さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
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さすらいの風景 バスゴー その1

2019年02月18日 | 海外旅行
リキール僧院を後にしてレーに向かい、その手前45kmほど手前にあるバスゴーを訪れました。

バスゴー村の背後にあるラブタン・ラツェの丘には、立派な王城や僧院が建設されました。19世紀のドグラ戦争で城は破壊されて廃墟となりましたが、僧院は現在まで存続しています。



ここもラダックならではの魅力的な眺めです。



駐車場からの眺め。

11世紀、リンチェン・サンポがこの丘陵地に寺とストゥーパを建て、15世紀にラダックの主要都市となり王城や僧院が建てられました。17世紀半ばにはナムギャル王朝のもとで重要な軍事拠点となり、多くの寺院が建てられました。

右は、16世紀にツェワン・ナムギャル王によって建てられたチャンバ・ラカン(弥勒堂)。左の茶色の建物は王宮跡。左の白い建物はセルザン僧院。



セルザン僧院の左の一段下には、チャムチュン・ラカン(弥勒堂)が見えています。



崖の下には要塞跡を眺めることができました。



チャンバ・ラカン(弥勒堂)の下を歩きました。見上げる高さです。



崖際の道を通ってセルザン僧院に向かいました。



タルチョが、要塞跡の眺めに彩りを添えていました。



まずセルザン僧院を見学しました。ヘミス系・ドゥク派の僧院で、1623年にジャムヤン・ナムゲル王の供養のために、息子のセンゲ・ナムギャル王によって建てられました。

話しが少しそれますが。
ジャムヤン・ナムゲル王は、バルティスタンとの戦争で敗北して捕虜になり、現パキスタンのカプールに連行されました。ところが、ジャムヤン・ナムゲル王は男前で性格も魅力的であったため、アリ・ミール・シェール王に好かれて、三つの条件を飲めば、ラダックを返還することを約束されました。
アリ・ミール・シェール王の娘ギャル・カトゥン王女と結婚すること。ギャル・カトゥン王女を第一王妃として前王妃の二人の息子を廃位すること。ラダック王国内でイスラム教の布教に努力すること。ギャル・カトゥン王女は、絶世の美人だったので、ジャムヤン・ナムゲル王は願ったりと、この条件を受けました。婚礼の宴の際、アリ・ミール・シェール王は、ライオンがギャル・カトゥン王女に飛びかかって彼女の体内へと消えたという夢を見たことを話し、息子が生まれたらセンゲ(ライオン)・ナムギャルと名付けよと言いました。ジャムヤン・ナムゲル王は、ラダックに戻った後、イスラム教とともに、敗戦によって破壊された仏教寺院の復興にも力を注ぎ、次のセンゲ・ナムギャル王の時代にかけてラダックにおける仏教の最盛期を迎えることになりました。

ジャムヤン・ナムゲル王の物語は、まさにボリウッド映画的です。

内部には、7mほどの高さの弥勒菩薩が納められていました。お堂の二階部分へ頭が突き出しているため、顔を拝むことが難しくなっていました。



また両手を顔の前にかかげているのも、顔を見るのに障害になっていました。



手の間からなんとか見た弥勒菩薩のお顔。





周囲の壁も絵で埋め尽くされていました。



外から差し込む光の反射で絵が見にくくなっていました。







続いてチャムチュン・ラカン(弥勒堂)を見学しました。



中央に弥勒菩薩が置かれていました。



堂内は狭いために、数人の見学者でいっぱいの状態です。





壁画は全体が赤の基調の新グゲ様式です。







絵の保存状態は良いのですが、狭くて撮影が難しいのは残念です。



チャムチュン・ラカン(弥勒堂)の周りは回廊になっていました。



回廊からは展望が開けて、特に要塞跡の眺めが印象的でした。
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