ドブロヴニク目指してアドリア海に沿って南下していくと、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナとの国境に出ました。ドブロヴニクは、クロアチアの飛び地になっています。
ここの国境の出入手続きは簡略化されています。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナに入るとネウムの街です。ネウムの街の幅21kmだけが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの海岸線になっています。ネウムの街の内陸部は山地になっており、細い道しか通じていません。ドブロヴニクがクロアチアの飛び地になっているように、ネウムは両脇をクロアチアに挟まれた街になっています。
特殊な立地条件のネウムの街ですが、クロアチアに比べて物価が安いということで、観光客向けのスーパーが何軒も開店しています。私たちのバスもトイレ休憩を兼ねてスーパーに立ち寄りました。
スーパーの前のテラスからは、アドリア海に沿って広がるネウムの街を眺めることができました。
ネウムの街は、海沿いの崖にへばりつくように広がっています。
民家の屋上に葡萄棚が美しいテラスがありました。アドリア海を眺めながらワインを飲むのは最高の気分でしょうね。
海の向こうに広がるのはペリェシャツ半島で島ではありません。
海を挟んだ向こうのペリェシャツ半島には、クロアチアのマークが掲示してありました。
このようなネウムに変則的な国境が引かれたのは、古い歴史に由来します。
今から500年前、このアドリア海の沿岸地方は、ダルマチアと呼ばれ、かつてはローマ帝国、その後は東ローマ帝国(ビサンティン帝国)の領域でした。7世紀に始まるスラブ系民族の侵入とビサンティン帝国の衰退に伴って、クロアチア王国が10世紀に誕生しましたが、海岸沿いの港にはベネチアの植民地が残されていました。
11世紀末にクロアチア王国はハンガリー王国に吸収されてしまいます。ベネチアの植民地の中には、本国に反旗をひるがえしてハンガリー王国と手を結ぼうとするものも出てきました。ラグーザ(現ドゥブロヴニク)は、ベネチアからハンガリーへ乗り換えましたが、1390年にセルビアがダルマチアの大半を併合したため、ラグーザは宗主国のハンガリーから切り離されて独立国のようになりました。
その後勢力をのばしてきたのがオスマン・トルコで、1459年にセルビア王国、1463年にボスニア王国を滅ぼしてしまいます。1571年のレバントの海戦でオスマン・トルコが敗れると、機を見るのがうまいラグーザは、今度はオスマン・トルコに貢物を納めることで安全を保障してもらい、引き続き独立国のような地位を維持してベネチアと貿易を競うことになりました。
17世紀にウィーンへ侵入しようとしたオスマン・トルコがオーストリアに撃退されると、ベネチアもトルコと戦争を行ってダルマチア地方を支配下に置きました。その後、ベネチアとトルコ保護下のラグーザとの紛争を防ぐために、ダルマチアとラグーザとの間の海岸線にトルコ領の「緩衝地帯」を作り、両者を引き離すことになりました。このトルコ領の緩衝地帯がネウムの街の始まりです。
オーストリア統治時代を経てユーゴスラビア連邦時代になりますが、トルコやオーストリア統治時代からの歴史的な地域区分をもとにして6つの共和国が作られました。ユーゴスラビア連邦内の各共和国の独立の際に、昔の国境線が復活してネウムはボスニア領、ドゥブロヴニクはクロアチア領になり、変則的な飛び地ができあがりました。
ドゥブロヴニクの飛び地を解消するため、本土から僅かな距離しかないペリェシャツ半島に橋を架けるという計画が出ましたが実現していません。ボスニアは、橋によってネウムに造る予定の港に大型船が入ってこれなくなると反対し、これに対しクロアチアはネレトヴァ川の河口部のプロチェ港のボスニアによる管理を提案しましたが、これにはクロアチア側住民からの反対があったようです。
ドゥブロヴニクの見学を終えてからの移動の際にもネウムに立ち寄りました。今度は別なスーパーでした。時間が早くて店は閉まっていたのですが、他の店に行こうということでバスに戻ろうとすると、店主が急いでやってきて店を開けました。バス一台分の買い物客なので、見逃すわけにはいかないでしょう。
この店の前からも良い眺めが広がっていました。
ネウムの二回の買い物と、クロアチア出国間際のドライブ・インでのクロアチア通貨の使い切りで、チョコレートやクッキーをかなり買い込むことになってしまいました。中央のクラシュ社バヤデラへーゼルナッツ&アーモンドチョコレートが定番土産になっています。他の板チョコも癖もなく口に合う味でした。チョコレートを買いすぎてしまったため、グラーツの空港からの帰国でしたが、オーストリア名物モーツァルト・チョコは、チョコレートは充分ということで買わないことになりました。
