宮の建物が復元されて、観光客にも開放されるようになっています。
大砲も置かれていました。第二次大戦当時のものでしょうか。
王宮に入ります。
正面には玉座が置かれています。
ミンドン王夫妻の人形が置かれています。ミンドン王は、在位は短かったですが、マンダレーの仏塔や寺院のほとんどを造った王様として崇拝されているようです。
王座の周りには、当時の什器が展示されていました。
ミンドン王の写真が展示されていました。
ティーボー王夫妻の写真。ティーボー王は、外交そっちのけで瞑想にふけっていたため、インドの進攻を許したようです。
旧王宮の見取り図です。
奥にも王座が造られていました。
建物が並ぶ中庭に進みました。
建物には、ミャンマー独特の細かい彫刻が施されています。
入り口にある塔が高くそびえています。
ひと際目を引くのは、この塔です。監視塔とのことです。
螺旋階段を使って上ることができました。
監視塔の頂上。
旧王宮の眺めが広がりました。
高い所から見下ろしているせいもありますが、映画セットのように見えます。
棟から下りて、王宮内を見て回りました。
この白い建物は、浴室と聞いたような。
建物の屋根の上に取り付けられた小屋は、監視のためのものとのことです。内部からではなく、外から登るとのことです。それほど厳重な監視が必要だったのですかね。
建物は、昔の形に再現されているといいますが、どうも安普請といった感じを受けてしまいます。金色のところは、金箔ではなくペンキで塗られているせいでしょうか。ミャンマーでは、金箔を張られて輝くパゴダや寺院を見てきたためかもしれません。
このように茶色に塗られた建物は、本来は漆塗りであったようです。
細かい彫刻は見事です。
昔の王宮が戦争によって焼失し、その責任の一端は日本にもあることは残念なことに思います。