成都に戻ってきました。やはり大都市です。
青羊宮の前を通りました。
青羊宮は、起源を周代(BC1046年頃~BC256年)に遡ることのできる、成都で最も大きな道観(道教寺院)です。その名前は、老子が青い羊に乗ってやってきてここで教えを説いたことからきているといいます。
残念ながら見学は無し。
なんとか武侯祠の見学を行えることになりました。時間はすでに17時過ぎ。
入口の額には、「漢昭烈廟」と書かれています。これは、入り口に劉備玄徳のおくり名「昭烈帝」に由来しています。
ここには劉備玄徳を祀る「漢昭烈廟」だけがありましたが、約600年前の明の時代に、諸葛孔明死後のおくり名「忠武侯」に因んでつけられ「武侯祠」が加えられて、一般に武侯祠と呼ばれるようになりました。
これは、劉備玄徳よりも諸葛孔明の方が人気が高いことによるといいます。
入口を入ると、奥にライトアップされた像が見えてきました。
通路の左右に設けられた石碑を収めたお堂が設けられていました。
右手は、809年建立の唐碑。正式には「蜀丞相諸葛武侯祠堂碑」といい、文章は裴度、書法は柳公綽、彫刻は魯建と、当時の名匠達によるもので、文章、筆跡、石彫のすべてが優れていることから「三絶碑」と呼ばれます。
左は、明碑。1547年建立。石碑には諸葛孔明の生涯の事績が書かれています。なお、碑を乗せているのは、亀ではなく竜とのこと。
二門をくぐります。
二門をくぐって、ありゃーと残念に思ったのは、劉備殿の前の左右に広がる回廊のうち、左手が工事中だったことです。この回廊には、武官の像と出師表があるので、是非とも見たいと思っていました。
壁には写真が掲示されていたのでこれで我慢することにしました。
筆頭は趙雲子龍の全14体。
いずれ再訪した時の覚えに、以下も記しておきましょう。
孫乾公祐
張翼伯恭
馬超孟起
王平子均
姜維伯約
黄忠漢升
廖化元倹
向寵
傅僉
馬忠徳信
張嶷伯岐
張南文進
馮習休元
小説やゲームでも馴染みのない名前があります。
馬超孟起
一応、五虎将軍は載せておきましょう。
黄忠漢升
五虎将軍の一人です。
姜維伯約
諸葛孔明の後継者として蜀を守って魏と戦いましたが、劉禅降伏による蜀漢の滅亡後に反乱を企てましたが、計画が失敗して殺害されました。姜維は、実際には内政をかえりみずに北伐に入れ込んで蜀の滅亡を早めたという評価もありますが、三国志演義では諸葛孔明亡き後の後継者として活躍しています。
蜀の武将として名の通っている一人に魏延が挙げられますが、三国志演義でもなにかと諸葛孔明に背いた因縁のある人物として描かれているので、省かれていて当然ともいえるでしょう。
向かって右手の回廊には、文官の像が並んでいます。武官の方に入っていた孫乾公祐はむしろこちらと思うのですが。できたら文官の回廊の方が工事中であって欲しかった。
文官は、筆頭をほう統士元(左)とする全14体。
ほう統士元は、「臥竜(がりょう)」と呼ばれた諸葛亮に対して、「鳳雛(ほうすう)」と称せられた名軍師ですね。「落鳳坡」において、早い時期に戦死してしまったのは残念です。
以下は
簡雍憲和(写真右)
呂凱季平
傳とう
費い文偉
董和幼宰
とう芝伯苗
陳震考起
蒋えん公えん
董允休昭
秦ふく子ちょく
楊洪季休
馬良季常
程畿季然
武官以上に文官は知らない名前が並んでいます。これらを含めて、武侯祠に祀られている人物は、三国志検定の代わりになりそうです。
これらの知らない名前の多くは、劉備や五虎将軍の死後、諸葛孔明の北伐から蜀漢滅亡にかけて活躍した人物が多く、小説でも読み飛ばしてしまうため記憶に残らなくなっています。
例として、文官の像を幾つか載せておきます。
蒋えん公えん
諸葛亮が五丈原で死ぬ前に、後継にと指名され、丞相大将軍となり、その後蜀の地の防衛にあたりました。
芝伯苗陳(左)と震考起(右)
いよいよ劉備にご対面。
額に書かれた「業紹高光」は、劉備が高祖・劉邦と光武帝・劉秀の帝業を受け継ぎ奮い起こしたという事を意味しています。
廟の前には、龍のレリーフが置かれ、この龍は皇帝を示す五本爪でした。
劉備像。黄金に塗られています。
武将や文官の像も含めて、武侯祠に置かれている像に個性が感じられないのは残念です。横山光輝の漫画「三国志」も、読み進めるうちに顔だけでは誰が誰か判らなくなってきますけど。
