さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 アユタヤー その1

2011年08月19日 | 海外旅行
アユタヤーは、バンコクの北約80kmにあり、チャオプラヤー川とその支流に囲まれた古都です。1350年から417年間みわたり、35代の王がアユタヤー王国を治めました。

タイの歴史をまとめると以下のようになります。

スコータイ王朝(12~15世紀)
 それまではクメール帝国(カンボジアの元になります)の支配下でしたが、クメール帝国の衰退によって、タイ人国家が生まれます。

アユータヤー王朝(1350~1767年)
 河川を利用した貿易によって栄えますが、ビルマの侵攻によって王都のすべてが破壊されてしまいます。

トンプリー(タークシン)王朝(1767~1782)
 ビルマによって占領されたアユタヤーをビルマ軍から奪回したのが、猛将として知られたタークシンです。破壊されたアユタヤーに見切りをつけて、南方80kmのトンプリーに都を移します。ところが、晩年は強度の精神錯乱状態に陥り、寺院に幽閉され、最後は処刑されてしまいます。

チャクリー王朝(1782年~現在)
 タークシンを処刑したチャクリー将軍は、後継者となり、ラーマ1世を名乗ります。ラーマ1世は、それまでの都のトンプリーから、チャオプラヤー川の東岸に新しい都を築き、これがバンコクの始まりになります。

アユタヤーの遺跡は、世界遺産に登録されており、バンコク観光の際にもこの古都の観光は欠かせません。

1時間半ほどで到着したアユタヤーは、バンコクと違って小さな田舎町でした。



アユタヤーの街に入ると、Japanese Villageという標識が置かれていました。

これは日本人町跡を示しています。16~17世紀のアユタヤーには、中国や近隣アジアの他に、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスといったヨーロッパの国々からの商人が集まってきていました。アユタヤー王朝は、外国人に居留地を与えましたが、そのようにできた町の一つに、日本人町がありました。

徳川家康の時代には御朱印船貿易で栄え、最盛期には1500人の日本人が生活したといいます。その多くは、交易や傭兵で働きましたが、その中でも有名なのが山田長政です。

山田長政は、駿河出身といわれ、御朱印船に乗って台湾を経て当時はシャムと言われたアユタヤーに流れ着きました。その素性は、武士階級であったかもはっきりしない人物です。傭兵として頭角を現し、日本人町の棟梁を務めます。河川貿易の税金徴収権を握ったことから勢力をのばし、地方長官まで上り詰めますが、王位継承の争いに巻き込まれて、最後は毒殺されてしまいます。日本人町は、徳川の鎖国令による御朱印貿易の終わりに伴い消滅してしまいます。

山田長政の生涯については、白石一郎著「風雲児」で読むことができます。

現在、日本人町には碑が置かれているようですが、残念ながらこのツアーでは寄ってくれませんでした。



チャオプラヤー川は茶色に濁っていました。タイの8月は雨季で、毎日のようにスコールが襲ってきました。

なお、チャオプラヤー川は、以前はメナム川と呼ばれることが多く、その方が通りが良いかもしれません。この川は、現地では「メーナーム・チャオプラヤー」と呼ばれています。「メナム」は川を意味するのに、「メナム」を川の固有名であると誤認したことによるものであったため、現在では「メナム川」と呼ばれることはほぼ無くなっています。



昼食は、チャオプラヤー川の川岸にあるレストランでとりましたが、そこのテラスから川の眺めを楽しみました。



対岸には、寺院が見えていました。


寺院は、タイならではの造りです。



庭には南国の花が咲いていました。





マンゴーも庭の木になっていました。

昼食も終えて、いよいよアユタヤー観光が始まります。
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