さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
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さすらいの風景 北京 その6

2011年06月05日 | 海外旅行
紫禁城内廷の乾清殿の左右には、西六宮や東六宮と呼ばれる後宮が並んでおり、明代の一番多い時期には、宮女が9000人、宦官が10万人いたといいます。紫禁城の部屋の数は、清代には、およそ9000ありました。

後宮一帯は、現在は違うようですが、訪問時は公開されていなかったので、奉先殿を訪れました。

奉先殿は、皇帝が先祖の霊の祭祀を執り行う場所でした。



現在、奉先殿は鐘表館(時計館)として利用されています。



精緻な作りの時計で、当時は珍重された様子がうかがわれます。



時計は、中国で製造されたものの他に、フランス、イギリス、スイスなどで製造されたものがあります。



ただ、紫禁城の持ち運べる宝物は、蒋介石によってすべて台湾に持ち去られ、現在では台北の故宮博物院に展示されています。北京の紫禁城に残された宝物は、故宮博物院のものに比べると見劣りがします。



内左門

ここから内廷の斎宮や後宮の東六宮に進むことができます。



この赤壁に挟まれた長い通路は、映画「ラストエンペラー」で、溥儀が自転車に乗って走った場面で登場しましたね。

現在では、北にある出口への近道として歩くことになります。



奉先殿を出て東に進むと、九龍壁があります。

長さ29.4m、高さ3.5mの巨大な瑠璃装飾の壁です。九匹の龍が宝珠と戯れるさまが描かれています。





竜の爪は、その位によって本数が異なり、中国の龍は五本で描かれ、皇帝の持ち物にしか使われませんでした。この龍の爪は、中央から離れていくにつれて少なくなり、韓国では四本。日本では三本で描かれるのが暗黙のルールになっていました。琉球の龍は四本あるようですが、まだ訪れたことがありません。



それぞれの龍は、怖いというよりは、どこかユーモラスな顔をしています。





九龍壁の奥に進むと、皇極殿に出ます。皇極殿は、乾清殿を模しています。

皇極殿は、乾隆帝が60才で息子に帝位をゆずった後に隠居するために建てましたが、実際には89才で死ぬまで政権を手放しませんでした。



皇極殿の背後の寧寿宮は、珍宝館になっており、このような皇帝の衣装も展示されていました。



京劇の舞台である三層の建物の暢音閣

西太后は京劇好きだったので、ここで演じられる舞台を見たのでしょうね。浅田次郎著「蒼天の昴」で、宦官になった春児が京劇の舞台を見事に演じて西太后に見いだされる場面に登場します。



内廷の北東の隅に珍妃井があります。浅田次郎著「珍妃の井戸」として小説にもなっています。

光緒帝は、3才の時に西太后によって擁立され、実権は西太后に握られていました。成人になった光緒帝は、日清戦争の敗北など、中国の衰退を嘆いて、自らの親政により清の中興を成し遂げようとします。光緒帝は、1898年に、戊戌の変法と呼ばれる体制の抜本的な改革を宣言します。しかしあまりにも急進的な改革に宮廷は混乱し、保守派の西太后は、巻き返しのクーデターを起こして、光緒帝を幽閉してしまいます。

義和団の乱が勃発し八ヶ国連合軍が北京に迫ると、西太后は光緒帝を連れて西安まで落ち延びます。その際に、光緒帝が愛した側室珍妃が、井戸に投げ込まれて殺害されるという事件がおこります。

その現場になったのがここで、珍妃井と呼ばれるようになっています。

西太后の命令によって殺害されたという説が一般ですが、誰が殺したかについての謎は残されています。
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