ここの国境の出入手続きは簡略化されています。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナに入るとネウムの街です。ネウムの街の幅21kmだけが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの海岸線になっています。ネウムの街の内陸部は山地になっており、細い道しか通じていません。ドブロヴニクがクロアチアの飛び地になっているように、ネウムは両脇をクロアチアに挟まれた街になっています。
特殊な立地条件のネウムの街ですが、クロアチアに比べて物価が安いということで、観光客向けのスーパーが何軒も開店しています。私たちのバスもトイレ休憩を兼ねてスーパーに立ち寄りました。
スーパーの前のテラスからは、アドリア海に沿って広がるネウムの街を眺めることができました。
ネウムの街は、海沿いの崖にへばりつくように広がっています。
民家の屋上に葡萄棚が美しいテラスがありました。アドリア海を眺めながらワインを飲むのは最高の気分でしょうね。
海の向こうに広がるのはペリェシャツ半島で島ではありません。
海を挟んだ向こうのペリェシャツ半島には、クロアチアのマークが掲示してありました。
このようなネウムに変則的な国境が引かれたのは、古い歴史に由来します。
今から500年前、このアドリア海の沿岸地方は、ダルマチアと呼ばれ、かつてはローマ帝国、その後は東ローマ帝国(ビサンティン帝国)の領域でした。7世紀に始まるスラブ系民族の侵入とビサンティン帝国の衰退に伴って、クロアチア王国が10世紀に誕生しましたが、海岸沿いの港にはベネチアの植民地が残されていました。
11世紀末にクロアチア王国はハンガリー王国に吸収されてしまいます。ベネチアの植民地の中には、本国に反旗をひるがえしてハンガリー王国と手を結ぼうとするものも出てきました。ラグーザ(現ドゥブロヴニク)は、ベネチアからハンガリーへ乗り換えましたが、1390年にセルビアがダルマチアの大半を併合したため、ラグーザは宗主国のハンガリーから切り離されて独立国のようになりました。
その後勢力をのばしてきたのがオスマン・トルコで、1459年にセルビア王国、1463年にボスニア王国を滅ぼしてしまいます。1571年のレバントの海戦でオスマン・トルコが敗れると、機を見るのがうまいラグーザは、今度はオスマン・トルコに貢物を納めることで安全を保障してもらい、引き続き独立国のような地位を維持してベネチアと貿易を競うことになりました。
17世紀にウィーンへ侵入しようとしたオスマン・トルコがオーストリアに撃退されると、ベネチアもトルコと戦争を行ってダルマチア地方を支配下に置きました。その後、ベネチアとトルコ保護下のラグーザとの紛争を防ぐために、ダルマチアとラグーザとの間の海岸線にトルコ領の「緩衝地帯」を作り、両者を引き離すことになりました。このトルコ領の緩衝地帯がネウムの街の始まりです。
オーストリア統治時代を経てユーゴスラビア連邦時代になりますが、トルコやオーストリア統治時代からの歴史的な地域区分をもとにして6つの共和国が作られました。ユーゴスラビア連邦内の各共和国の独立の際に、昔の国境線が復活してネウムはボスニア領、ドゥブロヴニクはクロアチア領になり、変則的な飛び地ができあがりました。
ドゥブロヴニクの飛び地を解消するため、本土から僅かな距離しかないペリェシャツ半島に橋を架けるという計画が出ましたが実現していません。ボスニアは、橋によってネウムに造る予定の港に大型船が入ってこれなくなると反対し、これに対しクロアチアはネレトヴァ川の河口部のプロチェ港のボスニアによる管理を提案しましたが、これにはクロアチア側住民からの反対があったようです。
ドゥブロヴニクの見学を終えてからの移動の際にもネウムに立ち寄りました。今度は別なスーパーでした。時間が早くて店は閉まっていたのですが、他の店に行こうということでバスに戻ろうとすると、店主が急いでやってきて店を開けました。バス一台分の買い物客なので、見逃すわけにはいかないでしょう。
この店の前からも良い眺めが広がっていました。
ネウムの二回の買い物と、クロアチア出国間際のドライブ・インでのクロアチア通貨の使い切りで、チョコレートやクッキーをかなり買い込むことになってしまいました。中央のクラシュ社バヤデラへーゼルナッツ&アーモンドチョコレートが定番土産になっています。他の板チョコも癖もなく口に合う味でした。チョコレートを買いすぎてしまったため、グラーツの空港からの帰国でしたが、オーストリア名物モーツァルト・チョコは、チョコレートは充分ということで買わないことになりました。