エカテリーナ宮殿の内部の見学を続けていきましょう。
ここは白のダイニングルームと呼ばれるようです。
テーブルの上に食器が整えられていました。ここで、エカテリーナ2世は、私的な晩餐会を催したようです。食器は、高価なマイセン製が使われています。
各部屋の隅には、陶器製のペチカが置かれていました。
赤柱の間では、チェス盤が置かれていました。
壁のいたるところに、このような金が塗られて模様が描かれていました。天使の手元にある豆状の図形は、エカチェリーナ女帝の頭文字のEを現しているのでしょうか。
緑柱の食堂では、小型の鍵盤楽器が置かれていました。
肖像画が飾られた肖像の間では、女帝の衣装が展示されていました。
エカテリーナ宮殿の主として、エカテリーナ1世、アンナ、エリザヴェータ、エカテリーナ2世と、女帝が続いたので、誰の衣装か判りません。本で見られる肖像画では、それぞれの女帝の顔付や体形は、ほとんど同じように見えます。
この肖像画は、他の本で見られるものと比べると、エリザヴェータ女帝に見えるのですが、どうでしょうか。
この次が、エカテリーナ宮殿で最も有名な琥珀の間です。琥珀の間の室内では撮影禁止なので、隣りの肖像の間から撮影しました。それでも各部屋にいる監視員に見つかると、レンズの前をふさがれて警告されます。
琥珀の間は、部屋全体の装飾が琥珀で出来ています。第二次世界大戦のレニングラード包囲戦中にドイツ軍が琥珀を持ち去ったため、琥珀の間は失われていましたが、1979年から2003年にかけての修復作業によって、当時の姿に再建されました。
琥珀の間は、次のドアの間までの幅で、これまで通ってきた食堂の奥行きと同じなので、小さな部屋です。
琥珀の間の壁の拡大です。琥珀が埋め込まれて、装飾模様が造られています。
琥珀の間の原型とも言える「琥珀の部屋」は、当時のプロイセン王フリードリヒ1世によって構想され、制作が開始されました。しかし、フリードリヒ1世は琥珀の部屋の完成を見ることなくこの世を去り、フリードリヒ1世の子、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の時代に、ピョートル大帝が所望し、ロシアへ贈られることとなりました。しかし、装飾はすぐに組み立てられずに放置され、ピョートル大帝の死後、即位したエリザヴェータによって、現在のエルミタージュ美術館の冬宮の改築の際に、謁見の間の装飾として、ロシアで作られた装飾と共に利用されました。
その後、エカテリーナ2世の時代に、琥珀の間はエカテリーナ宮殿に移されました。エカテリーナ2世は琥珀の間をことのほか愛し、部外者の立ち入りを禁止していたといいます。
実際に見た感想ですが、琥珀は、どこが魅力なのか、いまいち判らないというのが本音です。
絵画の間。壁一面に絵がはめ込まれています。外交目的のレセプションやコンサートのために使用されまたようです。
第二次大戦中にこの部屋は燃えてしまいましたが、壁の絵画の130枚のうち114は枚は焼失を免れました。残りの16枚はエルミタージュ美術館などから補充して再建されたといいます。
各絵に、統一したテーマは無いようです。このような壁一面に絵をはめ込むと、絵の鑑賞というようりは、富の見せびらかしといった感じになってしまいますね。
白の小ダイニングルーム
皇帝エリザヴェータのプライベートルームでしたが、その後エカテリーナ2世のお気に入りの孫のために改装されました。
アレキサンドル1世の応接間
アレキサンドル1世の肖像画が飾られていますが、これはエルミタージュ美術館で見たものと同じですね。
この部屋中の壁は中国の絹で覆われていましたが、第二次大戦で失われたため、現在では白いダマスク織で再建されています。
これは、エカテリーナ2世の肖像画でしょうか。
緑のダイニングルーム
壁のレリーフは、ウェッジウッド陶器のカメオを模したジャスパーウェアーに似ていますね。
宮殿の見学を終えて、一階通路を戻ります。
壁際には、昔の写真が展示されていました。
第二次大戦後、エカテリーナ宮殿は、甚大な被害を受けました。この正面階段を写した写真では、屋根がなくなってしまっています。
豪華な宮殿が第二次大戦後に再建されたことからすると、現在の政府は、ロシア帝国の再現を目指しているようにも思われます。
