
昌徳宮(チャンドックン)は、李氏朝鮮第三代王太宗が1405年に建てた離宮で、文禄・慶長の乱で焼失しましたが、1615年に再建され、景福宮に代わって代々の王が政務を取り行ってきました。
ソウルにある王宮の中ではもっとも保存状態が良いため、ユネスコの世界遺産にも登録されています。
まずは、敦化門をくぐります。1607年に再建された木造の門で、韓国最古の門といわれます。

韓国最古の橋といわれる錦川橋を渡ると、その先には進善門があります。

錦川橋には、おなじみになったヘテ像も置かれています。

進善門の先は広場になって、肅章門と仁政門が置かれています。

政門をくぐった先には、儀式の執り行われた正殿である仁政殿があります。

品階石も置かれており、文官と武官がそれぞれに分かれて整列して並びました。

殿上への階段には、鳳凰のレリーフが飾られています。

階段の手すりは、ヘテ像になっています。

仁政殿の中に置かれた王座です。

奥に進むと、宣政殿の入り口になる宣政門があります。

建物の屋根が重なって、美しい眺めを造っています。オンドルの煙突があるのは、韓国ならではのことです。

宣政殿では、王が日常の政務を執り行いました。

宣政殿の屋根は、ここだけが青瓦が置かれています。
現在の韓国大統領官邸の屋根が青瓦が貼られて青瓦台と呼ばれるのも、この王宮に由来しています。

走獣の屋根飾りも見られます。

雷も鳴る本降りの雨になってきました。

宣平門の先には、大造殿があります。

大造殿は、王と王妃の寝室です。1917年火災に遭い、1920年に景福宮の交泰殿を移して建てられました。ここで最後の王である純宗が崩御しました。
この建物でも、王の寝室として他にも見られるように、天の気を妨げることがないように、屋根に横木が渡されていません。


王宮の建物群と少し離れて、楽善斎があります。
後宮付属の建物で、王の死後、王の側室や女官などが残りの人生を送っていたといいます。

ここでは、日本の梨本宮家から最後の皇太子である李垠に嫁いだ方子(まさこ)が晩年を過ごしました。
李方子は、日本の皇族の梨本宮家に生まれ、大韓帝国の皇太子の李垠に嫁ぎます。婚礼直前の暗殺未遂事件、毒殺説も流布する長男の急逝に見舞われながらも、「日鮮の架け橋」として生きていくことになります。
日本の敗戦による日本国憲法の施行に伴い、李垠・方子夫妻は王公族の身分と日本国籍を喪失して一在日韓国人となってしまいます。日本での生活にも困窮しますが、大韓民国の初代大統領李承晩により帰国を妨げられます。1960年には、李垠が脳梗塞で倒れてしまいます。1963年になって、朴正煕大統領の計らいで夫妻はようやく帰国を果たし、楽善斎で生活することになりましが、李垠は、1970年に病が治ることなく亡くなってしまいます。
かつての国王としての財産は没収されおり、韓国政府から支給される経費は、李垠の入院費と生活費で消えしまいます。方子は資金を稼ぐために、趣味で作っていた七宝焼を売ったり、李王朝の宮中衣装によるショーを開いたりと、さまざまな活動を行っていきます。一方、ポリオなどで麻痺した子どもたちの自立能力を引き出すことを目指して精神薄弱児の教育に情熱を注ぎます。多くの韓国国民から、「韓国障害児の母」として敬愛されて、1989年に数奇な人生をとじます。その葬儀は、準国葬で行われました。
李王朝の位牌を安置する宗廟でも、英王こと李垠とともに皇太子妃李氏として祀られています。

本降りの雨のせいもあるのでしょうが、楽善斎は、ここで過ごした多くの女性の思いが積もって暗く沈んでいるように感じられました。
昌徳宮では、付属の庭園の秘園も有名ですが、入場時間の関係もあって、今回は見学することはできませんでした。
ソウルにある王宮の中ではもっとも保存状態が良いため、ユネスコの世界遺産にも登録されています。
まずは、敦化門をくぐります。1607年に再建された木造の門で、韓国最古の門といわれます。

韓国最古の橋といわれる錦川橋を渡ると、その先には進善門があります。

錦川橋には、おなじみになったヘテ像も置かれています。

進善門の先は広場になって、肅章門と仁政門が置かれています。

政門をくぐった先には、儀式の執り行われた正殿である仁政殿があります。

品階石も置かれており、文官と武官がそれぞれに分かれて整列して並びました。

殿上への階段には、鳳凰のレリーフが飾られています。

階段の手すりは、ヘテ像になっています。

仁政殿の中に置かれた王座です。

奥に進むと、宣政殿の入り口になる宣政門があります。

建物の屋根が重なって、美しい眺めを造っています。オンドルの煙突があるのは、韓国ならではのことです。

宣政殿では、王が日常の政務を執り行いました。

宣政殿の屋根は、ここだけが青瓦が置かれています。
現在の韓国大統領官邸の屋根が青瓦が貼られて青瓦台と呼ばれるのも、この王宮に由来しています。

走獣の屋根飾りも見られます。

雷も鳴る本降りの雨になってきました。

宣平門の先には、大造殿があります。

大造殿は、王と王妃の寝室です。1917年火災に遭い、1920年に景福宮の交泰殿を移して建てられました。ここで最後の王である純宗が崩御しました。
この建物でも、王の寝室として他にも見られるように、天の気を妨げることがないように、屋根に横木が渡されていません。


王宮の建物群と少し離れて、楽善斎があります。
後宮付属の建物で、王の死後、王の側室や女官などが残りの人生を送っていたといいます。

ここでは、日本の梨本宮家から最後の皇太子である李垠に嫁いだ方子(まさこ)が晩年を過ごしました。
李方子は、日本の皇族の梨本宮家に生まれ、大韓帝国の皇太子の李垠に嫁ぎます。婚礼直前の暗殺未遂事件、毒殺説も流布する長男の急逝に見舞われながらも、「日鮮の架け橋」として生きていくことになります。
日本の敗戦による日本国憲法の施行に伴い、李垠・方子夫妻は王公族の身分と日本国籍を喪失して一在日韓国人となってしまいます。日本での生活にも困窮しますが、大韓民国の初代大統領李承晩により帰国を妨げられます。1960年には、李垠が脳梗塞で倒れてしまいます。1963年になって、朴正煕大統領の計らいで夫妻はようやく帰国を果たし、楽善斎で生活することになりましが、李垠は、1970年に病が治ることなく亡くなってしまいます。
かつての国王としての財産は没収されおり、韓国政府から支給される経費は、李垠の入院費と生活費で消えしまいます。方子は資金を稼ぐために、趣味で作っていた七宝焼を売ったり、李王朝の宮中衣装によるショーを開いたりと、さまざまな活動を行っていきます。一方、ポリオなどで麻痺した子どもたちの自立能力を引き出すことを目指して精神薄弱児の教育に情熱を注ぎます。多くの韓国国民から、「韓国障害児の母」として敬愛されて、1989年に数奇な人生をとじます。その葬儀は、準国葬で行われました。
李王朝の位牌を安置する宗廟でも、英王こと李垠とともに皇太子妃李氏として祀られています。

本降りの雨のせいもあるのでしょうが、楽善斎は、ここで過ごした多くの女性の思いが積もって暗く沈んでいるように感じられました。
昌徳宮では、付属の庭園の秘園も有名ですが、入場時間の関係もあって、今回は見学することはできませんでした。