さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 クニャ・ウルゲンチ その1

2019年11月26日 | 海外旅行
ようやくトルクメニスタンに入国し、クニャ・ウルゲンチに向かいました。

車窓からは、綿花畑が広がり、のどかな田園風景が広がっていました。この綿花栽培についても問題があるのですが、それについては後日。

トルクメニスタンは、大統領の独裁によって「中央アジアの北朝鮮」と呼ばれるように、国民の自由は極度に制限されています。また、「報道の自由度2019年」では北朝鮮を抑えて堂々の最下位にランキングされています(北朝鮮は下から二番目)。最近は、観光客を受け入れており、撮影禁止場所などに注意していれば、拘束のような身の危険性は感じませんでしたが、他の国とは異なる違和感を今後の旅で感じることになりました。



クニャ・ウルゲンチの村で昼食。レストランの看板は出ていませんでした。ツーリストのために民家に昼食の提供を頼んでいるようです。



食事を終えて通りで眺めていると、学生が通り過ぎました。女の子は、帽子に緑の服装という制服が決まっています。胸元部の模様で個性を出すようです。また、おさげというのも決まっているようです。

後の市場見学で、おさげの付け髪を売っているのを見てしまいました。なんらかの理由でおさげができない子は、付け髪を付けるようです。日本の学校での髪型校則と似ていますね。



年下の子は、白いエプロンも上に着るようです。



クニャ・ウルゲンチは、歴史のある街ですが、現在は鄙びた田舎町です。



町はずれに進んで、チュラベク・ハニム廟の前に出ました。

クニャ・ウルゲンチは、アムダリヤ川の沿岸に位置していたため、シルクロード沿いの最大の都市となり、12~13世紀にホラズム・シャー王朝の首都として黄金期を迎えました。しかし、1221年にモンゴル軍により破壊され、住民は虐殺されました。その後、復興が見られますが、アムダリヤの流れが変わったため、人々は、現在はウズベキスタンのウルゲンチやヒヴァに移り住みました。クニャ・ウルゲンチのクニャは古いという意味です。19世紀に運河ができたため、少し人々が戻ってきています。

クニャ・ウルゲンチには、11~16世紀の遺跡が点在しており、2005年に世界遺産に登録されています。



チュラベク・ハニム廟は、1333年に建設された高さ25mの霊廟です。

考古学者の説によれば、チュラベク・ハニムは、クトゥルグ・ティムールの正妻で、その当時は宮殿として使われていたといいます。



ファサードのアーチ部にタイル装飾が一部残っていました。



建設当時は美しい装飾が施されていたことがうかがわれます。



廟の内部に進むと、地下の墓所に続く階段がありました。





ほの暗い堂内に格子窓から光が差し込んでいました。



チュラベク・ハニム廟の天井ドームは保存状態が良く、一番の見どころになっています。ドーム内部の黄色い星は全部で365個で一年の日数。24個の窓は24時間、昼を表す開いた12個の窓と、夜を表す閉じた12個の窓が交互に並んでいます。さらに、その下の12のアーチは12ヶ月を表しているといいます。



チュラベク・ハニム廟の道路をはさんだ向かいには、クトゥルグ・ティムールのミナレットをはじめとする遺跡群を望むことができました。



遊歩道を歩いてクトゥルグ・ティムールのミナレットに向かいました。



遊歩道を歩いていくと、セイト・アフメット廟が現れました。11世紀の聖人の霊廟で、建物は19世紀のものです。廟内の棺の周りを7周するとメッカに行くのと同じ効力があるということで巡礼者で賑わっていました。

外観のみで通過。
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