さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
http://iide.hp.infoseek.co.jp/

さすらいの風景 ウランバートル その2

2018年11月20日 | 国内旅行
スフバートル広場に続いて、日本人墓地跡に向かいました。

日本人墓地跡は、ウアンバートル中心部から北東約15kmの距離にあります。民家が郊外にまで広がってきていました。遊牧民の伝統を今でも残しているようで、庭にゲルが設けられているのを良く見かけました。



日本人墓地跡は丘の上にあり、現在は慰霊碑が設けられています。



慰霊碑へと階段が続いていました。



階段下の脇に小さな資料室が設けられていました。



亡くなった抑留者の名前のプレートが置かれていました。日本人墓地には835柱の遺骨が埋葬されており、そのうち名前の判っているものは614柱であったといいます。

日ソ不可侵条約を破棄してソ連軍が対日宣戦布告をした2日後の1945年8月11日に、モンゴルはソ連にならった形で対日宣戦布告しました。8月15日の終戦(戦勝国側ではポツダム宣言による降伏文書調印の9月2日が終戦日)まで間もないことから実際の戦闘は無かったようでしたが、モンゴルは、この時の論功行賞としてソ連が捕虜とした日本陸軍将兵と民間人のうち、1万2千名あまりを労働力として受け取りました。シベリア抑留のような政治・思想教育は無かったようですが、厳しい労働環境によって、1947年12月までの約2年間、1618人がモンゴルで命を落とし、シベリア抑留者を超える13%の死亡率がもたらされました。

ウランバートルには、モンゴル国内40か所以上に設けられた収容所のうち半数近くが置かれ、収容者数は4000名を超えたとされています。この間、日本人は、政府官庁街や大学などの建設に動員され、ウランバートルを近代都市に作り替えるのに貢献しました。「



階段の上には、日の丸を思い出させる円形の広場が設けられていました。



その中央にはモンゴルの地図が置かれいます。



その地図の上には、縦書きで「日本の方向」を示す矢印が描かれていました。



最上部の広場へ。



献花台が置かれていました。また壁に掲げられてプレートには、「日本人死亡者慰霊碑 さきの大戦の後 1945年から1947年の間に 祖国への帰還を希みながら この大戦で亡くなられた 日本人の方々を偲び 平和への思いをこめて この碑を建設する 日本政府」と書かれていました。



最上部から見た中間の円形広場。



丘の上にあることから周囲の展望が広がっています。谷間に民家が広がってきていました。



ウランバートル中心部方向の眺め。交通渋滞のせいか、スモッグがかかっていました。



階段脇に置かれたお地蔵様。



駐車場脇に置かれた碑。

日本人抑留者の墓地としては、ウズベキスタンのタシケント、カザフスタんのアルマトイでも訪れましたが、これらの都市の顔になっているオペラ劇場などの建物が日本人抑留者によって造られたということは考えさせられるものがあります。



今回の旅行は、「砂丘・大草原・湖・大自然を愛でるこだわりのモンゴル」ということで、花を見ることも目的の一つでした。

この花は、ここでしか見ませんでしたが、乾燥地の中で夜露を集めるための細かい毛が生えていました。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« さすらいの風景 ウランバー... | トップ | さすらいの風景 ウランバー... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

国内旅行」カテゴリの最新記事