脇には、劉禅の子で劉備の孫でもある劉しんの像が置かれていました。
劉しんは、魏が蜀漢に侵攻してきた際、劉禅が降伏しようとしたのに対し、徹底抗戦を主張しましたが容れられず、宮中からしめ出されてしまい、その後、昭烈皇帝(劉備)の廟前で、己の首を刎ねて自害しました。
なお、ここに並んでいて当然と思われる劉禅の像はありません。
劉禅は、劉備に次いで蜀漢の第二代皇帝になりましたが、魏軍に降伏して国は滅びました。劉禅自身は、洛陽に移されて安楽公に封じられて生涯を終えました。
劉禅については、「扶不起的阿斗(助けようのない阿斗)」として、「どうしようもない人物」を意味することわざになっています。(阿斗は、劉禅の幼名)
これは、以下のようなエピソードがもとになっています。
宴席で蜀の音楽が演奏されて、蜀の旧臣が落涙していたときにも劉禅は笑っていた。それを見た司馬昭は、「人はここまで無情になれるものなのか。諸葛亮が補佐し切れなかったのであるから、姜維には尚更無理であったであろう」と賈充に語った。また、司馬昭が劉禅に「蜀を思い出されることでござろうな」と尋ねたところ「ここの暮らしは楽しいので蜀を思い出すことはありませぬ」と答えた。これには家来のみならず、列席していた将たちさえも唖然とさせられた。
かつて、劉禅の像は成都の武侯祠に存在したといいます。しかし、嫌悪されること甚だしく、その像は何度も破壊と再建が繰り返されて、現在は無くなっています。
とにかく、劉禅は嫌われており、光栄のゲームの登場人物の能力値でも、最下位キャラになっています。
阿斗(劉禅)は、長坂(ちょうはん)の戦いで趙雲に抱かれて助けられたのが、一番の見せ場でしたね。
右手の脇堂に収められているのは、関羽像。武将としてのイメージと違いますが、神様扱いになっているためです。
左側が関羽の次男の関興。右側が元は山賊で関羽に付き従った周倉。
左側が、荊州で関羽と共に呉軍に処刑されてしまった関羽の養子の関平。右側が荊州において関羽の配下にあった趙累。
劉備の左手には、張飛、張苞、張遵の像が置かれているはずなのですが、残念ながら工事中で見られませんでした。
青羊宮の前を通りました。
青羊宮は、起源を周代(BC1046年頃~BC256年)に遡ることのできる、成都で最も大きな道観(道教寺院)です。その名前は、老子が青い羊に乗ってやってきてここで教えを説いたことからきているといいます。
残念ながら見学は無し。
なんとか武侯祠の見学を行えることになりました。時間はすでに17時過ぎ。
入口の額には、「漢昭烈廟」と書かれています。これは、入り口に劉備玄徳のおくり名「昭烈帝」に由来しています。
ここには劉備玄徳を祀る「漢昭烈廟」だけがありましたが、約600年前の明の時代に、諸葛孔明死後のおくり名「忠武侯」に因んでつけられ「武侯祠」が加えられて、一般に武侯祠と呼ばれるようになりました。
これは、劉備玄徳よりも諸葛孔明の方が人気が高いことによるといいます。
入口を入ると、奥にライトアップされた像が見えてきました。
通路の左右に設けられた石碑を収めたお堂が設けられていました。
右手は、809年建立の唐碑。正式には「蜀丞相諸葛武侯祠堂碑」といい、文章は裴度、書法は柳公綽、彫刻は魯建と、当時の名匠達によるもので、文章、筆跡、石彫のすべてが優れていることから「三絶碑」と呼ばれます。
左は、明碑。1547年建立。石碑には諸葛孔明の生涯の事績が書かれています。なお、碑を乗せているのは、亀ではなく竜とのこと。
二門をくぐります。
二門をくぐって、ありゃーと残念に思ったのは、劉備殿の前の左右に広がる回廊のうち、左手が工事中だったことです。この回廊には、武官の像と出師表があるので、是非とも見たいと思っていました。
壁には写真が掲示されていたのでこれで我慢することにしました。
筆頭は趙雲子龍の全14体。
いずれ再訪した時の覚えに、以下も記しておきましょう。
孫乾公祐
張翼伯恭
馬超孟起
王平子均
姜維伯約
黄忠漢升
廖化元倹
向寵
傅僉
馬忠徳信
張嶷伯岐
張南文進
馮習休元
小説やゲームでも馴染みのない名前があります。
馬超孟起
一応、五虎将軍は載せておきましょう。
黄忠漢升
五虎将軍の一人です。
姜維伯約
