船に戻って、次はティップトップ島に向かいました。
スンソット洞からそう遠くないところにティップトップ島がありました。
ティップトップ島の頂上には東屋があり、そこからの眺めを楽しむことができるようです。
島に上陸すると、ティップトップ島の碑が置かれていました。島の名前は、島を訪れたソ連の宇宙飛行士の名前に由来するようです。
島には砂浜ができており、展望台を目指さない観光客は、この砂浜からの眺めを楽しむことになります。
頂上まで、470段の階段登りが続きます。一気に上がるのは、山登りの体力が必要でした。途中にも展望台があるので、体力の無い人は、そこまでになるようです。
島の頂上からは、眼下にハロン湾の眺めが広がりました。
東屋の中を移動して四方の眺めを楽しみました。
下る途中、中間地点の展望台からも眺めてみました。高度感は少し減りましたが、足が弱い人ならば、ここからの眺めでも充分楽しめるでしょう。
最後に砂浜から眺めを楽しみました。
船に戻ると、昼食の用意ができていました。ハロン湾ツアーでは、船内で昼食が出されるのが普通のようです。
蒸し蝦。写真は四人用です。
アサリ蒸し。
渡り蟹のムニエル
スープ
ご飯
焼き春巻き
イカの煮物
煮魚
茹でたモヤシ
デザート
船上での調理のため、果物といえども生ものは出せないようです。
食事を終えると、港も近づいてきていました。
平和に見えるハロン湾ですが、ここはベトナムにとって重要な闘いの舞台になっています。
ベトナムは、漢の時代から中国の支配が続きましたが、907年の唐の滅亡後は反中国勢力が力をつけていきます。938年ゴ・クエン(呉権)のひきいるベトナム防衛軍は、南漢の大軍を、ハロン湾に流れ込む最大の川のバグダン江の河口部で待ち受けます。ゴ・クエンの兵は、あらかじめバグダン江の水面下に先端を鉄で覆った杭を差し込んで罠をしかけました。ゴ・クエンの兵は、底の浅い小舟に乗って南漢の戦軍に戦を挑みますが、かなわぬと見せかけて上流に逃げ、南漢軍に追撃させます。潮が引くと南漢の軍船は行動不能になり、転覆する船も出ました。ここぞと、ゴ・クエン軍は反撃に出て、総大将であった南漢王の息子の総大将を殺害してしまいます。このバグダン江の戦いの勝利によって、ベトナムは独立し、最初の呉王朝が誕生します。
ベトナムの王朝は短命で、中国の勢力が増すとその支配下にはいり、勢力が弱まると王朝が誕生するということが繰り返されました。
元の三度に及ぶ進攻が、チャン(陳)朝の時代に起きました。二度までは、ゲリラ戦と食料を隠す作戦によって撃退させたものの、三度目は、元は陸上と海上からの大軍を整えて進攻を開始しました。この三度目のベトナム進攻を優先したため、日本への三度目の攻撃は中止になったといいます。チャン軍が、元の補給艦隊の攻撃によって食料と武器を奪うことに成功したことよって、元軍は撤退を開始しました。元軍がバクダンエを下ってくるのを、チャン軍は、ゴ・クエンの作戦に習って、川に杭を設けて待ち受けました。潮がひき、杭で妨げられて動けなくなった元の軍船を、両岸で待ち構えた軍も加わって攻撃し、大勝利を勝ちとりました。このバクダン江の勝利によってベトナムは救われました。
ハロン湾と桂林の風景は似ていますが、桂林が川沿いの線であるのに対し、ハロン湾は海上にあって面で広がっているためより変化に富んでいます。
スンソット洞からそう遠くないところにティップトップ島がありました。
ティップトップ島の頂上には東屋があり、そこからの眺めを楽しむことができるようです。
島に上陸すると、ティップトップ島の碑が置かれていました。島の名前は、島を訪れたソ連の宇宙飛行士の名前に由来するようです。
島には砂浜ができており、展望台を目指さない観光客は、この砂浜からの眺めを楽しむことになります。
頂上まで、470段の階段登りが続きます。一気に上がるのは、山登りの体力が必要でした。途中にも展望台があるので、体力の無い人は、そこまでになるようです。
島の頂上からは、眼下にハロン湾の眺めが広がりました。
東屋の中を移動して四方の眺めを楽しみました。
下る途中、中間地点の展望台からも眺めてみました。高度感は少し減りましたが、足が弱い人ならば、ここからの眺めでも充分楽しめるでしょう。
最後に砂浜から眺めを楽しみました。
船に戻ると、昼食の用意ができていました。ハロン湾ツアーでは、船内で昼食が出されるのが普通のようです。
蒸し蝦。写真は四人用です。
アサリ蒸し。
渡り蟹のムニエル
スープ
ご飯
焼き春巻き
イカの煮物
煮魚
茹でたモヤシ
デザート
船上での調理のため、果物といえども生ものは出せないようです。
食事を終えると、港も近づいてきていました。
平和に見えるハロン湾ですが、ここはベトナムにとって重要な闘いの舞台になっています。
ベトナムは、漢の時代から中国の支配が続きましたが、907年の唐の滅亡後は反中国勢力が力をつけていきます。938年ゴ・クエン(呉権)のひきいるベトナム防衛軍は、南漢の大軍を、ハロン湾に流れ込む最大の川のバグダン江の河口部で待ち受けます。ゴ・クエンの兵は、あらかじめバグダン江の水面下に先端を鉄で覆った杭を差し込んで罠をしかけました。ゴ・クエンの兵は、底の浅い小舟に乗って南漢の戦軍に戦を挑みますが、かなわぬと見せかけて上流に逃げ、南漢軍に追撃させます。潮が引くと南漢の軍船は行動不能になり、転覆する船も出ました。ここぞと、ゴ・クエン軍は反撃に出て、総大将であった南漢王の息子の総大将を殺害してしまいます。このバグダン江の戦いの勝利によって、ベトナムは独立し、最初の呉王朝が誕生します。
ベトナムの王朝は短命で、中国の勢力が増すとその支配下にはいり、勢力が弱まると王朝が誕生するということが繰り返されました。
元の三度に及ぶ進攻が、チャン(陳)朝の時代に起きました。二度までは、ゲリラ戦と食料を隠す作戦によって撃退させたものの、三度目は、元は陸上と海上からの大軍を整えて進攻を開始しました。この三度目のベトナム進攻を優先したため、日本への三度目の攻撃は中止になったといいます。チャン軍が、元の補給艦隊の攻撃によって食料と武器を奪うことに成功したことよって、元軍は撤退を開始しました。元軍がバクダンエを下ってくるのを、チャン軍は、ゴ・クエンの作戦に習って、川に杭を設けて待ち受けました。潮がひき、杭で妨げられて動けなくなった元の軍船を、両岸で待ち構えた軍も加わって攻撃し、大勝利を勝ちとりました。このバクダン江の勝利によってベトナムは救われました。
ハロン湾と桂林の風景は似ていますが、桂林が川沿いの線であるのに対し、ハロン湾は海上にあって面で広がっているためより変化に富んでいます。