
インド人街の外れに中国風建物の潮州会館がありました。広東省東部の潮州出身者によって1870年に建てられました。

門の脇には、美しい絵が飾られていました。

隣の建物の屋根には、うだつが設けられていました。

マスジット・カピタン・クリン通りに出ると、カピタン・クリンモスクが現れましたが、この見学は後回しにして先に進みました。

続いて現れたのは、ヤップ・コンシー(叶公司)。福建省出身のヤップ一族の霊廟です。

屋根の上には、龍の飾りが置かれていました。

アチェ・ストリート・モスクのミナレットが見えてきましたが、その手前で左折。
アチェ・ストリート・モスクは、インドネシアのスマトラ島からの裕福なアラブ人移住者によって1808年に建てられました。

クー・コンシー(邸公司)の見学を行いました。クー・コンシー(邸公司)は、中国の福建省からやってきた邸一族が建設した中国寺院です。19世紀に建てられましたが、火事で焼失し、1906年に再建されました。

この寺院も見事な屋根飾りが置かれていました。
中央の旗を持った老人が誰か気になります。中国の明・清時代の建物には、その格に応じて数体の霊獣の像を並べる走獣と呼ばれる飾りが置かれます。その先頭には、鳳凰に乗った太公望が置かれますが、この飾り付けも太公望が変化したものではないだろうか。

尭天舜日とありますが、世の中が平和で穏やかなことを意味します。「尭」と「舜」はどちらも古代中国の伝説の聖天子のことで、尭帝と舜帝が国を治めた平和な年月ということに基づきます。
なお、龍の爪の数は、「神様の建物は四本爪」という中国の習わしに従っています。

これらの像には、装飾の他に、魔除けや火除けの意味があるのでしょう。

入口の脇の柱には、龍柱状の彫刻が施されていました。

また、笑った僧侶の像と。

顔をしかめる僧侶像が対になって置かれていました。

金ぴかの主祭壇。

龍山堂とあります。

天井部には、細かい彫刻が施されていました。


武将の絵。武将の名前を手掛かりに調べていくと、道教系の仙人の三十六神将と呼ばれるもののようです。

李仙姑。李仙女という意味です。


寺院の向かい側には舞台が設けられていました。

門の脇には、美しい絵が飾られていました。

隣の建物の屋根には、うだつが設けられていました。

マスジット・カピタン・クリン通りに出ると、カピタン・クリンモスクが現れましたが、この見学は後回しにして先に進みました。

続いて現れたのは、ヤップ・コンシー(叶公司)。福建省出身のヤップ一族の霊廟です。

屋根の上には、龍の飾りが置かれていました。

アチェ・ストリート・モスクのミナレットが見えてきましたが、その手前で左折。
アチェ・ストリート・モスクは、インドネシアのスマトラ島からの裕福なアラブ人移住者によって1808年に建てられました。

クー・コンシー(邸公司)の見学を行いました。クー・コンシー(邸公司)は、中国の福建省からやってきた邸一族が建設した中国寺院です。19世紀に建てられましたが、火事で焼失し、1906年に再建されました。

この寺院も見事な屋根飾りが置かれていました。
中央の旗を持った老人が誰か気になります。中国の明・清時代の建物には、その格に応じて数体の霊獣の像を並べる走獣と呼ばれる飾りが置かれます。その先頭には、鳳凰に乗った太公望が置かれますが、この飾り付けも太公望が変化したものではないだろうか。

尭天舜日とありますが、世の中が平和で穏やかなことを意味します。「尭」と「舜」はどちらも古代中国の伝説の聖天子のことで、尭帝と舜帝が国を治めた平和な年月ということに基づきます。
なお、龍の爪の数は、「神様の建物は四本爪」という中国の習わしに従っています。

これらの像には、装飾の他に、魔除けや火除けの意味があるのでしょう。

入口の脇の柱には、龍柱状の彫刻が施されていました。

また、笑った僧侶の像と。

顔をしかめる僧侶像が対になって置かれていました。

金ぴかの主祭壇。

龍山堂とあります。

天井部には、細かい彫刻が施されていました。


武将の絵。武将の名前を手掛かりに調べていくと、道教系の仙人の三十六神将と呼ばれるもののようです。

李仙姑。李仙女という意味です。


寺院の向かい側には舞台が設けられていました。