ここは白のダイニングルームと呼ばれるようです。
テーブルの上に食器が整えられていました。ここで、エカテリーナ2世は、私的な晩餐会を催したようです。食器は、高価なマイセン製が使われています。
各部屋の隅には、陶器製のペチカが置かれていました。
赤柱の間では、チェス盤が置かれていました。
壁のいたるところに、このような金が塗られて模様が描かれていました。天使の手元にある豆状の図形は、エカチェリーナ女帝の頭文字のEを現しているのでしょうか。
緑柱の食堂では、小型の鍵盤楽器が置かれていました。
肖像画が飾られた肖像の間では、女帝の衣装が展示されていました。
エカテリーナ宮殿の主として、エカテリーナ1世、アンナ、エリザヴェータ、エカテリーナ2世と、女帝が続いたので、誰の衣装か判りません。本で見られる肖像画では、それぞれの女帝の顔付や体形は、ほとんど同じように見えます。
この肖像画は、他の本で見られるものと比べると、エリザヴェータ女帝に見えるのですが、どうでしょうか。
この次が、エカテリーナ宮殿で最も有名な琥珀の間です。琥珀の間の室内では撮影禁止なので、隣りの肖像の間から撮影しました。それでも各部屋にいる監視員に見つかると、レンズの前をふさがれて警告されます。
琥珀の間は、部屋全体の装飾が琥珀で出来ています。第二次世界大戦のレニングラード包囲戦中にドイツ軍が琥珀を持ち去ったため、琥珀の間は失われていましたが、1979年から2003年にかけての修復作業によって、当時の姿に再建されました。
琥珀の間は、次のドアの間までの幅で、これまで通ってきた食堂の奥行きと同じなので、小さな部屋です。
琥珀の間の壁の拡大です。琥珀が埋め込まれて、装飾模様が造られています。
琥珀の間の原型とも言える「琥珀の部屋」は、当時のプロイセン王フリードリヒ1世によって構想され、制作が開始されました。しかし、フリードリヒ1世は琥珀の部屋の完成を見ることなくこの世を去り、フリードリヒ1世の子、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の時代に、ピョートル大帝が所望し、ロシアへ贈られることとなりました。しかし、装飾はすぐに組み立てられずに放置され、ピョートル大帝の死後、即位したエリザヴェータによって、現在のエルミタージュ美術館の冬宮の改築の際に、謁見の間の装飾として、ロシアで作られた装飾と共に利用されました。
その後、エカテリーナ2世の時代に、琥珀の間はエカテリーナ宮殿に移されました。エカテリーナ2世は琥珀の間をことのほか愛し、部外者の立ち入りを禁止していたといいます。
実際に見た感想ですが、琥珀は、どこが魅力なのか、いまいち判らないというのが本音です。
絵画の間。壁一面に絵がはめ込まれています。外交目的のレセプションやコンサートのために使用されまたようです。
第二次大戦中にこの部屋は燃えてしまいましたが、壁の絵画の130枚のうち114は枚は焼失を免れました。残りの16枚はエルミタージュ美術館などから補充して再建されたといいます。
各絵に、統一したテーマは無いようです。このような壁一面に絵をはめ込むと、絵の鑑賞というようりは、富の見せびらかしといった感じになってしまいますね。
白の小ダイニングルーム
皇帝エリザヴェータのプライベートルームでしたが、その後エカテリーナ2世のお気に入りの孫のために改装されました。
アレキサンドル1世の応接間
アレキサンドル1世の肖像画が飾られていますが、これはエルミタージュ美術館で見たものと同じですね。
この部屋中の壁は中国の絹で覆われていましたが、第二次大戦で失われたため、現在では白いダマスク織で再建されています。
これは、エカテリーナ2世の肖像画でしょうか。
緑のダイニングルーム
壁のレリーフは、ウェッジウッド陶器のカメオを模したジャスパーウェアーに似ていますね。
宮殿の見学を終えて、一階通路を戻ります。
壁際には、昔の写真が展示されていました。
第二次大戦後、エカテリーナ宮殿は、甚大な被害を受けました。この正面階段を写した写真では、屋根がなくなってしまっています。
豪華な宮殿が第二次大戦後に再建されたことからすると、現在の政府は、ロシア帝国の再現を目指しているようにも思われます。