諸葛孔明の後継者として蜀を守って魏と戦いましたが、劉禅降伏による蜀漢の滅亡後に反乱を企てましたが、計画が失敗して殺害されました。姜維は、実際には内政をかえりみずに北伐に入れ込んで蜀の滅亡を早めたという評価もありますが、三国志演義では諸葛孔明亡き後の後継者として活躍しています。
蜀の武将として名の通っている一人に魏延が挙げられますが、三国志演義でもなにかと諸葛孔明に背いた因縁のある人物として描かれているので、省かれていて当然ともいえるでしょう。
向かって右手の回廊には、文官の像が並んでいます。武官の方に入っていた孫乾公祐はむしろこちらと思うのですが。できたら文官の回廊の方が工事中であって欲しかった。
文官は、筆頭をほう統士元(左)とする全14体。
ほう統士元は、「臥竜(がりょう)」と呼ばれた諸葛亮に対して、「鳳雛(ほうすう)」と称せられた名軍師ですね。「落鳳坡」において、早い時期に戦死してしまったのは残念です。
以下は
簡雍憲和(写真右)
呂凱季平
傳とう
費い文偉
董和幼宰
とう芝伯苗
陳震考起
蒋えん公えん
董允休昭
秦ふく子ちょく
楊洪季休
馬良季常
程畿季然
武官以上に文官は知らない名前が並んでいます。これらを含めて、武侯祠に祀られている人物は、三国志検定の代わりになりそうです。
これらの知らない名前の多くは、劉備や五虎将軍の死後、諸葛孔明の北伐から蜀漢滅亡にかけて活躍した人物が多く、小説でも読み飛ばしてしまうため記憶に残らなくなっています。
例として、文官の像を幾つか載せておきます。
蒋えん公えん
諸葛亮が五丈原で死ぬ前に、後継にと指名され、丞相大将軍となり、その後蜀の地の防衛にあたりました。
芝伯苗陳(左)と震考起(右)
いよいよ劉備にご対面。
額に書かれた「業紹高光」は、劉備が高祖・劉邦と光武帝・劉秀の帝業を受け継ぎ奮い起こしたという事を意味しています。
廟の前には、龍のレリーフが置かれ、この龍は皇帝を示す五本爪でした。
劉備像。黄金に塗られています。
武将や文官の像も含めて、武侯祠に置かれている像に個性が感じられないのは残念です。横山光輝の漫画「三国志」も、読み進めるうちに顔だけでは誰が誰か判らなくなってきますけど。
脇には、劉禅の子で劉備の孫でもある劉しんの像が置かれていました。
劉しんは、魏が蜀漢に侵攻してきた際、劉禅が降伏しようとしたのに対し、徹底抗戦を主張しましたが容れられず、宮中からしめ出されてしまい、その後、昭烈皇帝(劉備)の廟前で、己の首を刎ねて自害しました。
なお、ここに並んでいて当然と思われる劉禅の像はありません。
劉禅は、劉備に次いで蜀漢の第二代皇帝になりましたが、魏軍に降伏して国は滅びました。劉禅自身は、洛陽に移されて安楽公に封じられて生涯を終えました。
劉禅については、「扶不起的阿斗(助けようのない阿斗)」として、「どうしようもない人物」を意味することわざになっています。(阿斗は、劉禅の幼名)
これは、以下のようなエピソードがもとになっています。
宴席で蜀の音楽が演奏されて、蜀の旧臣が落涙していたときにも劉禅は笑っていた。それを見た司馬昭は、「人はここまで無情になれるものなのか。諸葛亮が補佐し切れなかったのであるから、姜維には尚更無理であったであろう」と賈充に語った。また、司馬昭が劉禅に「蜀を思い出されることでござろうな」と尋ねたところ「ここの暮らしは楽しいので蜀を思い出すことはありませぬ」と答えた。これには家来のみならず、列席していた将たちさえも唖然とさせられた。
かつて、劉禅の像は成都の武侯祠に存在したといいます。しかし、嫌悪されること甚だしく、その像は何度も破壊と再建が繰り返されて、現在は無くなっています。
とにかく、劉禅は嫌われており、光栄のゲームの登場人物の能力値でも、最下位キャラになっています。
阿斗(劉禅)は、長坂(ちょうはん)の戦いで趙雲に抱かれて助けられたのが、一番の見せ場でしたね。
右手の脇堂に収められているのは、関羽像。武将としてのイメージと違いますが、神様扱いになっているためです。
左側が関羽の次男の関興。右側が元は山賊で関羽に付き従った周倉。
左側が、荊州で関羽と共に呉軍に処刑されてしまった関羽の養子の関平。右側が荊州において関羽の配下にあった趙累。
劉備の左手には、張飛、張苞、張遵の像が置かれているはずなのですが、残念ながら工事中で見られませんでした。