さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 ウィーンの森 その3

2015年03月30日 | Weblog
今回の「ウィーンの森」訪問での目的であったマイヤーリンクにやってきました。

丘の上に立つのが、ハプスブルグ家ゆかりの狩りの館です。

1889年1月30日、皇太子ルドルフが、マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢を道連れに拳銃自殺した場所です。事件後、皇帝フランツ・ヨーゼフは、狩猟の館をカルメル修道会に捧げ、 皇太子が亡くなった寝室の部分を中心に取り壊し、小さな教会を作らせました。

横から見ると、教会部分が周りの建物とマッチしておらず、後で付け加えられたことがはっきりと判ります。



教会の入り口。



入り口の扉。細かい彫刻が施されています。



教会の内部。豪華な造りですが、内輪の礼拝堂のために、室内はそれほどの広さはありません。ルドルフの寝室を取り壊して吹き抜けにして、ベッドの真下に祭壇が造られています。



祭壇の上には、三位一体の絵が飾られています。





礼拝堂内部には、聖母像が置かれていました。エリーザベトの母親としての哀しみが伝わってきます。





礼拝堂の装飾に目が引かれます。



守護聖人でしょうか。



ステンドグラスも美しいものが飾られていました。





礼拝堂の背後の部屋には、マイヤーリンク事件関連の資料が展示されていました。

ルドルフは、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とエリーザベトの間に生まれました。母エリーザベトに代わって、厳格な祖母ゾフィーにより育てられ、スパルタ式教育を施されたことによって、ルドルフは内気で意固地な性格に育ちました。後に、エリーザベトが公式に親権を取り戻すと、7歳以降のルドルフの教育方針は一転しました。エリーザベトが付けた教育係は皇后好みの自由主義の信奉者であっため、ルドルフも自らの出自にもかかわらず貴族に対して批判的な態度を持つ自由主義者として育っていき、皇帝ヨーゼフと政治的に対立する立場を取るようになっていきました。その際、エリザベートは、宮廷を離れて旅の日々を送っており、ルドルフの助けにはなりませんでした。

1881年、ルドルフはベルギー王レオポルド2世の次女ステファニーと結婚し、娘も生まれましたが、性格の不一致は深刻なもので、2人の仲は冷え切ってしまいました。ルドルフは、結婚前からのことですが、貴族専門の娼婦や女優たちとの関係を続けることになりました。



1888年末頃、ルドルフは16歳の男爵令嬢マリー・ヴェッツェラと出会うと、恋に落ちました。ルドルフは、教皇レオ13世に宛ててステファニーとの離婚を求める書簡を送りましたが、教皇は「不許可」と回答し、この返書はルドルフにではなくローマ駐在の外交官を通じてフランツ・ヨーゼフ1世にが渡されたために一切が洩れてしまい、父帝の激しい怒りを呼び起こしました。

ここで頭に入れておくべきことは、男爵とは首尾よく爵位を"買う"ことはできた下級貴族ということで、ウィーンの旧弊な貴族社会には受け入れられない地位であったということです。

ルドルフはドイツ帝国宰相ビスマルクに不信感を抱いていたため、帝国のドイツ頼みの政策を嫌い、ロシアとフランスとの同盟を構想して画策しますが、新聞によって暴露されてしまいます。1889年1月26日、ルドルフは、激怒した父帝によって激しい叱責を受けました。



1889年1月29日、ルドルフはマリー・ヴェッツェラとともにマイヤーリンクの狩猟館に馬車で向かいました。翌30日、2発の銃声を聞いた執事が駆けつけると、ルドルフとマリーがベッドの上で血まみれになって死んでおり、傍らに拳銃が落ちていました。

まさか、その拳銃が展示されているとは思いませんでした。



はじめ、事件は「心臓発作」として報道されましたが、じきに「情死」としてヨーロッパ中に伝わり、様々な憶測を呼ぶことになりました。政治的暗殺が行われたという話もありますが、
事件の前の晩に、ルドルフはお気に入りの高級娼婦のミッツィ・カスパルを訪ねて共に過ごし、彼女に心中を持ちかけたが一笑に付されたため、仕方なくマリーを死出の旅の道連れに選んだとも言われています。



17才で亡くなったマリー・ヴェッツェラは、死亡を偽装するため毛皮のコートを着せられ、帽子をかぶせられて、ハイリゲンクロイツ修道院に馬車で運ばれました。

そこで、できあいの木の棺に入れられて、ハイリゲンクロイツの墓地に埋葬されました。その後、銅でできた豪華な棺に入れて埋葬され直されました。

しかし、マリー・ヴェッツェラの悲劇は続き、第二次世界大戦中の1945年と1992年に墓が暴かれて、その都度埋葬しなおされることになりました。

この木の棺は、最初に使われた木の棺のようです。



このマイヤーリンク事件は、世間の話題になり、いくつもの本が書かれました。その中でも有名なのが、フランスの作家クロード・アネ作の「うたかたの恋」です。



見学を終えて、丘の下の受付棟に戻りました。



ここでも、マイヤーリンク事件に関する写真の展示が行われていました。



なお、マイヤーリンクの教会内の撮影は禁止だったという旅行記も見られますが、ガイドからは、どんどん写真を撮ってくださいと言われました。



このマイヤーリンク事件は、クロード・アネ作の「うたかたの恋」の人気もあって、映画になって、これも評判を呼びました。

これはルドルフをシャルル・ボワイエ、マリーをダニエル・ダリューが演じた1936年の映画です。



これは、マイヤーリンクの館での最後の場面。

美男・美女が演じるので心中事件として納得がいくのですが、実際のルドルフの言行を考えると、疑いが湧いてきます。

フランス人は、この「うたかたの恋」が特にお気に入りのようで、1968年には、ルドルフをオマー・シャリフ、マリーをカトリーヌ・ドヌーヴで再映画化されています。こちらは、レンタルビデオ屋で見つかりませんでした。二人とも名優には違いないけど、ちょっとイメージが違うような気もします。

現在のマイヤーリンクの訪問客もフランス人が多いようです。

マイヤーリンク訪問によって、ミュージカル「エリザベート」の重要な場面を体験することができました。ここには、トートの影がただよっているような気もしました。
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